シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

マンガ『健康で文化的な最低限度の生活』を読んで考える。ー「ソーシャルワーカーに向いている」とは?

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今年7月よりカンテレ・フジテレビ系列で火曜よる9時から放送されている連続テレビドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』。

既に第五話まで放送されていますが、原作から読んでいた“いちファン”としても「なかなか描きにくい部分までうまく再現されているな~」という感想をもっています。

そもそも、生活保護を正面から扱ったマンガがドラマ化されゴールデンタイムに放送されるということ自体が貧困や生活保護に対する社会的な“関心”のありようとしてとても興味深いです。
何よりこの作品が生活保護利用当事者をバッシングするわけでも、社会の被害者として同情を誘うわけでもなく、冷静な視点から当事者や彼らをとりまく人々の様々な葛藤を描いている」という点で、貧困を扱ったこれまでのメディアコンテンツとは一線を画しているように思います。

より具体的に言えば、「借金」「不正受給」「アルコール依存」…など、これまで散々生活保護利用者へのバッシングとして利用されてきた題材を避けることなく、それぞれの当事者の“失敗”と“困りごと”の双方に光を当てることで、「貧困は自己責任だ」VS「貧困当事者は社会の不作為による被害者だ」という二項対立的な“不毛な論争”に陥ることなく建設的な論点を提供してくれていると感じます。

加えて、ちょうど今放送中の「扶養照会」編では、「家族は支え合うべき」というマジョリティの社会規範がすべての人に合うわけでもないということ、またそうした画一的な価値観で制度運用を行うのがいかに危険なことであるかという点が浮彫にされます。

このように、当事者と社会構造の関係を冷静に描きつつ現行制度の在り方を改めて見直すきっかけをくれる本作は、ドラマはもちろん、原作もとてもリアリティがあって勉強になるので是非多くの方に読んでいただきたいと思います。

さて、ドラマ化をきっかけに改めて原作の漫画を読み返してみると、主人公の義経えみるのキャラクターがドラマ版とは少し違っていて、そこに「『ソーシャルワーカーに向いている』とはどういうことか」について改めて考えさせられるきっかけになりました
今日はそんな視点からだらだらと書いてみます。


原作の義経えみるは「空気がよめない」「人の話を聞くのが苦手」?

吉岡里帆さん演じるドラマ版の義経えみるが生活保護利用当事者を相手に奮闘し、時に知識の不十分さや気持ちが入りすぎることで空回りする様子は、「新社会人の初々しさ」の一面として描かれているきらいがあるように思います。
これはこれでドラマの主人公としてのキャラクターが際立っていて作品としては全然ありだと思うのですが、原作のえみるは「新人の初々しさ」なんて爽やかな評価をするには“もったいない”ぐらいの「ポンコツ感」があり、そこにえみる自身が悩み葛藤するところに「相談業務に向いている、とは?」という、ソーシャルワークの永遠の問いが立ち現われてくる面白さがあると感じました。

昔からよく言われてた。
「えみるちゃんって天然だよね。」
「マイペースっつーの?えみるみたいの。」
義経さんってボンクラだよね。いい意味で…」
この「いい意味で」を言葉通りに受け取り、
嫌味を言われてもそれと気付かない勘のニブさでむしろ健やかに育ってきた。
けど…徐々に成長して………大人と呼べる年齢になって…
ようやく薄々感付いてきた。
自分は…空気が読めない…
人の話を全然聞いてない…
どこかネジが一本抜けた人間だと…

えみるの自己評価はとにかく「空気がよめず、人の“顔色”というものが分からず、話を聞くのが苦手」というもの。

これ、当事者支援にあたる人間としてはかなりマズイと思いませんか?

これは私自身が相談業務にあたるなかで痛感したことなのですが、生活に困窮されている方のなかにはご自身の状況や感情を言葉にするのが苦手な方も多く、お話をするなかで表情や声のトーンから様々な情報をこちらが「読み取って」いかないと、なかなか相手の主訴やニーズを把握できないということがあるように思います。
また、例えば「(当事者に)働きたいという強い思いがある」ということを分かっていても、「今日の段階で就労支援の話に踏み込むのは精神的な負担が大きいだろうな」とか、その時の相手の体調や気持ちの余裕の有無などを見極めながら相談に乗るというのは結構大切だと感じます。

原作のえみるはそういったことが極めて苦手。その結果、精神疾患をお持ちの当事者からの暴言にいちいち傷ついたり半ば強引に債務整理を進めようとして相手との関係が悪くなったり…と、自分も周りも苦しめてしまいます。


「人の話を聞くのが苦手」という、“強み”


案の定、当事者を振り回し、また振り回されもするえみるは、「生活保護ケースワーカーという仕事に自分が向いていないのでは」と悩みます。

「人の話を聞く」…なんてことが、こんな難しいなんて……
考えたこともなかったよ……

一期一会という言葉が苦手だ。
一回の出会いで人とコミュニケーションとれる気がしない。
よく、「一回会えばそいつがどーいう奴かだいたいわかるじゃん!」
という人がいるけど、
自分にはその能力がない。
相手のことがわからない。
わからない相手に対して、どういう態度で接するのが正解なのかわからない。
今の仕事に就いて、そんな自分を、つくづく思い知らされた…

上述したように、人の話を聞くこと、相手の表情を読むことは相談業務においては非常に重要なスキルだとよく言われますし、実際にそうだと思います。
一方で、こうしたえみるの葛藤から、
「自分は人の気持ちが分かる」と自信をもつことや、「表情を読むスキル」などを対人援助の“専門性”として位置付けることのこわさも感じます。

当たり前のことですが、世の中には一人として同じ人はいません。10人いれば10通りの社会背景や感情や価値観がある。「『こういう人』にはこういう対応をする」といったパターン化をするということは、現場の経験を蓄積し活かしていくという意味で重要なことだと思いますが、そういったアプローチが通用しない方というのも絶対にいるはずです。どんなに経験を積んだ「話を聞くのがうまい人」であれ、「この人はこういう人だ」という主観的な解釈がどこまで妥当性をもつかというのも極めて疑問です。

