シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

「貧困」と「格差」は全く違うというお話

こんにちは!

前回の投稿から1年以上経ってしまいました(笑)
やっぱりこういうのは性格が出ますね…。
それと、貧困支援活動の現場に身をおいていると、世間の皆さんに知ってほしいことや現状みたいなものに日々「出会う」一方で、それらを整理して理性的に俯瞰する…という作業はなかなか進まないというか、骨が折れるのだなと痛感しております。。。

とはいえ、今の職場で働きだして約1年半。そろそろちょっとずつ慣れてきたので、「社会の在り方や貧困に関する自分の考えを俯瞰して整理する作業」もきっちりやっていこうと思います。2018年の目標です(笑)

そんなわけで、さしあたり今年、「貧困をめぐる議論への違和感」に向き合おうと思っとります。
近年、国内の「貧困」をめぐって議論が活発にされるようになってきてますが、問題提起する側とそれに反発する側の主張がうまくかみ合っていないなと思うことも多く、そのあたりをちょっとずつ整理していきたいなーと思うわけです。

貧困を是正しようというと、なかなかの確率で返される反論「共産主義じゃうまくいかない」…への違和感

「貧困の問題が深刻なので社会的になんとかしましょう」というと、なかなかの確率で「そうは言ったって共産主義はうまくいかないでしょ?」と返されます。

こう返されるたびに私は、「貧困と格差/(所得の)不平等の区別がまだまだ日本では認識されていないのだな~」と感じます。
というのも、「貧困の是正を目指す」イコール「格差・(所得の)不平等を解消する」というわけではないからです。

ここで声を大にして申し上げておきたいのですが……

「貧困」は、「(所得の)不平等」や「格差」とは全く異なる概念です。

語弊を恐れずに言えば、私は、「貧困」は絶対に是正されなくてはならないと考えていますが、「(所得の)不平等」や「格差」がなくなるべきかどうかは一概に言えんと思っています。

何故なら、「格差がない」というだけの条件では、これが良い社会かどうかは分からないからです。

ここで、
格差は大きいけれど構成員全員がそこそこ幸せな暮らしを営むことができている社会Aと、構成員の全員が餓死すれすれの社会Bを考えてみてください。

この時、社会Aと社会Bではどちらのほうが「良い」社会でしょう?
恐らくほとんどの人は社会Aを選ぶのではないでしょうか?
それでは、なぜ私たちは社会Bより社会Aのほうが「良い」社会であると考えるのでしょうか?

それは、「餓死すれすれ」という状態が、私たちの「あってはならない」という直観と整合的だからでしょう。
この、「『あってはならない』状態かそうでないかというギリギリのラインを割っているかどうか」という点こそ、貧困と格差の違いです。

このことをより分かりやすくするために下の絵が役に立ちます。

f:id:cbyy:20180225113121p:plain

ここに、(多分、ズムスタで)野球を観戦している3人の人がいます。しかし、一番左と真ん中の2人は実際に試合をみることができていますが、一番右の1人は全くみることができていません。更に、試合を観ることができている2人は、「高い位置から見る事ができているか、ぎりぎり観る事ができているか」という違いがあります。
 この時、「試合をみる高さ」という視点から考えると、一番左の人と真ん中の人の状態は不平等(格差がある)です。しかし、両者とも試合をみることができているのでこの2人の間にある不平等が「問題である」といってよいかどうかは定かではありません。しかし、一番右の人はまったく試合をみることができていないわけですから、最低限のラインを下回っている=「問題である」と認識されるというわけです。

また、この絵の面白いところは、社会の富を額面上で「平等」に分配しても、実質的な意味では格差も貧困もなくならないことを示しているところです。

3人が乗っている台の高さを所得だと考えてみてください。
すると、この3人で構成されている社会は、所得の面では完全に平等な社会です。
しかし、3人は背の高さに違いがあるため実質的な生活内容には違いが生まれていることが分かります。

私たちがある生活を営むために必要となる所得は個人の個体差によって変わってきます。例えば、健康なAさんがそこそこの生活を送るうえで年間200万円必要な社会を想像して下さい。この社会で何らかの病気を患っているBさんが、Aさんと同様のそこそこの生活を送るために必要な所得はいくらになるでしょうか?明らかに200万円では足りません。何故なら、BさんはAさんと比べると病気の治療費が余分に必要となるからです。

目指すべきは、何の平等か?

 こうした例を考えれば、僕たちが「平等」について考えるとき、「何の平等か」というのは非常に大切な論点です。
今回、以下の3つの「平等」について確認してきました。
・所得(3人が乗っている台の高さ)の平等
・生活水準(試合をみる高さ)の平等
・「そこそこの生活を営む」(試合をみることができるかどうか)平等   

私が「貧困を是正するために再分配をしっかりしましょう」という時、想定されているのは「そこそこの生活を営む」平等であり、所得の平等でも生活水準の平等でもありません。

「そこそこの生活を営む」平等が達成されているのであれば、私は所得格差や生活水準の格差がどれだけ大きくても(さしあたり)問題はないと考えます。

とはいえ、これは理屈上の話であり、実際の社会では所得格差の大きい国ほど貧困率も高いことが指摘されています。まあ、当然と言えば当然ですよね。所得格差が大きいということは再分配があまり熱心に行われていないということですから、「あってはならない」ギリギリのラインを割っている人の数も多くなることは容易に想像ができます。試しに上の絵で、全員が「そこそこの生活を営む」平等を達成するために再分配をしてみましょう。

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この3人で構成される社会では全員が「そこそこの生活を営む」平等を達成するまで再分配を行うと、結果的に貧困だけでなく、再分配前で一番左と真ん中の人の間にあった生活水準の格差も是正されていることが分かります。

ただ、これは今回のケースで「結果的にそうなった」という話にすぎないのであって、
生活水準の格差(試合を見る高さの不平等)を是正することを目指したわけではありません。
また、所得格差という点からすると、今度は一番左の人と一番右の人で大きな所得格差が生じています。しかし繰り返しますが、ここで目指したのは「そこそこの生活を営む」平等なので、こうした格差は問題だとはされないということです。

格差社会といた言葉や貧困という言葉がメディアで取り上げられる機会が近年増えてきましたが、そこで問題となっている平等、不平等とは「何の」平等、不平等なのか?目指されるべきは何の平等なのか?こういった点をきちんと整理したうえで議論しなければ、あまり建設的な話にはならないということですね。

今日の話をもう少し学術的にみてみたいという方には、立岩真也の『自由の平等』をお勧めします!

