シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

「貧困」と「格差」は全く違うというお話

こんにちは!

前回の投稿から1年以上経ってしまいました(笑)
やっぱりこういうのは性格が出ますね…。
それと、貧困支援活動の現場に身をおいていると、世間の皆さんに知ってほしいことや現状みたいなものに日々「出会う」一方で、それらを整理して理性的に俯瞰する…という作業はなかなか進まないというか、骨が折れるのだなと痛感しております。。。

とはいえ、今の職場で働きだして約1年半。そろそろちょっとずつ慣れてきたので、「社会の在り方や貧困に関する自分の考えを俯瞰して整理する作業」もきっちりやっていこうと思います。2018年の目標です(笑)

そんなわけで、さしあたり今年、「貧困をめぐる議論への違和感」に向き合おうと思っとります。
近年、国内の「貧困」をめぐって議論が活発にされるようになってきてますが、問題提起する側とそれに反発する側の主張がうまくかみ合っていないなと思うことも多く、そのあたりをちょっとずつ整理していきたいなーと思うわけです。

貧困を是正しようというと、なかなかの確率で返される反論「共産主義じゃうまくいかない」…への違和感

「貧困の問題が深刻なので社会的になんとかしましょう」というと、なかなかの確率で「そうは言ったって共産主義はうまくいかないでしょ?」と返されます。

こう返されるたびに私は、「貧困と格差/(所得の)不平等の区別がまだまだ日本では認識されていないのだな~」と感じます。
というのも、「貧困の是正を目指す」イコール「格差・(所得の)不平等を解消する」というわけではないからです。

ここで声を大にして申し上げておきたいのですが……

「貧困」は、「(所得の)不平等」や「格差」とは全く異なる概念です。

語弊を恐れずに言えば、私は、「貧困」は絶対に是正されなくてはならないと考えていますが、「(所得の)不平等」や「格差」がなくなるべきかどうかは一概に言えんと思っています。

何故なら、「格差がない」というだけの条件では、これが良い社会かどうかは分からないからです。

ここで、
格差は大きいけれど構成員全員がそこそこ幸せな暮らしを営むことができている社会Aと、構成員の全員が餓死すれすれの社会Bを考えてみてください。

この時、社会Aと社会Bではどちらのほうが「良い」社会でしょう?
恐らくほとんどの人は社会Aを選ぶのではないでしょうか?
それでは、なぜ私たちは社会Bより社会Aのほうが「良い」社会であると考えるのでしょうか?

それは、「餓死すれすれ」という状態が、私たちの「あってはならない」という直観と整合的だからでしょう。
この、「『あってはならない』状態かそうでないかというギリギリのラインを割っているかどうか」という点こそ、貧困と格差の違いです。

このことをより分かりやすくするために下の絵が役に立ちます。

f:id:cbyy:20180225113121p:plain

ここに、(多分、ズムスタで)野球を観戦している3人の人がいます。しかし、一番左と真ん中の2人は実際に試合をみることができていますが、一番右の1人は全くみることができていません。更に、試合を観ることができている2人は、「高い位置から見る事ができているか、ぎりぎり観る事ができているか」という違いがあります。
 この時、「試合をみる高さ」という視点から考えると、一番左の人と真ん中の人の状態は不平等(格差がある)です。しかし、両者とも試合をみることができているのでこの2人の間にある不平等が「問題である」といってよいかどうかは定かではありません。しかし、一番右の人はまったく試合をみることができていないわけですから、最低限のラインを下回っている=「問題である」と認識されるというわけです。

また、この絵の面白いところは、社会の富を額面上で「平等」に分配しても、実質的な意味では格差も貧困もなくならないことを示しているところです。

3人が乗っている台の高さを所得だと考えてみてください。
すると、この3人で構成されている社会は、所得の面では完全に平等な社会です。
しかし、3人は背の高さに違いがあるため実質的な生活内容には違いが生まれていることが分かります。

私たちがある生活を営むために必要となる所得は個人の個体差によって変わってきます。例えば、健康なAさんがそこそこの生活を送るうえで年間200万円必要な社会を想像して下さい。この社会で何らかの病気を患っているBさんが、Aさんと同様のそこそこの生活を送るために必要な所得はいくらになるでしょうか?明らかに200万円では足りません。何故なら、BさんはAさんと比べると病気の治療費が余分に必要となるからです。

目指すべきは、何の平等か?

 こうした例を考えれば、僕たちが「平等」について考えるとき、「何の平等か」というのは非常に大切な論点です。
今回、以下の3つの「平等」について確認してきました。
・所得(3人が乗っている台の高さ)の平等
・生活水準(試合をみる高さ)の平等
・「そこそこの生活を営む」(試合をみることができるかどうか)平等   

私が「貧困を是正するために再分配をしっかりしましょう」という時、想定されているのは「そこそこの生活を営む」平等であり、所得の平等でも生活水準の平等でもありません。

「そこそこの生活を営む」平等が達成されているのであれば、私は所得格差や生活水準の格差がどれだけ大きくても(さしあたり)問題はないと考えます。

とはいえ、これは理屈上の話であり、実際の社会では所得格差の大きい国ほど貧困率も高いことが指摘されています。まあ、当然と言えば当然ですよね。所得格差が大きいということは再分配があまり熱心に行われていないということですから、「あってはならない」ギリギリのラインを割っている人の数も多くなることは容易に想像ができます。試しに上の絵で、全員が「そこそこの生活を営む」平等を達成するために再分配をしてみましょう。

f:id:cbyy:20161120142703p:plain

この3人で構成される社会では全員が「そこそこの生活を営む」平等を達成するまで再分配を行うと、結果的に貧困だけでなく、再分配前で一番左と真ん中の人の間にあった生活水準の格差も是正されていることが分かります。

ただ、これは今回のケースで「結果的にそうなった」という話にすぎないのであって、
生活水準の格差(試合を見る高さの不平等)を是正することを目指したわけではありません。
また、所得格差という点からすると、今度は一番左の人と一番右の人で大きな所得格差が生じています。しかし繰り返しますが、ここで目指したのは「そこそこの生活を営む」平等なので、こうした格差は問題だとはされないということです。

格差社会といた言葉や貧困という言葉がメディアで取り上げられる機会が近年増えてきましたが、そこで問題となっている平等、不平等とは「何の」平等、不平等なのか?目指されるべきは何の平等なのか?こういった点をきちんと整理したうえで議論しなければ、あまり建設的な話にはならないということですね。

今日の話をもう少し学術的にみてみたいという方には、立岩真也の『自由の平等』をお勧めします!

Amazon CAPTCHA


それでは、(多分)また来週・・・!(笑)