シャカイを、つくる。(仮)

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「誰でも貧困になりうるんだから、貧困は他人事じゃない」というメッセージは、リアリティもないし社会保障の理念とも相いれないからあまり使いたくない。…という話

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こんにちは!

職業柄(?)、反貧困の活動をしている団体の主催するイベントや一般の方向けの勉強会などに参加する機会があるのですが、そのなかでよく「貧困は他人事(ひとごと)じゃない」というフレーズを目にします。
貧困を問題視するような番組などでも関係者がこうしたことを口にするのは珍しくないんじゃないでしょうか。

この、「貧困は他人事じゃない」という言葉、個人的に大いに同意ですし、私が活動する動機もまさにこれなんですが、「他人事じゃない」というのは色んな意味合いや文脈があるな~と思ってます。

そして、その文脈によっては、「貧困は他人事じゃない」というメッセージは果たして適切なのだろうか?と疑問に思うこともあります。

その「文脈」とは、「今の時代、誰がいつ貧困に陥るか分からないんだから、貧困は他人事じゃないのよ!」というものです。
私も団体の説明会などで貧困について話をする機会がたまにありますが、主に二つの理由からこういう表現はしないようにしています。

理由その① リアリティがない
まず、「誰がいつ貧困に陥るか分からない」というのは、事実認識として正しいでしょうか?
もちろん、失職や事故、病気など、長い人生、予測のできないことや個人の力ではコントロールできないことは、可能性としてはたくさんあります。
その意味で、「この人は絶対に貧困にならない」と言える人はいないでしょう。

ただ、貧困に陥るリスクや、一度貧困に陥った人が元の生活に戻るためのレジリエンスの程度は明らかに個人の置かれている状態や社会的資源の多寡によって差がある。
よく、「貧困についてよく知るようになってから、自分もいつ貧困になるか分からないと思うようになった」という言葉を耳にしますが、私の場合はむしろ逆です。
貧困について学べば学ぶほど、現場で当事者の話を聞けば聞くほど、「自分は相対的に貧困状態にはなりにくい立場にいるな」と思うようになりました。

なぜなら、幼少期から様々な困難を抱え、苦労をされてきた方の話を聞くたびに、いかに自分が有形無形の社会的資源に恵まれてきたかを強く意識させられることになるからです。
例えば、「困ったときに相談できる親戚や友人がいる」「免許証や住基カードといった身分証を持っている」といった、多くの人にとって普段は意識もしないような「当たり前のこと」がいざという時に決定的な社会的資源としての意味をもったりするわけです。

数字を見ても、日本の相対的貧困率は戦後からほぼ一貫して9~20%の水準で推移しています。(橋本健二『「格差」の戦後史』)
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貧困率が「高い」とされる時でもせいぜい5~6人に一人ということですから、この数字から「生涯を通じて一度も貧困状態に陥らない人のほうが多いはずだ」、と考えるのはそれほど突飛な発想ではないでしょう。
相対的貧困率のような定点観測ではなく「生涯を通じて貧困を経験したことのある人」の割合を調べた調査を私は見たことないので、実際のところは分かりませんが。多分、そういう調査は国内では今のところないはずです。知ってる人は教えていただけると助かります。)

「貧困の再生産」などの議論に象徴的なように、「貧困状態にある方やリスク層は固定化される傾向がある」というのは貧困研究者の間で一定の合意があるように思います。
つまり、実態としては貧困状態にならない方のほうが大多数だし、また貧困に陥るリスクも均等ではないので、「誰がいつ貧困に陥るか分からない」というメッセージは多くの人にとってあまりリアリティのあるかたちでは響かないのではないか…と思っています。

理由その② 「貧困リスクを回避したいなら、金持ちは民間の保険を使えばいい」となってしまう
第二に、「いつ自分が貧困に陥るか分からないから、貧困に関心をもとう」という考えは、「自分が貧困になる可能性が限りなくゼロに近いなら、自分には関係ない」という考えの裏返しでしかありません。
でもって、「そうは言ってもリスクがないわけじゃない」と考えるお金持ちの方は、自分のリスクを回避したいだけであれば「失業したり事故にあった時のために、所得保障の民間の保険に入っておこう」とすればよくなってしまう。