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それでは、(多分)また来週・・・!(笑)

脱!貧困が個人の責任なのか社会の責任なのかという不毛な議論~「どっちでもいいじゃん」という「第三の道」~


お久しぶりです!
前回の投稿から100日近く経ってしまいました。

実はこの間、私は就職・引っ越し……とバタバタしておりました。
これからまた、ちょっとずつ投稿していこうと思います。

さて、今日は前回に引き続き、「労働能力・意欲」と最低生活保障の関係について、これまでとはちょっと違う視点から考えてみようと思います。

これまで生活困窮者に対して「働かざる者食うべからず」という人の意見は、該当する生活困窮者が「働こうと思えばいつでも働ける状況にあること」を証明しなければ説得力を持たないと論じてきました。

でもって「働こうと思えば誰でもいつでも働ける状況」(=意欲次第で貧困から抜け出せる状況)というのは日本の景気が良かった時期(高度経済成長期、バブル景気、いざなみ景気)であっても実現していなかったことを確認しましたね!
cbyy.hatenablog.com

しかし、理屈の上では「ある仕事Aをするのに十分健康で、かつ仕事Aが用意されているにも関わらず、『働きたくない』という理由で働かない人」を想定し、この人物の最低生活を社会が保障する必要があるのか、と問うことはできます

おそらくこういった問を立てた時、上述したような人物を社会が助けるべきだと考える人はあまり多くないのではないでしょうか?
実際、貧困を問題視する立場であっても、「貧困がいかに社会的なものとして生じているか」を強調するケースが多く、「働きたくなくて働いていない人」や「本人の努力不足と認識しうる人」を想定することはあまりありません。僕は、ここに貧困を問題提起する人たちの(ある種の)「わきの甘さ」があるように思えてならないです。なぜなら、社会保障不要論を唱える人の多くは、「個人の責任で貧困にある人」の存在を想定し、こうした人を救済することに反対しているように思えるからです。
個人的責任による貧困と社会的責任による貧困が存在すると信じている人に対し、貧困の原因は個人的なものではなく社会的なものなのだと応答し続けるというのはあまり建設的ではないように思います。
両者の議論を前に進めるためには、「貧困は自己責任か、社会の責任か」という問いをめぐって争うのをやめることだと思います。
というのも「完全に個人的な責任による貧困」「完全に社会的な責任による貧困」といったものを同定しようとすること自体が、そもそも不可能だからです。

例えば貧困状態にあるAさんとそうでないBさんがいたとします。この時、「Aさんが貧困状態にあるのはAさんの努力がBさんよりも足りなかったからだ」として、Aさんが貧困状態にあることの原因をAさんの努力不足に求める主張は、貧困が社会問題として取り上げられる際かなりの頻度で耳にします。

しかし、上の「Aさん自己責任論」は、AさんとBさんにはそれぞれ生まれながら全く同じ条件が与えられているという前提がなければ説得力を持ちません。なぜならたまたま貧困家庭に生まれたAさんは義務教育以外何の教育も受けなかったのに対し、たまたまお金持ちの家庭に生まれたBさんは小さい頃から英才教育をバンバン受けていた……という場合、AさんがBさんと同じ能力や社会的地位を獲得するためには、BさんよりもAさんが努力しなければならないのは明らかだからです。そしてこの場合、AさんはBさんの何倍の努力をしていたにも関わらず、Bさんより低い業績しか達成できない、ということは十分あり得ます。

しかし現実の社会は個人の才能といった先天的なものから、家庭環境といった社会的なものを含め、一人ひとりがおかれた状況、与えられた条件というのは全く異なります。こうした様々な条件を統一しなければ、現在貧困状態にある人が本人の努力不足で貧困に陥っているとの説明は説得力を欠きます

一方、Aさんの貧困は100%社会に原因があると証明するためには、Aさんと同じような家庭や条件を与えられた人がみんな貧困に陥ってしまうことを証明しなければいけません。が、これも不可能な試みです。なぜなら、やはり全く同じ条件のもとに成長するという二者は現実的には存在しないからです。

実際、貧困であれそうでない状態であれ、現在ある個人がおかれた状況というのは社会構造と個人の主体的な行為の相互作用の蓄積であると理解するのが妥当なところです。

貧困を問題提起したい人の多くは貧困の自己責任的な側面を否定しますが、こうした取組は場合によっては貧困にある人々の首をしめることにすらなりかねません。なぜなら、「貧困を生み出すのは個人の責任ではなく社会構造に原因がある!」と強調すればするほど(貧困にある人に落ち度はなかったのかといった)、「自己責任の度合を問う社会的な視線」を尖鋭化させてしまうからです。そして繰り返しになりますが、「貧困の原因は100%社会構造の側にある」というのは事実認識として説得力を持ちません。立証が不可能だからです。

では、貧困を問題提起する際、重要なことは何か?