何より、「相手のことを理解した/分かった」と安易に考えることは、人の多様性、その人の独自性、唯一無二さといった個性にきちんと向き合わない、とても失礼な行為ではないでしょうか。

時々、「苦労した経験のない人間は当事者の気持ちが本当の意味では分からない。そういう人間が支援をするということ自体に矛盾がある」という人がいますが、「苦労した経験」と一口に言っても、ある人と全く同じ経験をした人はこの世に一人として存在しない。

どれほど似たような経験をしていたとしても「あの人の気持ちが自分には分かる」と安易に口にてしまう人は、同じような経験に対して個人の感じ方には差異があるという事実に対する想像力が乏しいと思ってしまいます。

わたしたちは、誰も、第三者の経験を経験することはできないし、代弁もできない。
これは紛れもない事実だと思うのですが、絶望ではないと思っています。


「人の気持ちが分からない、どういう人か分からない」からこそ、分かろうと努力する。

自分には様々な偏見やバイアスがあると自覚しているからこそ、安易に「こういう人」と決めつけず、きちんと話を聞こうとする。


対人援助業務のイロハの“イ”は、「話が聞ける」ことではなく、
「話を聞き相手のことを理解するという行為は、元来とても難しいことだと知る」ことではないでしょうか。

原作のえみるは、そんな“難しさ”を強く認識している。自分の対応が誤りうるということを知っている。だからこそ、“間違った”と感じた時に当事者に対してきちんと謝罪し反省することができます。

島岡さん。
私が…島岡さんの言葉を…
島岡さんの状況を、
きちんと聞くことができなかったこと…
本当に申し訳なく思っています。
本当に…すみませんでした。


さて、ケースワーカーの仕事が向いていないと悩みながらも様々な背景をもつ当事者と日々“格闘”するなかで、えみるは相談業務の大変さを「人とかかわる」面白さとして認識し始めるようになります。

最近、この仕事をおもしろいと思い始めている自分がいる。
人とかかわるということ…
人の人生にかかわるということ…
多分私は、
人とかかわることがそんな嫌いじゃない―――
もっともっと人が知りたい…
人を知って、いろんな人生とかかわって、
そしてもっともっと自分にできることを究めたい……


相談業務をソーシャルワークの“専門的な”手法としてパターン化・体系化するだけでは見失ってしまいかねない、「人とかかわる面白さ」。
これを知ったえみるが、今後現場で何を感じ、どのように“成長”していくのか。ドラマも原作もこれからの展開が楽しみでなりません。

私自身も、人のことを安易に「理解できた」と過信しないよう自戒をこめつつ、
「理解しよう」とかかわり続ける面白さを、これからも追いかけたいと思います。

東京のホームレス支援において住宅問題は本当に酷い!―『ハウジングファースト』を読んで改めて考える「居宅保護」の意味

先日、都内で生活困窮者のアパート入居とその後の見守り活動に取り組む〈つくろい東京ファンド〉の稲葉剛さんより、『ハウジングファースト-住まいからはじまる支援の可能性』を私の所属する団体にご恵贈いただきました。

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公私でばたばたしており、なかなか読めていなかったのですが最近ようやく読了したので感想がてら考えたことを書いておきます。

本書を読んでみての率直な感想は、「東京で生活困窮者、とりわけホームレス支援をしている個人や団体が日々感じているであろう都内の住宅政策の脆弱さとそれに起因する葛藤を、地に足のついたかたちで表現し、さらにそれを克服するプログラムをこれほど説得力をもって提言してくれる本はなかなかない」というものです。

本書でも再三指摘されていることですが、東京都の住宅政策におけるセーフティーネットの脆弱さは、驚愕するほど酷いです。
これは私が広島から上京し、東京のホームレス支援を始めて最も驚き絶望したことでもあるので、前提の共有として簡単に説明しておきます。
ご存じのとおり、日本には最低限度の文化的な生活を送れない状態の方に最低生活を保障するために生活保護という制度があります。
そして、今手元にある『生活保護手帳』を開いてみると、生活保護法第30条において、

生活扶助は、被保護者の居宅において行うものとする。ただし、これによることができないとき、これによっては保護の目的が達しがたいとき、又は被保護者が希望したときは、被保護者を救護施設、更生施設若しくはその他の適当な施設に入所させ、若しくはこれらの施設に入所を委託し、又は私人の家庭に養護を委託することができる。
2 前項ただし書の規定は、被保護者の意に反して、入所又は養護を強制することができると解釈してはならない

…という、いわゆる「居宅保護の原則」が法律で明記されています。

より一般的な言い方をすれば、最低生活の保護は「個室でプライバシーが守られ、衛生面や安全性など市場のアパートとしての基準を満たした住環境」でおこなわれるのが大原則であるということです。
こういった生活保護法について大学で学んでいた私は、「なぜこうした制度のある日本でホームレス状態の方がいるのだろう」というのは素朴に疑問でした。
無論、地域に限らず現在の日本では生活保護利用者への風当たりの強さや偏見から、生活保護を利用したくないと考える方がいること、福祉事務所のずさんな対応によって適切に制度利用に繋がらない機能不全などが生じているであろうことは容易に想像できましたが、それでもなお、路上という過酷な環境での生活を選択する人が一定数いることはやっぱり不思議だったわけです。

その答えの一つは、ホームレス支援の現場で働きはじめてすぐに理解できました。

東京都では、居宅保護の原則が全然守られていない!

