シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

みんなちょっと、「緊急事態宣言」に“慣れすぎ”じゃないだろうか?

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緊急事態宣言が発令(4月7日)されてから2週間以上が経った。

国内の新型コロナ感染者が増加の一途を辿る中、「緊急事態宣言がいつ出されるか」というのは社会的にも大きな注目を集めた。
しかし、実際に発令されたもののそれ以前の自粛要請の頃と実際の行動範囲がほとんど変わっていないという人もいるだろう。
日本の場合、法的な根拠を持って人びとの自由を規制できる内容になっているわけではないので当然と言えば当然である。

しかし実際には、日本の社会は決定的に変わってしまった。
「緊急事態宣言という前例を作ってしまった」のである。

「緊急事態宣言」(あるいは非常事態宣言)について、私は「感染症パンデミックや戦争、テロなど、市民の生命や財産に危険が差し迫っている有事に際し、政府が法令などに基づいて特殊な権限を発動するために、そのような事態を広く布告・宣言すること」として理解している。

ここで重要なのは、政府が市民の(平時であれば基本的人権として保障されているような)行動を「特殊な権限」の下に規制しうるということである。 

これは、冷静に考えたら大変なことである。

「日本の緊急事態宣言な罰則などの強制力を伴う規制を可能とするものではないから、重大な自由の侵害は起こらない」という識者の意見もよく聞いた。
ところが実際は、法的な根拠にもとづかないはずの行動規制が「自粛要請」の名のもとに行なわれている。
警察が駆り出されている現状、権力の行使まではされていないという説明は無理があるだろう。
さらにこわいのは、こうした状況を市民が自然と受け入れているように感じることである。

「受け入れている」という表現はマイルドすぎるかもしれない。
様々な事情から「自粛」に踏み切れない人たちが、世間から激しくバッシングされたりもしている。
平時であれば当然のように保障される個人の自由が、国家的な権力や市民からの「監視」によって制限されているのである。
さらに驚いたのは、普段、国家による自由の侵害を批判し市民の自由を守る論陣を張ってきたリベラルからも、緊急事態宣言を疑問視するような声がほとんど聞かれなかったことである。
いやむしろ、「緊急事態宣言を出すのが遅い」と批判する論調のほうが目についた。

このような話をすると、
「未曾有の感染症が世界的なパンデミックに発展している今、そんな悠長なことは言ってられない」
「公共の福祉が、危機感のない身勝手な個人の『自由』によって侵害されてもいいというのか」
…といった声が聞こえてきそうである。

だが、待ってほしい。

「公共の福祉のため」という名の下に、個人の自由が蔑ろにされた結果、この国で何が起きたか。
まだ70年くらいしか経っていないのに、みんな、忘れてしまったのだろうか。

勿論、私は「個人のどんな自由であっても規制すべきではない」などとは全く思っていない。

保守やコミュニタリアンからのリベラルに対するお決まりの批判の一つに、「リベラルは『個人の自由』を価値中立に支持しているつもりでいるが、ある『個人の自由』の保障を訴える際、価値中立ではありえない」というものがある。

ただ、これはリベラルにとって致命傷でも何でもない。
何故なら、リベラルは個人の自由を価値中立に支持しているわけではないことを自覚しているからだ。むしろ、リベラルはこれまで散々「どのような価値、規範にもとづく自由が保障されるべきか」という議論をしてきた。
もしも、「特定の規範や価値観に基づいた時点で思想的な偏りがあるということになるのだから、リベラルは価値中立の立場を堅守すべきだ」と主張する“自称リベラル”がいたら、私は骨太な保守やコミュニタリアンと手を組んでその“自称リベラル”を(敬意をもった作法にのっとった議論で)タコ殴りにしてやりたい。
保障すべき自由に関する議論において、相対主義に陥るのは最悪である。

話を戻そう。

私たちはあらゆる「自由」を保障できるわけではないし、すべきでもない。
例えば、「人を殺す自由」を主張するAと、「殺されることを回避する自由」を主張するBがいた場合、私たちはBの主張する自由を守るべきだと感じるだろう。

そして、実際にBの自由を守るために、国家が司法制度などの大きな権力を行使することを私たちは社会的に承認しあっている。
このように、近代的な法治国家では、競合する様々な「自由」のなかから守るべき自由とそうでない自由を取捨選択し、守られるべきと評価された自由を保障するために国家権力の行使が正当化されるのである。

こうした視点から改めて「公共の福祉のために個人の自由を制限する」という意見を聞くとどうか。
現在のような“緊急事態”下では一見、もっともらしくも感じられるかもしれない。
しかし、この言葉はそもそも論理的に変である。