それは「最低生活を営む権利」が個人の意欲や努力などを条件として保障されるという発想を変える主張を行うことです。

貧困の自己責任的な側面を認めた上で、「本人に落ち度があるとしても、最低生活は無差別平等に保障すべきである」、と開き直ればよいのです。

そして、これはそれほど突飛な考え方ではありません。
というのも、僕たちの社会が基本的人権として認めているもののほとんどは、
本人の資質や性格や生活態度がどのようなものであれ無差別平等に保障されています

例えば、義務教育を受ける権利はいかなる理由でも剥奪されることはありません。
「○○さんは授業中寝てばかりいるので明日から登校を認めない」などと教師が言おうものなら大問題になりますよね?

また、選挙での投票権も年齢や国籍の条件を満たせば禁固以上の刑に処せられたりしない限り、生活態度がどのようなものであれ剥奪されません。

同様に生存権基本的人権ですから、理念的には「労働意欲や生活態度に関わらず、所得状況などの要件を満たす(=客観的な指標で生活に困窮していると判断される)場合は無差別平等に最低生活を保障する」こととされるわけです。

よく、「義務の伴わない権利はない」という人がいますが、その際の義務の内容や強制力というのは権利の種類によって大きく異なります。レストランで食事をとる権利はお金を払うという強力な義務(条件)とトレードオフな関係にありますが、基本的人権はそのような強い強制力を伴う義務が条件として課されることはないのです。これは、基本的人権は人が善く生きるうえで極めて重要、必要不可欠な要素であると理解されているためです。

実は、戦後直後の生活保護制度は「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という「欠格条項」というものがありました。しかしその後、上述した理由でこの条項は取り除かれ、(理念上は)文字通り無差別平等に保障するということになったという歴史があります。(岩永2011:49-79)

こうした理念を念頭におくと「働かざる者食うべからず」という意見は「食う」という基本的人権が「働く」という条件を前提としている時点で、最低生活保障の理念とは相いれないことが分かります。

条件つきでない権利というものをあまり考えたことがないという人にはあまり腑に落ちない話かもしれませんが、ちょっと思考をめぐらせてみれば意外とそういった権利は少なくないことに気付くかもしれません。

繰り返しますが、貧困を問題提起し社会保障の充実を目指す際、「貧困は自己責任ではない」と主張する必要なんて全くない。「自己責任だろうが社会の責任だろうが最低生活の保障はしっかりやりましょう」という立場をとって、基本的人権の性質について訴えていった方が絶対建設的だと私は思います。

長くなりましたが、今日はこのへんで失礼します。

日本の貧困は「働けるのに働いていない人の問題」だと言えるのか検証してみた

こんちわ!
以前、労働能力や労働意欲の有無といった個人の状態に関わらず貧困は生じるということが歴史的に実証されてきたという話をしました。
cbyy.hatenablog.com

それでは、そうした事象は日本でも確認されるのでしょうか?

 「働かざる者食うべからず」という意見が説得力を持つためには、「働けるのに働いていない」ということを科学的に立証する必要がありますね!今日はその実証を試みてみようと思います。(実証といってもここでは「稼働能力」の意味に関する整理などもしていないし、全ての地域の有効求人倍率などをみているわけではないので、あくまでも一つの視点を提供する……くらいのレベルのものですが)

まず、過去50年の有効求人倍率を見てみましょう。有効求人倍率

有効求人倍率=求人数(企業側の採用予定人員数)÷ 求職者(仕事を探している人)


で計算されるので、有効求人倍率が1を超えていれば、理屈上は仕事を探している(労働能力・意欲がある)人は全員がさしあたりの職にありつけるということになります。

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※縦軸:有効求人倍率 横軸:西暦
厚生労働省 職業安定業務統計 より永井が作成)

 このグラフを見ても明らかなように、日本は過去50年間のうちほとんどの時期において有効求人倍率は1を下回っています。有効求人倍率が1を超えているのは1967年から73年の高度経済成長期、89年から91年にバブル経済期、いざなみ景気の2007年といった好景気の時だけです。

つまり、少なくとも過去50年間のほとんどの時期において、日本は「働く能力があっても職にありつけない人が一定数存在する」国だったということになります。

それでは、有効求人倍率が1を超えている時期は、生活困窮者はいないのでしょうか?近年、「貧困を是正するために経済成長を!」という掛け声がよく聞かれますが、貧困率の推移を見ると、過去50年間相対的貧困率は10%前後で推移していることが分かります。

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※縦軸:貧困率(%) 横軸:西暦
橋本健(2013)『「格差」の戦後史』河出書房新社,227 より永井が作成

高度経済成長の頃に戻れば貧困はなくなると考える人も少なくないのですが、実はこうした考えはデータで支持されません。実際には好景気の時であっても生活困窮者は常に一定数存在していたのです。


これはちょっと不思議な感じがしませんか?全国平均の有効求人倍率が1を超えている時期にも関わらず生活困窮者がいるというのはどういうことなのでしょう?

勿論、生活に困窮する理由としては失業、健康上の問題などでそもそも労働能力がない、など人によって様々なので、貧困とされる10%のうちわけを詳しく見なければ、有効求人倍率貧困率の関係から意味のある説明を導くことはできません。

しかし、「有効求人倍率が1を超えても貧困状態にある人は、労働意欲がないために困窮しているにすぎないか、少なくともそうした人を一定数含んでいる」と仮説的に考えることはそれほど無理のある説明ではないし、実際にそのような理由から貧困是正策として経済成長が謳われている側面があることは否定できません。

そこで、ここからは「有効求人倍率が1を超えても貧困状態にある人は、労働意欲がないために困窮しているにすぎない」という説明が正当制を持ちうるかを検証してみましょう。

こうした説明を導くためには地域別の有効求人倍率についても検証しなければなりません。以下は北海道と沖縄の過去30年の有効求人倍率です。


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図1 北海道の有効求人倍率の推移 - 内閣府


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図2 沖縄の有効求人倍率の推移 - 内閣府



二つのグラフから明らかなように、全国平均で有効求人倍率が1を超えている時期でも、北海道と沖縄の有効求人倍率は低いままです。
つまり、有効求人倍率が全国平均で1を超えているかどうかを見ているだけでは働く条件が保障されているかを検証するには不十分だということです。
それでは、有効求人倍率が1を超えている地域であれば誰でも働きたい人は働けるのでしょうか?