実は、都内の路上生活の方が生活保護を申請しても、すぐにアパートに入れるのは稀で、民間の宿泊所や無料低額宿泊所とよばれる施設への入所を強制される実態があります。
そしてとりわけ問題なのは、こうした施設の多くが、人が生活するには極めて劣悪な住環境にあるということ。

「2段ベッドがずらーっと並んでいてカーテンで仕切られているだけ」「ベッドシーツはダニだらけでかゆくて寝られない」「ストレスから精神的に追い詰められて大声を出してしまう人がすぐ隣にいる」「『寮費』として保護費をひかれて、1日数100円しか使えない」
こうした声を毎日のように聞きます。

その結果、「無料低額宿泊所に入るくらいなら路上のほうがマシ」と言って生活保護をきって路上に戻ってしまう人がとても多い印象です。

私は、大学院での研究で生活保護利用者の住環境についてヒアリングをしたことがあるのですが、その際「個室」などはあまりに当たり前で、「エアコンはきちんと効くか」といったレベルで評価基準を設定していました。そんな私にとって「路上のほうがマシ」だと言わせてしまうような東京の住まいのセーフティーネットのレベルの低さは驚き以外のなにものでもありませんでした。

無論、保護を開始するにあたってアパートなどがすぐに見つからない場合、「居宅保護」に向けた仮の住まいとして「十分な条件を満たせていない住居」に一時的に入ってもらうという、やむにやまれない状況を想定しておく必要とその意味はあると思っています。(「適切な住環境以外での保護の開始を一切認めない」とした場合、そういった資源が間に合わない事態になった際に路上で寝てもらうしかないという機能不全に陥ってしまうから)
しかし、それはあくまでも緊急・例外的な対応であるべきであり、一刻も早くアパート転宅などを目指すのが大原則であるはずです。

ところが施設での生活保護利用者がアパートへの転宅を訴えても、「金銭管理ができるようになったら」「健康管理が自分でできるようになったら」「掃除や身だしなみなど一人暮らしができることを証明できたら」といった極めて曖昧な条件をあげられ、転宅が認められないということが非常に多いのが実態です。

ハウジングファーストとは?-理念と現場の葛藤

さて、前置きが長くなりましたが、本書ではこうした東京都の(当事者支援における)課題を様々な統計やデータから指摘しつつ、「ハウジングファースト」の理念が以下のように掲げられます。

ハウジングファーストでは、プライバシーが保てる住まいをもつことは人権であり、人は誰も、安全な住まいで暮らす権利があると考える。住まいは決して、精神科医療にかかることや断酒してしらふで過ごすことを条件として、その引き換えに提供されるものではない。アパートに住んで自分で管理できる空間の鍵をもつということは、その人の尊厳そのものである。(本書16頁)

改めて考えてみると、ここには、別に何か新しい理念や考え方が打ち出されているわけではありません。自分の居宅に住むということを原則としましょうという話は、すでに確認したように現行の生活保護法で明記されているし、これが制定されてから70年近く経っています。
しかし、この「何をいまさら」とツッコミを入れたくなるような原則が守られていない現状に、行政はもちろん、現場の支援者も今一度向き合う必要があるように思います。

というのも、日々、支援の現場で様々な生きづらさを抱える方と接するなかで、「アパートでの一人暮らしを安易にすすめていいのか」とこちらが葛藤するケースもあり、ともすると当事者の権利侵害に、間接的に加担してしまっていることも往々にしてあるように感じるからです。
それは例えば頻繁に「死にたい」と訴える方などに見守り機能のない環境での生活を促した結果、取返しのつかない事態に発展してしまわないかという懸念などからです。

批判を恐れず白状すれば、「アパートに入りたい」と訴える当事者に対して、「○○さんの場合困ったときにすぐに相談できる人がいる環境のほうが安心ではないですか?」と、暗にその時の環境のほうを「推し」てしまったこともあります。
また、現状として、東京で路上からのアパート入居を目指す際には住民票の取得、携帯電話の契約、前家賃など入居に伴う様々な資源の確保、アパート探しなど、非常に「課題」が多く、その過程で疲弊してしまう方も多い。幼少期から様々な困難や“失敗”を繰り返し、自尊心を傷つけられてきた当事者の方に、新たな“失敗”や挫折の経験をさせてしまうことにならないか。よかれと思って勧めたアパート入居が、結果的に相手を傷つけることにならないか。
勿論、「この人にとって良い帰結にならないかもしれないから」と勝手に判断をし、きちんと情報提供をしないのは当事者の〈知る自由〉〈選択する自由〉を剥奪する行為である、と理解しているつもりです。

それでも、上述したような不安などから、「適切な住まい」への入居を最優先とせず、「今はまだ条件が整っていない」などと、無意識のうちに行政的な「ステップアップ方式」を踏んでしまうことがあるように思います。
しかし、本書では、「ハウジングファースト」の理念だけではなく、その“有効性”についても示されています。

ハウジングファーストの“有効性”に関する知見

本書での整理によれば、1990年代にアメリカで生まれたハウジングファーストの取り組みが全米の各都市に広がり、現在ではカナダ、フランス、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、オランダ、オーストラリアなどの各国で採用されているのには、ホームレス支援におけるハウジングファーストの有効性が研究によって実証されたことも大きいといいます。
その先駆的な調査としては、ニューヨークのホームレス支援団体が2000年に報告したもので、ハウジングファーストプログラムを提供した精神疾患をもつホームレス状態の人241名と、従来型のステップアップ方式の支援が提供された1600名との比較調査があるとのこと。
調査内容の詳細は本書にゆずりますが、両群の比較調査の結果、次の知見が得られたといいます。
① ハウジングファーストプログラムでは5年後の住宅維持率が88%だったのに対し、従来型のモデルでは47%だった。
② この結果を皮切りに、アメリカやカナダで比較研究がすすめられ住宅維持率の高さ、精神科入院期間や住まいを得るまでに要した時間の短さ、費用の安さ、QOLの向上といった効果が実証された。

さらに本書では、「つくろいハウス」の実践などを通したハウジングファーストの国内の取り組みと課題についても整理されており、まさに“現場の汗”とともに掲げられるハウジングファーストの意義が力強く示され、とても読み応えがありました。

パラダイムシフト”すべきなのは誰か?