というのも、「AのためにBを控える」という時、AとBは優先順位として「比較」されているわけであるが、「公共の福祉」と「個人の自由」は適切な「比較」対象として成立するだろうか。
例えば、「感染が拡大している今、ある個人が公共の場に出向くことは規制されるべきである」と主張される時、「ある個人が公共の場に出向く自由」よりも「公共」が優先されるというのは何を意味するのか。
この場合、「ある個人」は具体的な存在であるのに対し、「公共」は極めて抽象性の高いものであり、実態がない。

これでは、比較のしようがない。

こうした状況下で実際に競合している「自由」のありようを正しく表現するなら、次の通りである。

「ある個人Aが公共の場に出向く自由」と「公共の場にいあわせた個人Bが、Aと濃厚接触するのを避ける自由」のうち、どちらが優先されるべきか。

こうしてはじめて取捨選択すべき自由についての議論は可能になる。
もっともらしい「公共の福祉」という言葉に惑わされてはいけない。

さて、それでは上記の個人Aの自由と個人Bの自由はどちらが優先されるべきか。
多くの人は個人Bの自由を支持するのではないだろうか。

それでは、「やっぱり緊急事態宣言で個人Aの自由は規制すべきである」と考えたくなるかもしれないが、ここでもちょっと待ってほしい。

国家が権力を行使して個人の自由を制限することが正当化されうるのは、「競合する自由のなかから優先すべき自由とそうでない自由を取捨選択し、前者の自由を守るためにやむをえない場合」だったはずだ。
現在の日本で、「外出したいという人の自由」と「感染する機会を避けたいという人の自由」は、本当に競合を避けられないのだろうか。

応えは否である。

恐らく現在の日本の多くの市民が望んでいるのは、「感染する機会を避ける自由」だ。
みんな、自粛できるならしたいはずだ。
わざわざ政府や金持ちから「STAY HOME」と言われくても、である。

安倍政権は市民が収入の心配をせずに「自粛」できる施策を行っていない。
「感染する機会を避ける自由」を奪っているのは「外出したい人」ではなく、他ならない政府である。

「外出したいという人の自由」と「感染する機会を避けたいという人の自由」は、国が市民の収入や休業における補償さえすれば、競合しないどころか、両立しうる。

改めて言おう。
今の日本に、緊急事態宣言など必要ない。

「感染する機会を避けたいという人の自由」が保障できれば、あとは外出したい人は自由に外出すればよい。
こういった状況では「外出したい人の自由」は軽視されがちだが、私たちは「家にいることができるとしてもなお、命を危険にさらしてでも外出したい人」の存在にもっと思いを寄せるべきではないだろうか。

私たちはつい、「今は大切な人に会えなくても、ちょっと我慢すればまた会える。今会ったら、永遠に会えなくなってしまうかもしれないよ」と迫ってしまったりする。

だけど、本当にそうだろうか。

今会うのを諦めたことで、来年会える保障は本当にあるのだろうか。

人にはそれぞれの事情がある。
大切な人が来年まで生きられる保証がないという人もいる。

他者を顧みずに思いのままに振る舞うのを承認せよと言っているのではない。
百歩譲って今の日本が「市民の生命を守るために一定の私権の制限が不可避」なのだとしても、本来は断腸の思いで、制限される個人への深い敬意のもとに行なわれるべきだ。
間違っても、「制限が当たり前」という風潮のもとに個人が批判されるということがあってはならない。

「家にいる自由」を国から保障されないままに放置されている私たちが、私権の制限を当然のものとして受けいれ、市民同士で監視し、たたき合うのは、絶対に間違っている。

もう一度言う。
現在の日本は、「市民の生命やより重要な自由を守るために国家がやむを得ず特殊な権限を発動しなければいけない状態」では全くない。

みんなが「STAY HOMEできる自由」を、政府が保障すればいいだけの話なのだ。

その責任を全く果たしていない政府が、「個人の自由を尊重していたら市民の生命を守れない」というのは恐ろしいほどの詭弁である。

内田樹がコロナ後の世界として予言しているように、今後、間違いなく「日本も法的根拠をもつ罰則をともなう緊急事態宣言の法制度をすすめるべきだ」と言い出す人が右派からはもちろん左派からも出るだろう。

感染の恐怖は私たちから冷静さを奪う。
大きな物語」にすがりたくもなる。

だが、こんな時だからこそ忘れてはいけない。
私たちが大切だと思う様々な「自由」を危険にさらしているのは、「身勝手な個人」ではない。政府だ。

「緊急事態宣言下」に慣らされてはいけない。