2005年12月から2007年12月という比較的好景気だった東京都の有効求人倍率をみると、全体として(年齢計)は1を大きく上回っていることが分かります。しかし年齢別にみるとどの年齢階層でも1を超えているのは2007年12月だけです

\ 05年12月 06年4月 8月 12月 07年4月 8月 12月
年齢計  1.52 1.61 1.62 1.44 1.41 1.36 1.37
24歳以下 3.51 2.82 1.83 1.68 1.38 1.46 1.45
25~34歳 1.44 1.32 1.98 1.81 1.51 1.56 1.45
35~44歳 1.20 1.22 1.00 1.06 0.98 1.00 1.26
45~54歳 1.20 1.22 1.00 1.06 0.98 1.00 1.26
55歳以上 0.76 0.78 0.81 0.96 0.94 0.93 1.37
55~59歳 0.63 0.67 0.81 0.91 0.87 0.89 1.31
60~64歳 0.71 0.77 0.81 0.98 0.96 0.93 1.36


年齢別有効求人倍率の推移 バックナンバー | 東京労働局
より、永井作成


以上から……
日本の過去50年間において、「労働能力のある人全員が就ける仕事がある」という、「働かざる者食うべからず」という意見が多少でも説得力をもつ前提が成立したことは、極めて限られた時期の限定的な地域を除くとほとんど全くなかったということが分かります。
 よって、「本人の労働能力がどのようなものであれ貧困は社会構造上発生する」という、イギリスの「教訓」は日本にも当てはまるということになりますね!
 「給付を引き締めれば怠惰な貧困者は働くようになり、生活困窮者は減る」なんてことは絶対にないのであり、労働能力に関わらず生活困窮者は社会的に救済すべきだということが分かるかと思います。
 
さて、今日は「働く条件が整っているのか」という視点から最低生活保障の必要性について書きました。しかし、「働く条件が整っていようがいまいが最低生活は無差別平等に保障すべきである」という考えも存在します。
次回はこの点について考えてみたいと思っています!

よろしく、どーぞ。

生まれて初めて言います。今回ばかりは選挙行きましょう!(笑)

さて、日頃から研究の関係上政治参加について考える機会の多い僕ですが、ついこないだRCCの取材でも答えたように、

選挙に対する基本的な構えとしては、
「投票は政治参加の重要な手段の一つではあるけれど、その全てではない」であり、
投票に行くかどうかについて(自分は行くけど)他人にとやかく言うつもりはない

……というものです。

投票に行く行かないに関わらず、選挙結果には有権者全員が責任を有しているのであって、その責任に自覚的な人に対して「投票に行ってない」というだけの理由で政治的に未熟だと切って捨てるのはナンセンスだと思っています。

そんな僕が、今回は声を大にして言います。

皆、今回ばかりは投票に行きましょう!

それは、なぜか?

今回の選挙はただの参院選ではなく、改憲に関わる一次予選だからです。

ご存知の通り、現在の与党は改憲をしようとしています。

しかし「憲法を変える」ということがどういうことか、あまり分かってない人も多いのでは?と思います。普通の法律を変えるのと何が違うのでしょうか?ここを理解しておかなければ、今回の参院選が持つ意味は理解できないでしょう。
というわけで、僕なりの理解の仕方で……ですが、憲法を変えるということの意味について整理してみたいと思います。

立憲主義と民主主義の緊張関係

法律をつくったり変えたりするのは政治家(=為政者)の役割ですよね?僕たちの生活は様々な法律によって(良い悪いは別として)縛られるわけですが、これが許されるのは政治家が国民によって選ばれた国民の代表だからです。

これに対して憲法というのは「為政者がやらなければいけないこと/やってはいけないこと」を予め定めておいて、これに反する法律や政策はできないようにしておく……という性質のものです。

憲法が国の最高法規(=一番えらい法)と言われるのはこのためですね。

昨年の夏、安保法制案をめぐる議論のなかで盛んに「立憲主義」という言葉が語られました。当時よくなされた立憲主義の説明は、
 「立憲主義とは、憲法によって権力者を縛るという考え方」
というものでした。そして、本来権力者を縛るはずのものである憲法を軽視したということで昨年夏、与党による安保法制案の強行採決が「立憲主義に反する」と批判されたわけです。

しかし、考えてみれば与党を選んだのは私たち国民です。
それでは、仮に「国民から100%支持された、民意を完全に反映した政権」であっても、為政者は憲法に縛られるべきなのでしょうか?

答えは、イエスです。

立憲主義の考え方では、「民意を完全に反映した法案、政策であっても憲法に反するものは無効」というものです。つまり、ある意味、立憲主義は為政者だけでなく(国民主権を採用しているという意味で)日本の「権力者」である私たち有権者も縛っているといえるわけです。

ちょっと変な感じがしませんか?
それって民主主義の理念と対立するのでは……と思いません?

じゃあどうして一見、民主主義と対立するような立憲主義を、日本を含む多くの国は採用しているのでしょうか?