こうしたエビデンスや実践的な取り組みの蓄積を知ることは、支援の現場で当事者と向き合う関係者にとっても、大きな“勇気”となるのではないかと思います。

こうしたなかで、ホームレス支援の方策におけるパラダイムシフトの転換が求められている。治療や就労支援を受けることや寮に入って集団生活を送ることを前提とせず、安定した住まいを得たいという希望があるならば住まいを得ることができる、「ハウジングファースト」型のホームレス支援へのシフトが必要不可欠であると、筆者らは考えている。(本書25頁)

一見、アパート暮らしが難しそうに思える当事者であっても、すべての人に「適切な住まいの保障」を実現する。
このためには、ホームレス支援に関わるすべての関係者がこれまでの支援の「常識」を疑い
パラダイムシフト”する必要があるように思います。

まだまだ国内では十分に議論がされているとは言い難い「ハウジングファースト」ですが、「適切な住まいの貧困」という視点から考えると、その施策の射程は施設内での生活を(事実上)強制されている重度障害者の方や高齢者などにもおよぶという意味で、より普遍的な議論の可能性を持っているとも言えそうです。
ホームレス問題を(狭義の)「ホームレス状態の方」の問題として閉じ込めるのでもなく、「住まい」の重要性を過小評価することなく問題の是正を目指す際、「ハウジングファースト」は非常に重要な概念だと感じます。

今後、主張したいことの布石…

さて、本書でも現場でも再三声高に言われる「当事者の自己決定の尊重」。
実は私は、現状として(とりわけ)ホームレス状態の方の「自己決定」は全く実現できていないと思っています。
それは、仮に「ハウジングファースト」の理念が貫徹され、すべての人が「住みたい場所」に住み、生きたいように生きられたとしても、あるひとつの行為ができない状態であれば、それらすべては見せかけの「自己決定」にすぎないと考えています。
それが何なのかについては、またの機会にゆっくり書きたいと思います~!

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今回紹介させてもらった『ハウジングファースト-住まいからはじまる支援の可能性』は、ハウジングファーストという理念に全く共感しない人であっても「(とりわけ東京の)ホームレス事情について知りたい」という方にはとってもお勧めです!
専門用語やカタカナばかりで読みにくい…ということもなく、特別な知識がなくても理解できると思います。編者の稲葉剛さんが代表をされている
つくろい東京ファンド
さんは、居場所づくりとして「カフェ潮の路」も運営されてますので、本書片手に美味しいコーヒーをいただく…というのも悪くないのではないでしょうか?(笑)
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広島大学で講義をさせてもらいました。-“怠け者”や“素行不良な者”でも支援する理由とは?

お久しぶりです!
先日、母校の広島大学でホームレス支援の活動についてお話をする機会をいただきました。「貧困支援のプロのやりがいと悩み」という、たいそうな題目をまえに僭越ながら…(笑)

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今回は基本的にはどんな話をしてくれても構わないということだったのですが、講義の全体としては福祉国家の多くが理念として掲げているいわゆる(支援における)「無差別平等の原理」が、(場合によっては多くの市民感情を“逆なで”するにも関わらず)なぜ採用されているか…というあたりを掘り下げる内容とのことだったので、私もここに重点をおこうと決めました。
というのも、私自身、この「一見、“怠け者”に見えたりトンデモない言動をする当事者」に対峙する時こそ、現場で活動するうえでのある種の“おもしろさ”を感じているからです。

少し話がそれますが、ホームレスの方や生活困窮者に対する「お金をギャンブルやお酒に使い込んでしまったり、仕事があるのに働きもしない怠け者だっている。そういう人たちを税金で支援するなんてけしからん!」というバッシングはよく目にしますよね。
これに対して支援関係者や研究者は、「そういう人はごくごく少数」「実態としては働かないんじゃなくて働けないんだ」などとカウンターを入れるんですが、私個人としてはこうした“擁護”が時に不自然に感じることがあり、正直こういう応答の仕方に「飽き飽き」しています。
というのも、ギャンブルやお酒で一文無しになって泣付かれることはそんなに珍しいことでもないですし、無差別平等の原理を徹底することを念頭におくならば、むしろそういう「トンデモない言動をする人」の存在を認め、かつ「まあ、一般的にはトンデモないと評価されるような人だって、生きていていいじゃないですか」と開き直るほうが、よっぽど無差別平等の理念と整合的だと思うからです。
「働かないんじゃなくて働けないんだ!」と強調すればするほど、「働かない人」バッシングにある意味では加担してしまうことになるように思います。

そこで今日は、貧困支援関係者の多くが、なぜ「トンデモない言動をする人」であれ、支援の枠組みから排除しないのかということについて広大での講義内容をもとに私の考えを書いてみようと思います。

そもそも、「無差別平等の原理」とは?

今でこそ最低生活に満たない生活をしている方であれば、その困窮の理由に関わらず生活保護による保障の対象となりますが、1946年に制定された(旧)生活保護法には第二条に「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という欠格条項がありました。

第二条 次の各号の一に該当する者は、この法律による保護は、これをなさない。
一 能力があるにもかかはらず、勤労の意思のない者、勤労を怠る者その他生計の維持に努めない者
二 素行不良な者

また、この法律を制定するにあたり、当時の厚生省とGHQの間で「素行不良な者」の解釈をめぐって議論になり、「『飲む、打つ、買う』のような者」という意見が出たそうです。(副田義也1995『生活保護制度の社会史』:21)

つまり、「怠け者」や「トンデモない言動をする人」を保護の対象から外そうという議論は生活保護法の制定をめぐる公的な議論においてすでになされていたというわけです。

しかし、1950年に施行された現行の生活保護法では、この欠格条項はなくなっており、第二条にはかわりに「この法律の定める要件を満たす限り」保護をうけることができる、という「無差別平等」の理念が明記されるようになりました。
(※厳密に言うと(旧)生活保護法にも第一条で無差別平等に関わる文言を確認できるのですが、現行制度の無差別平等とは質的に大きく異なっています)

(無差別平等)
第二条 すべて国民は、この法律を定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を無差別平等に受けることができる。

この、「要件を満たす限り」というのは、「現在、本人の資産や他の社会保障制度(年金など)を活用してもなお生活に困窮しているのであれば、勤労の意欲のない者であれ素行不良な者であれ保護する」ということです。

これはちょっと不思議な感じというか、納得できない人も多いのではないでしょうか?
(旧)生活保護法のほうがいいのではないかと感じる人も多いと思います。

では、なぜ現行の生活保護法は、そして当事者支援を行う団体や関係者の多くは、支援にあたってその対象とするか否かの「条件づけ」をしない(明文化しているかどうかは別として事実上、無差別平等の原理を採用している)のでしょう。
今日はその理由として、以下の3つの視点から考えてみたいと思います。

支援に際して条件づけを行わない理由①
理由の1つ目は、「“怠け者”や“素行不良な者”」の定義と運用に関するものです。
例えば、飲酒を考えてみましょう。「社会保障制度による給付金を初日に全額飲み代に使ってしまった…」など、極端な例であれば、「それは飲みすぎだ!けしからん!」と多くの人は思うでしょうが、「月に一度、缶ビールを飲んでしまった」という場合はどうでしょう?
「困窮してるのにお酒なんかにお金を使うべきではない!」という人もいれば、「まあ、誰だってたまの1杯くらい息抜きにあってもいいかも」という人もいるのではないでしょうか。

ギャンブルにしたって、月に1回1000円程度(社会保障の給付金で)パチンコに行く人を“素行不良”と評価する人もいればそうでない人もいる。また、その1000円が映画鑑賞などであれば問題に感じる人はぐっと減るかもしれない。そうなってくると、なぜ映画鑑賞はよくてパチンコはダメなのか?