「自分が貧困に陥った時のために貧困に関心をもって社会的な対策を講じとかないと、いざという時困りますよ」という、いわば「損得」にもとづいて貧困を考えるのであれば、お金持ちの方が国による社会保障を支持するうまみは実はあまりありません。
なぜなら、「損得」で考えるなら、「保障を受けるリスクが低い人同士でお金を出し合ってプールしておく」のが一番合理的だからです。
社会的・経済的地位の高い人は、そもそも貧困に陥るリスクが低いわけですから、そういう人たちが出し合ってプールしたお金が目減りするリスクも当然低くなります。
そうすると加入者の一人が保障を受ける際、既存の社会保障よりもはるかに手厚くすることもできるかもしれない。
そういう意味で、「損得」勘定をするなら、お金持ちの人たちにとっては、国による社会保障のようにわざわざリスクの高い人たちと一緒にリスクヘッジをしようとするのは明らかに「損」です。

しかし、この「多くの人にとっては『損』」という社会保障制度の特徴こそ、まさに国家による社会保障の理念を反映しています。「貧困のリスクヘッジ」を民間の保障会社などの市場に任せてしまったら、保険を「買えない」人たちの生活は守られなくなってしまう。
「一番リスクが高く、一番ニーズの高い人たち」が“保障の市場”から締め出されないように、税金というかたちで広く“保険料”を集め、すべての人の生活を保障しようというのが社会保障ということですね。

つまり、「自分が貧困に陥った時のために」という「損得」勘定にもとづく発想は、根本的には社会保障の理念とは相いれないというわけです。

社会保障の「多くの人にとっては『損』」という特徴が強く印象づけられてしまうような制度設計では、社会保障の意義が人々の間で共有しにくくなってしまうので、より多くの人が利用しやすいユニバーサルな制度の在り方を模索しようという議論もあります。
『分断社会を終わらせる』URL短縮サービス URX.NU


それでも「貧困は他人事じゃない」と言い続けたい本当の理由
さて、冒頭でも言ったように、私は「貧困は他人事じゃない」論者(?)です。
しかしそれは、「誰がいつ貧困に陥るかわからない」という意味で「他人事じゃない」ということではありません。

私の言う「他人事じゃない」というのは、
「生涯を通じて一度も貧困に陥らない人」であっても、生涯を通じて貧困とは構造的に関わっている、という“事実認識”からです。

次の絵は以前のエントリでも使ったものです。

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ここでは野球を観戦している3人の人が描かれていますが、一番左と真ん中の人は試合を観ることができていますが、右の人は全く観ることができていません。
「試合を観れない状態」を貧困とすると、右の人のみ貧困状態にあるということになります。それでは、左の人は「貧困とは関係ない」といえるでしょうか?

「貧困に陥るリスク」という意味では、左の人は貧困とはほぼ無縁です。なぜなら「身長」という資源に恵まれているために、仮にこの人が乗っている「箱」を失うという不測の事態がおきても試合を観続けることができるからです。
しかし、左の人は右の人が置かれている貧困状態と構造的にも「関係がない」かというとそうではない。
なぜなら、左の人が右の人に「箱」を譲ることで、右の人は貧困状態ではなくなるからです。

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つまり、右の人が貧困状態であり続けるのか、貧困から脱するのかは、左の人が「箱を譲るかどうか」に〈関わって〉います。
この意味において、「貧困は他人事じゃない」のであり、「貧困は自分とは関係ない」というのは〈事実認識〉として間違っています。

これを、今の日本社会で考えるなら、「箱の移動」は「税金を通じた所得の再分配」となるでしょう。
生活保護をはじめとする社会保障は、みんなで払いあった税金で運用しているという意味で、わたしたちは貧困にある方もそうでない方もお互いの生活を基礎づけあっている。関係しあっている。

この関係性/構造からは誰も逃れられないわけですから、「自分は関係ないから税金も払いたくない」という方も、せめてこの事実くらいには目を向けて、自分がある人々を貧困状態に置き続けているという居心地の悪さくらいは感じてほしいなーと思います。

今日のような話をもっと小難しく考えたい人には、立岩真也の『自由の平等』をおススメします。
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それではまた…!