それは・・・・・・

一時の世論や社会的な感情の高まりによって、長い人類の様々な歴史の中で蓄積されてきた人智である平和の希求、基本的人権の尊重などが掘り崩されないように、どんな状況でも「これだけは絶対に守りましょう」という防波堤を予め構築しておく必要があると考えられているため
です。

実際、国民の選挙によって選ばれた政権が、人々の基本的人権を踏みにじる政策を行った例というのは枚挙に暇がありません。

(繰り返しになりますが)だからこそ、権力者、とりわけ為政者が「何があってもやってはいけないこと/やらなければならないこと」を憲法で予め決めておこうということになっているわけです。

憲法を変えるというのは、他の法律を変えるのとは全く違う意味を持つ

さて、そうはいっても「絶対に変えることのできないルール」なんて不自然極まりないですよね。時代に合わせてルールが変わっていくのはおかしなことではありませんし、むしろ既存のルールの正しさを妄信することの方が不健全だと思っています。何を隠そう、僕は改憲派です。(自民の改憲草案には断固反対ですが)

なので当然、憲法も変えることができるようになってます。

しかし!

憲法を変えるということは、長い人類の歴史的な経験の結果として蓄積された「基本的人権を守るためのルール」に変更を加えるということになるわけですから、「飲酒ができるのは18歳に変えましょう」なんていう単なる法律の変更とは、その重みが全く異なるわけです。

だからこそ、憲法を変える時には

第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。


という、ものすごい面倒くさい手続きを踏まないといけないことになってるわけです。

憲法変えるよ?衆院議員の皆さん、いいですか?いい?いいよね?過半数がいいって言ってもダメだよ?3分の2!いい?よっしゃ。じゃあ、参院議員の皆さんは?いい?3分の2……いい?よしよし。じゃあ、最後!国民の皆さん、いいですか?過半数……いいね?ほんまにいいんやね?よっしゃ!」

……とまあこれだけ念には念を押して「みんなで決めた」という確認がとれてはじめて憲法は変えることができるようになってるわけです。それだけ憲法というものは国のあり方の根幹に関わる重要なルールなんだという評価がされているというわけですね。

憲法を変えるということがどのくらいデカイことか分かって頂けたでしょうか?
よく「投票したって何も変わらない」という人がいますが、今回の選挙に限って言えば、それは大間違いです。今回の選挙次第では、今後の日本の根幹となるルールが大きく変わりうるのです。それは、日本を根底からつくり変える可能性を持つということです。

さて、参院選の予想ではこのままいくと改憲派の党で参議院議席3分の2が占められるようです。

まあ、それはそれでいいでしょう。
みんなが選んだ結果、「憲法改正の発議」→「国民投票」という流れで憲法のあり方をみんなで考えて決めて行けばいいわけですから。

自民党憲法改正草案は、単なる改憲ではなく立憲主義そのものを問い直すものになっている

一方で……

みんな、自民党憲法改正草案よんでますか??

constitution.jimin.jp


僕は自民党憲法改正草案をはじめて読んだとき、「マジか!!」と思いました。
それは何故かというと、自民党憲法改正草案は憲法立憲主義を事実上骨抜きにするものになっていると感じたからです。

改憲をめぐっては9条について活発に議論されていますが、これは「為政者が何があってもやってはいけないこと/やらなくてはいけないこと」の内容・リストをどう考えるか……という議論です。

しかし、自民党憲法改正草案では、この「為政者が何があってもやってはいけないこと/やらなくてはいけないこと」が記述されると同時に、国民の義務が強調され、これが基本的人権を制約する根拠となりうるような記述が非常に多いんです。

繰り返しますが、立憲主義の本来の理念は国民の基本的人権を保障するために「為政者がやってはいけないこと/やらなくてはいけないこと」をリスト化することで為政者を牽制することであって、国民の義務をリスト化し基本的人権を制約しうる条件を設けることではありません

これでは、自民党憲法改正草案が現実のものとなった場合、僕たちの国は(控えめに言っても)「立憲主義を部分的に放棄する」ことになると評価せざるをえません。

つまり、今回の参院選は、「憲法改正の一次予選」であると同時に、「日本が立憲主義を今後も採用するかどうかが問われる選挙」でもあるわけです。


改めて、言わせて下さい。

みんな、選挙行きましょう!

立憲主義そのものを問い直す選挙」なんていう、日本史上初のめちゃめちゃ大事な「まつりごと」に関われるなんてことは、この先の人生でなかなかあるものじゃないですよ。

それでも選挙には行かないという方、
せめて、自民党憲法改正草案の対比表を見てください。

僕からすると、「立憲主義をやめる」ということは、「集団的自衛権を認める」なんて比較にならないぐらい最悪です。生存権とか表現の自由とか、そういう基本的人権が保障されるという建前を失うわけですから。

でも勿論、立憲主義そのものをやめるべきだという意見の方もいるだろうと思う。
「草案よんだけど、ナガイが言うほど立憲主義に反してなくない?」と感じる人もいるでしょう。(っていうか、僕の杞憂であることをマジで望みます)

だからこそ、みんな、草案よんで、各々の意見もって、投票行きましょう!

昨年の夏、メディアで散々立憲主義がどうの改憲がどうのって騒いで、あれから1年たった今、「草案を読む時間なかった」なんて通らないですよ。
あとになって、「こんな憲法になるなんて思わなかった!!」なんて無責任なこと言っても遅いですよ。

どの候補者、党を支持するにしても、みんなで考えて、みんなで決めましょうよ。

人の行為にあーだこーだ言うのを嫌う僕が「選挙に行こう」なんておせっかいなこと言うのは、多分後にも先にもこれが最後だと思います。(わからんけど)

うざいなーと思われるでしょうが、それだけ重要な選挙だと(少なくとも)ナガイは考えているとご理解下さい(笑)

参院選を前にあえて主張したい!「選挙制度は嫌いでも、民主主義は嫌いにならないで下さい」

*** 参院選を前に・・・・・・

どーも!梅雨のくそ蒸し暑いなか、皆さんいかがお過ごしですか?