…と、「素行不良な者は支援しない」という条件をつくろうとすると、即座に「“素行不良な言動”を誰が、どういった価値観から、どうやって定義づけするのか」という、極めて難しい問題に直面します。

お酒やギャンブルなど、数値化がありえるものはまだ「社会保障の給付金での飲酒はひと月1000円まで」などと設定することは、技術的には可能かもしれない。
しかし、「労働意欲があるか否か」など、“本人の気持ち”に関わる極めて質的なものを、誰もが納得できる妥当性のある形で定義することなどできるでしょうか?

「厳密な定義やルールづくりなど必要ない。対応する人間がその都度当事者のやる気を判断すればいい」という人もいますが、支援を継続するか否かを判断するというのは、控えめに言っても「相手の生死について決定する」という行為です。そんな重い判断を現場の人間だけに委ね、負わせることは、明らかにフェアじゃない。何より、公的なサービスをきちんとした定義やルールに基づくことなく運用するというのは法治国家として失格でしょう。

支援に際して条件づけを行わない理由②
理由の2つ目は、「関わりを断ったり“排除”したところで状況は何も好転しない」という事実認識にもとづくものです。

「“怠け者”や“素行不良な者”の生活を社会が支える必要はない」として、支援するのをやめたところで、当事者はこの世から消えてなくなるわけではありません。
このことは、ちょっと考えれば当たり前にわかることだと思うんですが、なぜかこれが前提とされないままに当事者バッシングが盛り上がる…ということがよくあるように感じます。

今年の2月18日に日曜朝の『ワイドナショー』という情報番組内で、ダウンタウン松本人志さんの発言が話題になりました。

分からんように(ネットカフェの部屋を)ちょっとずつ狭くしたったらどう?
路上から始まるほうが俺はチャレンジしてる感じがする。路上なら頑張るんじゃないかな。

また、ネットカフェではないですが、都内の路上では時々ホームレスの方のダンボールハウスの撤去を求める張り紙が張られ、実際に行政によって撤去されるということがあります。

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当事者に対するこういった対応に関して、私が世間の多くの方に知っていただきたいことは二つあります。
一つ目は、「路上からのチャレンジ」と言っても、そもそも「路上が“抱えられる”路上生活者の数には限りがある」ということです。
路上生活と聞けば、どこでも寝られるように思う方もいるかもしれませんが、実際には路上生活ができる場所は限られています。私有地は勿論、普通の住宅の軒先などで寝ていたら通報されますし、雨などにさらされるとダンボールハウスはすぐに傷んでしまうためビルなどの屋根や大きな道路の高架下、公園の木の下や植え込みの中など、ある程度雨露をしのげる所でなければなりません。また、賞味期限のきれた食品をそれなりに食べられる状態で捨ててくれるコンビニや飲食店、支援団体の炊き出しにアクセスできる場所でなければ食べていくことは難しいです。
こういった条件を満たしている場所は、大都会東京といえども限定されてきます。
あまり知られていないことですが、日本の場合、どんなに大きな都市でも路上生活者の数は5000人代で頭打ちになります。(各都市の路上生活者は厚生労働省のHPから確認可能)

それ以上になると、物理的に寝られる場所がないということです。

厚労省の調査では昨年の都内23区の路上生活者は1246人ですが、これは昼間に実施される行政職員による目視調査の数字なので、日中に空き缶拾いなどの仕事をしている人や図書館などで休んでいる人はカウントされていません。そのため、多くの支援団体は夜間の調査を行いより実態に即した数字を公表すべきだと主張しています。

例えば、「ARCH(Advocacy and Research Centre for Homelessness)」という団体が行っている「東京ストリートカウント」という、有志で深夜に都内の路上を歩いて目視でカウントするという取り組みの結果、該当地域の路上生活者数は政府公表の2.6倍だったという報告があります。

こうした数字から都内の路上生活者の数を推計すると3000人は超える計算になります。
松本人志さんの「対策」を実施するとネットカフェ難民4000人が都内の路上に出てくるわけですから、都内の路上のキャパを考えると、全員が「路上からのチャレンジ」をできるかはとても怪しい。
「路上生活すらできない人たち」が一定数出るはずです。

厚労省のカウントが実態より少ないのであれば、「頭打ち」の上限も5000人以上なのでは?と、鋭い人は思われるでしょうが、「行政による路上で寝られない工夫(公園の椅子に肘掛けを設ける等)」は東京都で5000人台を記録した平成15年よりかなり“進んで”いるので、やはりキャパの限界は5000人台だと考えていいと思います)

行政によるダンボールハウスの撤去についても、同じことが起きています。
私は毎月、夜の都内を歩いて路上生活の方に食料をお渡しする「夜回り」を行っていますが、その際、別の地域を回っていた時にお会いした方と、また別の場所で再会することがよくあります。話を聞くと、

以前寝ていたA区の高架下は行政の規制が厳しくなって寝られなくなったので、こちらに移ってきました。

「ネットカフェで寝られなくしよう」「自分たちの区のダンボールハウスは撤去しよう」という対応をしたところで、当事者は別の場所に移るだけ(場合によっては移ることすらできない)です。根本的な解決には全く繋がりません。

2つ目は、松本人志さんの発言に端的に表れているように、少なくない人が「路上に出れば頑張るようになる」と考えているようですが、残念ながら、そんなことはありません…ということです。