つい、最近「このブログではさしあたり社会保障制度について書く!」と宣言したにも関わらず、今日は社会保障とは直接的には関係ない事書きます(笑)

いや、というのもですね、
先日(2016年6月22日)、「参院選を前に若者は何を考えているか?」ということをテーマに某テレビ局の取材を受けまして、、せっかくなんでこの件について書きたいなーと思ったわけです。

 後述するように昨年東広島でデモを企画したことで一時期新聞やテレビから何件か取材が来たわけですが、その結果の記事や放送を見た時に、「俺、こんなこと言ってない!」とか、「ここだけ切り取られたら意味変わるやんけ!」とかいうことがちょくちょくあったわけです。(ちなみに今回取材して頂いたテレビ局は、僕らの話をすごくよく聞いたうえで編集をして頂いた経験があるので信頼を置いています)
※誤解されたくないので一応付言しときますが、僕は別にメディアdisりをしたいわけじゃありません。自分の考えをうまく伝えることができなかった僕の力不足って可能性もありますし。

なので、一応、放送される前に僕のホンネの所を先制しておきたいと考えたわけです(笑)

それに参院選まであとちょっとですし、このブログの仮題を「シャカイを、つくる」としている以上、避けるべきではないテーマだとも思いますし。


取材の理由と内容・・・・・・

さて、そもそも何で僕がテレビ局から取材を受けたのかというところから簡単に説明をしておきます。
実は、僕は昨年の7月20日に「7.20東広島デモ」と題して、大学の友人たちと安保法制案の決め方に反対するデモを企画・実行しました。その時の思いや動機、なぜデモという方法を選択したのかについては下のFBページを見て頂くとして、当時SEALDsが話題になっていたことや東広島では初(?)の学生主体のデモ(本当かどうかは知りませんw)ということもあって地方メディアの関心をひいたわけです。

https://www.facebook.com/demo.higashihiroshima720

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でもって今回、「昨年デモを企画した学生は、参院選を前に何を考えているのか?」という点について、追跡取材みたいな感じで話を聞かせてほしいという話が入ってきたわけですね。

取材での質問は基本的に以下の感じでした。

①昨年7月に安保法制案の「決め方」に異議を唱えるデモを行ったナガイさんは、今回はデモという形をとらないのか?
②若者の政治的意識の低さが度々指摘されますが、この件についてどう思うか?
 (≒若者に言いたいことは何かあるか?)
③今回の選挙について(選挙権が18歳に引き下げられたことや、改憲の是非に関する争点など)どう思うか?

というわけで、放送でどのような編集がされるか分かりませんが、こうした質問に対して僕が答えた内容とその意味をここに記録しておきま~す!

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「働かざる者食うべからず」を、制度としてやってみたら・・・・・・というお話

●最低生活保障と、働く能力・働く意欲―働かざる者、食うべからず?

こんちわ!
僕は研究関心上、最低生活の理念や意味について人とディスカッションしたり、貧困や社会保障に関するニュースなどを見てなんやかんや考えるのが好きなのですが、そうしたなかで繰り返しなされる論点として、
 
「最低生活保障は労働能力のない人のみを対象にすべきではないか?」
というものがあります。
いわゆる「(健康なのに)働かざる者食うべからず」というやつですね。

まあ、素朴な感想・意見としては分かります。
実際、障害者の方や高齢者の方に対する社会保障ってのは結構社会的な合意がとりやすいんです。働けない人はほっといたら死んじゃうんじゃん、ってみんな直観的に分かるんで。
でも若くて健康な人の最低生活の保障となると、そこは自分で頑張れよという意見が少なくないんですよね。

そこで今日は、
「最低生活の保障の条件として、労働能力の有無を問うべきか」について考えてみたいと思います。
この問に対して、歴史上の先輩たちはどのように向き合ってきたのでしょうか?

 この点を考えるうえで、「貧困がどのようなものとして考えられてきたのか」というのが一つの大きなポイントとなります。
今でこそ貧困は社会の構造上生じる問題であると(少なくとも貧困研究者のなかでは)合意されていますが、このような合意に至るまでは政策の失敗を含む歴史的なプロセスがあったのです!

●100年前の貧困観と、イギリス政府の「愚策」
 遡ること400年前、法律による社会福祉の最初の形態は1601年にイギリスでエリザベス救貧法として始まりました。ところが、19世紀に生活困窮者の増加によって必要となる救済費が激増したため、生活困窮者を減らして救済費の増加を抑えることが政府にとっての喫緊の課題とされました。そこで当時のイギリス政府は、救済の方法として生活困窮者に直接給付(居住地に関係なくお金を給付)するのをやめて、過酷な労働を強いる労役場内での救済に限定することにしました。

給付を過酷な労働に限定し、それ以外の救済をやめれば、「働けるのに公的な救済に頼って働かない怠惰な貧民」が、過酷な労働を嫌って一般の労働市場で働くようになり、生活困窮者がへる!
……と考えたわけです。
                                  
 ところが「救済の引き締め」政策にも関わらず生活困窮者は減りませんでした。なぜなら(当時のイングランド南部のように豊作で農場などに)労働需要があるような地域では、救済を打ち切られた人を雇用できる条件があったため、一定の効果をあげたものの、そうでない地域では救済を打ち切られた人がそのまま生活困窮者になったからです。

・・・・・・・・・・・

 なんていうか、まあ当たり前の話ですよね?労働市場に手を付けることなく給付の引き締めを行えば、労働意欲や労働能力の有無に関わらず労働市場で働き手としての価値を評価されない(=雇われない)人たちは労働にありつけず生活困窮者となってしまうに決まっています。それでは何故このような政策を行ったのでしょうか? 
実は、当時のイギリスでは「貧困とは個人の生活習慣や意欲の問題である」という考えが一般的だったため、労働市場と個人の関係といった、社会構造という視点から貧困の発生を考えるという発想自体がなかったのです。

 しかしその後、「科学的貧困調査の創始者」チャールズ・ブースが1886年から1902年にかけてロンドンの貧困の実態・原因を調査し、貧困が飲酒・浪費などの個人の習慣の問題ではなく、不安定な労働・低賃金といった雇用の問題や、居住地の衛生問題などの環境の問題であることを科学的に証明したことを皮切りに、社会構造との関係で貧困を考えるという研究が蓄積されるようになりました。更にそのような貧困観に基づいて社会保障制度も発展させられてきたというわけです。

 こうした歴史を振り返ると、最低生活保障においては、本人の労働能力や労働意欲の有無といった個人の責任を強調するのではなく、労働市場の状況といった社会の責任を問うものでなければならないことが分かります。

ということで、今日のポイントは……
◎「働かざる者食うべからず」という意見は、ある個人がおかれた社会構造との関係をしっかりと調査し、生活困窮者が働くための様々な条件が整っているのに働いていないということを証明できなければ説得力を持たない!
ということになります!

 これ、ちょっと考えれば誰でも分かりそうなというか、当たり前の話だと思うんですが、いまだにこうした考え方が前提とされることなく「社会福祉制度引き締め論」が行われるのを度々見かけるんですよね~。本当、不思議なんですが。
「若くて健康なやつは、社会保障を引き締めれば焦って働くようになる!!」なんてのは100年以上前に行われて大失敗した愚策なんで。そんな話を2016年の今するのはもうやめましょうよ。

 でもってこういう話をすると「要するに社会保障制度なんてなくても景気がよければええんじゃん」という感想を持たれる方もいると思うので、このあたりのことについてもまた近々書ければな~と思います!^^

よろしく、どーぞ。

最低生活を保障する制度は生活保護だけじゃないんだぞ!といいつつ、やっぱし生活保護はめちゃめちゃ大事なんだぞというお話

◎最低生活を保障する制度は生活保護だけじゃない

さて、最低生活を考えるためには現状としてどのような制度が存在するのかを知るところからはじめなければ……ということで、今日は僕たちの最低生活を支える制度とその位置づけに関して簡単に整理しておきます。

前回のエントリで「学校でうけた予防接種とかも最低生活保障の理念が根拠になっている」という話をしましたが、なかには「社会保障の受益者が国民全体であることを強調するためにオーバーに言ってるんじゃないん?」と思われた方も少なくないのではと思います。

だって、憲法25条のイメージって生活保護とべったりですもんね
でも考えてみてほしいんですが、生活保護って基本的には所得保障ですよね?
ところが僕らがそこそこ幸せに暮らしていくためには所得やサービスを個別的に支給していくだけでは全然不十分であることはちょっと考えれば誰でも分かります。

例えば、公害とかの問題なんていうのはこれを防ぐために、国は個人ばっかみてたって駄目なわけです。

でもって今日紹介する社会保障制度は、全て憲法25条の最低生活保障の理念がその根拠にあると、1950年に社会保障制度審議会によって出された「社会保障制度に関する勧告」にはっきりと明記されています。

http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/syakaifukushi/1.pdf

1950年とか古っ!!!と思った人もいるかもしれませんが、この時の社会保障制度の「分類」は昨年(平成27年)に発行された高校の現代社会の教科書にもそのまま引き継がれています。

日本の社会保障制度は、日本国憲法第25条の生存権の思想を基本理念としてつくられており、社会保健、公的扶助、社会福祉、公衆衛生の4つがその中心となっている。

『高校現代社会』実数出版,253

ここからも分かるように、最低生活保障のための社会保障制度は生活保護だけじゃないわけです。僕はこのあたりのことは貧困研究者はもと強調して言えばいいのにな~と思ってます。
生活保護の制度上の不備を指摘するのも大事ですけど、そこばっか強調するとまるで生活保護利用者以外は社会保障制度を利用していないような印象を国民に与えかねないな~と。
まあ、さしあたりこの話は置いておきましょう(笑)

さて、人によって最低生活を送れなくなる理由(=つまりリスク要因)やタイミングは異なりますから、ある個人が一生のうちで一度も利用しない制度もあれば頻繁に利用する制度もあるわけですよね。そうした個人差はありますが(というよりそういった個人差があるからこそ)、僕たちの社会は(すでにちょくちょく出ているように)様々な安全網を張り巡らせています。実際、最低生活に関わる法律や制度というのは非常にたくさんあるので、ここでは代表的なものを簡単に確認することとしましょう

安全網①公衆衛生・環境衛生

 社会保障というと、「何らかの生活上のリスクに直面した人を事後的に救済する制度」というイメージがあるかと思いますが、実際には「リスクに直面しないための事前的対策」として以下のようなものが含まれます。

医療 健康増進対策、難病・感染症対策、保健所サービスなど
環境 生活環境整備、公害対策、自然保護など


こうした安全網の特徴はどのようなものでしょうか?後述するように、社会保障制度の多くは「失業者」「障害者」「高齢者」「ひとり親」など、「最低生活を送れなくなるリスクの高い人」や現在特別なニーズを持つ人々をターゲットにしているのに対し、安全網①は文字通り全ての国民の健康の維持・増進を目的とされているという点が特徴だといえるでしょう。
様々な社会制度をどのように分類するかという点に関しては多くの意見があるでしょうが、最適賃金や解雇規制といった労働基準法も「リスクに直面しないための事前的対策」として解釈できるように思います。勿論、労働市場で働いているわけではない人も多いですから、労働基準法は「すべての人々が現在直接的に享受しているサービス」というわけではありませんが、さしあたりここで改めて強調しておきたいことは、

最低生活を保障するための社会保障制度は、「失業者」「高齢者」といった特別なニーズを持つ人々のみを対象にしているわけではなく、就労の有無や老若男女を問わず全ての人を対象にしたものを含んで構成されている
ということです!