「路上に出れば」もしくは「路上ですら寝られない状況をつくれば」働くようになる…という仮説が正しいのであれば、上記の「A区の高架下で寝ていたおじさん」は働くようになっていないと説明がつきません。
ところが、実際なかなかそうはならない。

その理由は、今の日本では路上生活から職を得るのは極めて困難…など、まずもって構造的な要因がとても大きい。(最近ではマイナンバーカードを持っていないと工事現場などでの日雇いの仕事にもありつけなくなってきています)。そして心身の持病や高齢などでそもそも働くどころではないという方がとても多い印象です。なかには「こういう生活が自分には合ってるんだ」と、世捨て人のような人もいます。(私はこういう発言をひとつとって「本人の希望で路上生活しているならよいではないか」という意見には与しません。「本人の希望」という評価は、少なくとも「当事者が路上でない生活を送る自由が実質的に確保されているにも関わらず、路上での生活を希望している」と判断できる状態でなければ成立しえません)
いずれにせよ、構造的・個人的な様々な理由が複雑に関係することで、「路上にでれば頑張って働くようになる」ということはあまり期待できない…というのが現場のリアリティかと思います。

支援に際して条件づけを行わない理由③
“怠け者”であれ“素行不良な者”であれ、支援の対象から外さない(=関わりを絶たない)という立場をとる3つ目の理由は、

「そういう人こそ、今の社会の規範を見つめ、制度の在り方などを再構築するためのきっかけやヒントをくれる貴重な存在だから」です。

自分の価値観からは考えられない言動をする人に驚くたびに、「自分のなかにある常識」をゆさぶられる感覚があります。
面談などの約束の時間をすっぽかされたり遅刻された際には、
「『分刻みで約束を守る』という今の日本の“常識”」を意識させられますし、

予期せず仕事が入り、1日で8000円稼いだのにその日のうちに飲み代に使ってしまった人から「宵越しの金は持たない主義なんですよ」と言われた際には、
「『貯金を前提にやりくりする』という発想ではないやり方で人生を楽しんでいる人もいる」といったことも考えさせられる。

いやいやいや、守らなきゃいけないルールもあるでしょう…という側面もあるでしょうが、少なくとも、「今あるルールや常識を常に疑い、より多様な人が生きやすいルールづくりについて考えるための余地」を残しておくことはとても重要なのではないか。そして、現状のルールや制度は数的・権力的マジョリティ―によってつくられているわけですから、そういった枠組みから外れる人に対して“怠け者”や“素行不良な者”というレッテルを張って排除してしまったら、社会が変革する「余白」もまた失ってしまうのではないでしょうか。

それは、あまりに勿体ない。

また、関われば関わるほど、私の場合、“素行不良”と一般的には言われるであろう当事者の方に、人間の多様さ、面白さを感じるようになりました。

ずるさ、弱さ、したたかさ、頑固さ、懐の深さ…など人間の多様な性格が一人の人のなかにも多面的に見出すことができる。

様々な不正を働いては関係者を困らせているような人が、ある時は盗難にあった路上の仲間を心配してご飯をおごっている。
数年前まで誰も信用せず、理由もなく他の路上生活の方をぼこぼこに殴っていた人が、今では殴った相手と座って談笑している。

そういう、一枚岩でない歪さや矛盾のなかにこそ、何とも言えない人間の“面白さ”のようなものを感じ、(個人的な好き嫌いは別として)「死んでもらっては困る」と思うわけです。

「そうは言っても、やっぱりちゃんと働いている人たちがやる気のない人を支える形になるのはおかしい」と思う方もいるでしょう。

そういう方には、是非一度、“やる気がない人がやる気のある人に支えられているのをみる気分の悪さ”と“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”を天秤にかけてみてもらえればと思います。
そのうえで、改めて前者のほうが「気分が悪い」と感じるのであれば、それも一つの立場かと思います。
ただ、その場合、“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”というコストは現場の人間が直接的に負うことになるわけですから、その点において、私は引き続き異議を唱えさせていただきます。

以上、永井が考える、“怠け者”や“素行不良な者”でも支援を続ける3つの理由でした。

※今回、広島大学でお話させていただいたことで、私自身、日々の活動を振り返るよい契機になりました。また、学生の方からも様々なコメントをいただき改めて勉強させていただきました。こうした機会をくださった広大関係者、学生の皆さんにこの場をかりてお礼申し上げます。

「貧困支援はおせっかい?」―パターナリズムを考える

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こんにちは!

僕は現在、ホームレス・生活困窮者支援を仕事として行っているので、あまり直接的に言われることはないですが、学生の頃に「大学で社会保障のありかたを勉強しています」というと、「当事者が何を望んでるか分からないのに、『支援をする』って大きなお世話じゃないの?」と素朴な疑問として聞かれることが度々ありました。

確かに、「何が良い生活か?」というのは個人によって異なるでしょうし、「支援」という看板を掲げて、客観的な状況から「当事者」をカテゴライズして向き合うというのは、「あなたの今の生活は良い状態ではない」という無言のメッセージを相手に与えかねない…という懸念はよく分かります。

実際、「相談にきました」と向こうから足を運んでくださるケースであれば、本人が「困っている」という自己認識をお互いに確認した状態から話が始まることが多いですが、路上にこちからか足を運ぶ「夜回り」などの現場では、「あんたらは路上生活が悪いもんだって決めつけてるだろ?私は今の生活に十分満足してるんだから放っておいてくれ」と怒られることもあります。

「あなたのため」という暴力
ホームレス状態の方のなかには、日々向けられる差別的/同情的なまなざしや経験から、自身の生活を他者から評価されることにうんざりしている方も多くいらっしゃるように感じます。
もちろん、他者からラベリングされる気持ち悪さを感じたことのある方はホームレス状態の方に限らないでしょう。
ただ、支援する者、される者という関係で対峙せざるをえないことの多い貧困支援の現場では、(支援する側の心持がどのようなものであれ)相手にみじめな思いをさせてしまうリスクがあるということを常に認識しておくべきだと思っています。

「これは、あなたのためだから」「そんな生活をしていたら幸せにならないから」と、他人の“幸せ”を自分のモノサシで勝手に決めて、特定の価値観をおしつけるようなアプローチは、相手に対する敬意を著しく欠いているし、批判されてしかるべきでしょう。
こういう態度は、パターナリズム(温情主義)という言葉でその暴力性が学術的にも指摘されてきました。

「価値観のおしつけはよくない」という、価値観のおしつけ?
では、「『価値観のおしつけ』はよくないから、何もしない」という立場は、パターナリズムとしての批判を避けられているのでしょうか?
私が学生の頃「貧困支援や社会福祉を行うべきだとは思わない」という知人と話すときに、その理由として「価値観のおしつけをしたくないから」という人が少なからずいました。

しかし、「価値観のおしつけ」をしたくないから「何もしない」という行為は、「価値観のおしつけをされるのは嫌だろうから、あなたのために何もしない」というかたちで、既に相手にとっての良い生活を(「他者から価値観を押し付けられない生活」として)先取りしてしまっている。

これをもう少し具体的に、支援の現場における「ホームレス状態の方に出会ったとき生活保護をすすめるか否か」というケースで考えてみましょう。

ここで、Aさんは「この人にとって今の生活は良くないから、生活保護を申請してより良い生活を送ってもらうべきだ」と主張したとします。
これに対してBさんは「この人にとって、今の生活が悪いと決めつけるのはパターナリズムだ。こちらの価値観を伝えるべきではない」と主張しました。

一見、Aさんの行為を「価値観のおしつけ」と批判しているBさんはパターナリズムを回避しているようにも思えます。しかし、実際にはBさんは「生活保護での生活について伝えられないまま路上で生活する」という、ある特定の生活を当事者に強いているとも言えます。

はじめ、なんとなくBさんのほうがパターナリズムを回避しているように見えるのは、Aさんが直接的な「価値観のおしつけ」をしているのに対し、Bさんは直接的な関わりを避けているため、価値観のおしつけとしての暴力性が見えにくくなっているからでしょう。いずれにせよ、両者ともパターナリズムを回避しているとは言えません。

より“マシ”なパターナリズムを模索するしかない?
こう考えてくると、私たちが誰かの「ために」何かをする(あるいはしない)場合、パターナリズムとしての批判を完全に避けるのは無理なのではないかと思えてきます。
ホームレス状態の方に出会った場合、具体的な支援を実施するにせよ、素通りするにせよ、こちらが何らかの対応をしたという事実からは逃れられず、その結果として相手に対して何らかの影響を与えてしまっている。(すでに確認してきたように素通りする場合でも「当事者を今の状況のままにおいておく、という「支援」を通じて当事者に影響を与えています)

そうであるならば、「その行為はパターナリズムだ!」と批判するとき、それがなぜ「問題だ」と言えるのかについてもきちんと主張しなければ建設的な議論にはなりません。
もしもパターナリズムを「自分以外の他者に何らかの価値観を示し、影響を与えてしまう」こととしてイメージするなら、パターナリスティックでない言動などこの世には存在しない(=あらゆる行為はパターナリズム)ということになり、批判として成り立ちません。

では、私たちが「価値観のおしつけ」や「個人の“良い生活”について他人が勝手に判断すること」を、良くないと直感的に感じるのはなぜなのでしょうか?
私は既に、〈他人の“幸せ”を自分のモノサシで勝手に決めて、自分の価値観をおしつけるようなアプローチは、相手に対する敬意を著しく欠いているし、批判されてしかるべき〉と書きましたが、この時想定している「相手に対する敬意」とは、どういった敬意なのか。

ここには、「他人に対して何が良いことかの基準を強制する行為は、〈人々が自身にとって何が良いことかを判断し行動するという自由〉に敬意をはらっていない」という直感があるように思います。
上で、Aさんの「生活保護を申請すべき」という意見に対してBさんが「今の生活が悪いときめつけるべきではない」と反対したのは、Aさんが「当事者が路上で生活するという自由」を軽視しているように感じたからでしょう。逆にAさんからすればBさんの「生活保護の申請をサポートしない」という行為は、「生活保護を利用して生活するという自由」をはく奪しているように映ったはずです。

そう考えると、AさんもBさんも、当事者の(なんらかの)自由を促進させたい、という点では同じ課題に向き合っているとも言えるのかもしれない。
ということは、(今回の例でとりあげたような)路上生活をしている方に対面した際、私たちが取り組むべき建設的な問いは、「パターナリズムに陥ることなく人々を扱うにはどのような方法をとるべきか」、ではなく、「選択の〈自由〉を促進するパターナリズムとはどのようなものか」ということでしょう。

“諦める自由”と“保障する自由”
では、「選択の〈自由〉を促進するパターナリズム」について評価するうえで、どのような作業が必要になるのでしょうか。
まず、それぞれの立場によって当事者がどのような自由を保障され、どのような自由を失うかを考えてみることが重要かと思います。

①Aさんの「生活保護で生活してもらう」という立場
この場合、Aさんのアプローチによって当事者は「生活保護で生活する自由」は保障されますが、「路上での生活を続ける自由」を失います。また、もしも生活保護での生活が半ば強制的に強いられたものであったならば、「生活保護で生活する自由」も、選択的に選ばれたものではないという意味では自由とはよべなくなりそうです。

②Bさんの「何もしない」という立場
この場合、当事者が「路上での生活を続ける自由」は守られますが、「生活保護で生活する自由」は保障されません。また、こちらが生活保護についての知識を知っているのにそれを伝えないという意味では、「生活保護について知る」自由も奪われているともいえるでしょう。

つまり、AさんのアプローチもBさんのアプローチも、自由の促進という点ではあまりに得るものが少ない(あっても非常に限定的)と評価せざるを得ません。

それでは、次のような第三の立場ではどうでしょう。
生活保護に関する知識、制度の説明をしたうえで、路上生活を続けるか生活保護の申請をするかの判断を委ねる」
この場合、当事者は「路上での生活を続ける自由」、「生活保護について知る自由」、「生活保護で生活する自由」を保障されることになります。
無論、このアプローチでも「生活保護について知らない自由」、「生活保護での生活か路上生活かを選択するという機会を与えられない自由」ははく奪されてしまいますし、その意味ではパターナリズムを回避しているとは言えないかもしれない。
しかし、私たちは保障する価値のある自由とそうでない自由について選別するという作業からも逃れられないわけですから、ある種類の自由がはく奪されているからというだけで、そのアプローチを悪いものだと批判することはできません。
そもそも(繰り返しになりますが)、「何の自由もはく奪しないアプローチ」など存在しません。
“保障する自由”と“諦める自由”を選別し、どのようなアプローチが保障する価値のある自由を促進しているか、を判断しなければいけないということですね。