安全網②社会福祉 
最低生活を送るためにはそれなりの能力や資源が必要となるわけですが、当然そのような能力には個人差があります。例えば足に障害をもっておられる方はそうでない方に比べると移動するという能力は低いですし、子どもを一人で育てる場合と二人で育てる場合、育児に求められる個人の負担は大きく変わります。当然、そうした個人差を考慮せずに社会保障を構成してしまうと相対的に不利な立場にある方の生活は成り立たなくなってしまう。そこで、児童福祉、母子福祉、身体障害者福祉、知的障害者福祉、老人福祉といったカテゴリーごとに手当の支給や施設、サービスの提供が行われています。
(※なお、戦後の日本の社会福祉理論の構築に大きく貢献した岡村重夫(1982)は、社会福祉社会保障制度の一部とみるこのような整理を厳しく批判しています。この点はまた別のところで詳しく書きます。)

安全網③社会保険 
僕たちが生きる現代社会は様々なリスクに満ち溢れていますよね。突発的な事故に遭うかもしれないし、突然働き先が倒産するかもしれない。そこで予めみんなで保険料を出し合っておき、様々な不測の事態をカバーする(=リスクヘッジ)のが社会保健です。

医療 健康保険、後期高齢者医療制度、船員保健 など
年金 厚生年金、共済年金国民年金
雇用 雇用保健、船員保健
労災 労働者災害補償保険、公務員災害補償保険
介護 介護保険


安全網④公的扶助
さて、ここまで挙げてきた3つの安全網で「すべての国民の最低生活」を保障することができるでしょうか?安全網①はかなり広範な人々の生活水準向上に少なからず役立つでしょうが、私たちが生活に困窮するリスク要因というのは感染症や公害以外に非常に多くのものがありますから、これだけでは不十分です。だからこそ安全網②や③が整備されたとも言えます。とはいえ安全網②は特定のカテゴリーに当てはまる人でないと適用されないので、例えば医学的に障害者認定されていない方や19歳以上の若年失業者などはどれほど生活に困っていても安全網②の対象とはなりません。
それでは安全網③はどうかというと、これは対象者の条件が保険料を支払っていることが前提なので、当然保険料を払えない人は保障の対象外となります。また、仮に保険料を支払っていたとしても、保障のための支給額が十分なものとなるかは個人の掛けた年数や直面した不測の事態の深刻さによっても変わります。

 そこで、あらゆる社会保障制度を活用してもなお生活に困窮される方に対し、その不足分を補う制度として存在するのが公的扶助です。日本ではこの代表的なものが生活保護制度となります。
 そして、この生活保護が今回紹介した他の安全網と一線を画す最も大きな特徴は、生活保護制度の目的が憲法25条の生存権の理念を達成することであると法律で直接的に明記されている点です。

無論、「社会保障制度に関する勧告」を読めば、生活保護以外の安全網もその根拠が憲法25条の生存権にあることが分かります。しかし、実は各安全網を規定する法律の目的に「最低生活」が明記されているわけではなかったりします。例えば、安全網②で取り上げた社会福祉の法律である社会福祉法の目的をみてみると次のようになっています。

社会福祉
(目的)
第一条 この法律は、社会福祉を目的とする事業の全分野における共通的基本事項を定め、社会福祉を目的とする他の法律と相まつて、福祉サービスの利用者の利益の保護及び地域における社会福祉(以下「地域福祉」という。)の推進を図るとともに、社会福祉事業の公明かつ適正な実施の確保及び社会福祉を目的とする事業の健全な発達を図り、もつて社会福祉の増進に資することを目的とする。

社会福祉法


これと生活保護法に明記された生活保護制度の目的を比較してみましょう。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO144.html

第1条 この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。

このように、生活保護は他の社会保障制度のなかでも、ことさら憲法25条の生存権思想、最低生活の概念を反映した制度であることが強調されていることが分かります。

それでは、誰が生活保護を利用できるのでしょうか?

第2条 すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を、無差別平等に受けることができる。
第4条 保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。


ここで、「その他あらゆるもの」の例として健康保険や厚生年金など(=安全網②)が挙げられています 

つまり、生活保護こそ、安全網①~③をもってしても最低生活を営むことができない人を補足する最後のセーフティーネットとして極めて重要な意味を持っているということです
逆に言えば、だからこそ生活保護社会保障制度のなかで憲法25条の理念を反映していることを最も強く強調されているということでしょう。

更に強調しておきたいことは、要件を満たしさえすれば性別、年齢、労働能力の有無、生活態度に関わらず「無差別平等」に保障されるべきだとされていることです。

それでは、「要件」とは一体なんなのでしょうか?第4条から、①生活に困窮していること、②資産や能力を活用していることを公的に認められるか、という点がポイントになることが分かります。とはいえ、生活保護の要件については結構複雑なので、また別の機会に書きたいと思います。

さしあたり今日のポイントは……
◎僕たちの最低生活を保障するために、日本社会は様々な安全網をはりめぐらしており、この恩恵を受けていない人はいない。
◎なかでも生活保護制度は、最低生活保障の理念を反映することが目的であると明記された最後のセーフティーネットという極めて重要な意味を持っており、一定の要件を満たせば誰でも無差別平等に利用することができる!

……ということを知っておいて欲しいと思います。

よろしく、どーぞ。