今回の場合では、「Aさんの立場」、「Bさんの立場」、そして「第三の立場」によって保障される価値のある自由とはく奪される自由を整理すると以下の図のようになります。

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このように整理することを通じて、どの立場が〈保障される価値のある自由をよりよく促進できているか〉を考えることが、「支援はおせっかいにすぎないんじゃないか…」と自信がなくなった時、現場に踏みとどまって一歩前に進むために必要なのではないかと思っています。

それでは今日はこのへんで…!

「誰でも貧困になりうるんだから、貧困は他人事じゃない」というメッセージは、リアリティもないし社会保障の理念とも相いれないからあまり使いたくない。…という話

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こんにちは!

職業柄(?)、反貧困の活動をしている団体の主催するイベントや一般の方向けの勉強会などに参加する機会があるのですが、そのなかでよく「貧困は他人事(ひとごと)じゃない」というフレーズを目にします。
貧困を問題視するような番組などでも関係者がこうしたことを口にするのは珍しくないんじゃないでしょうか。

この、「貧困は他人事じゃない」という言葉、個人的に大いに同意ですし、私が活動する動機もまさにこれなんですが、「他人事じゃない」というのは色んな意味合いや文脈があるな~と思ってます。

そして、その文脈によっては、「貧困は他人事じゃない」というメッセージは果たして適切なのだろうか?と疑問に思うこともあります。

その「文脈」とは、「今の時代、誰がいつ貧困に陥るか分からないんだから、貧困は他人事じゃないのよ!」というものです。
私も団体の説明会などで貧困について話をする機会がたまにありますが、主に二つの理由からこういう表現はしないようにしています。

理由その① リアリティがない
まず、「誰がいつ貧困に陥るか分からない」というのは、事実認識として正しいでしょうか?
もちろん、失職や事故、病気など、長い人生、予測のできないことや個人の力ではコントロールできないことは、可能性としてはたくさんあります。
その意味で、「この人は絶対に貧困にならない」と言える人はいないでしょう。

ただ、貧困に陥るリスクや、一度貧困に陥った人が元の生活に戻るためのレジリエンスの程度は明らかに個人の置かれている状態や社会的資源の多寡によって差がある。
よく、「貧困についてよく知るようになってから、自分もいつ貧困になるか分からないと思うようになった」という言葉を耳にしますが、私の場合はむしろ逆です。
貧困について学べば学ぶほど、現場で当事者の話を聞けば聞くほど、「自分は相対的に貧困状態にはなりにくい立場にいるな」と思うようになりました。

なぜなら、幼少期から様々な困難を抱え、苦労をされてきた方の話を聞くたびに、いかに自分が有形無形の社会的資源に恵まれてきたかを強く意識させられることになるからです。
例えば、「困ったときに相談できる親戚や友人がいる」「免許証や住基カードといった身分証を持っている」といった、多くの人にとって普段は意識もしないような「当たり前のこと」がいざという時に決定的な社会的資源としての意味をもったりするわけです。

数字を見ても、日本の相対的貧困率は戦後からほぼ一貫して9~20%の水準で推移しています。(橋本健二『「格差」の戦後史』)
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貧困率が「高い」とされる時でもせいぜい5~6人に一人ということですから、この数字から「生涯を通じて一度も貧困状態に陥らない人のほうが多いはずだ」、と考えるのはそれほど突飛な発想ではないでしょう。
相対的貧困率のような定点観測ではなく「生涯を通じて貧困を経験したことのある人」の割合を調べた調査を私は見たことないので、実際のところは分かりませんが。多分、そういう調査は国内では今のところないはずです。知ってる人は教えていただけると助かります。)

「貧困の再生産」などの議論に象徴的なように、「貧困状態にある方やリスク層は固定化される傾向がある」というのは貧困研究者の間で一定の合意があるように思います。
つまり、実態としては貧困状態にならない方のほうが大多数だし、また貧困に陥るリスクも均等ではないので、「誰がいつ貧困に陥るか分からない」というメッセージは多くの人にとってあまりリアリティのあるかたちでは響かないのではないか…と思っています。

理由その② 「貧困リスクを回避したいなら、金持ちは民間の保険を使えばいい」となってしまう
第二に、「いつ自分が貧困に陥るか分からないから、貧困に関心をもとう」という考えは、「自分が貧困になる可能性が限りなくゼロに近いなら、自分には関係ない」という考えの裏返しでしかありません。
でもって、「そうは言ってもリスクがないわけじゃない」と考えるお金持ちの方は、自分のリスクを回避したいだけであれば「失業したり事故にあった時のために、所得保障の民間の保険に入っておこう」とすればよくなってしまう。

「自分が貧困に陥った時のために貧困に関心をもって社会的な対策を講じとかないと、いざという時困りますよ」という、いわば「損得」にもとづいて貧困を考えるのであれば、お金持ちの方が国による社会保障を支持するうまみは実はあまりありません。
なぜなら、「損得」で考えるなら、「保障を受けるリスクが低い人同士でお金を出し合ってプールしておく」のが一番合理的だからです。
社会的・経済的地位の高い人は、そもそも貧困に陥るリスクが低いわけですから、そういう人たちが出し合ってプールしたお金が目減りするリスクも当然低くなります。
そうすると加入者の一人が保障を受ける際、既存の社会保障よりもはるかに手厚くすることもできるかもしれない。
そういう意味で、「損得」勘定をするなら、お金持ちの人たちにとっては、国による社会保障のようにわざわざリスクの高い人たちと一緒にリスクヘッジをしようとするのは明らかに「損」です。

しかし、この「多くの人にとっては『損』」という社会保障制度の特徴こそ、まさに国家による社会保障の理念を反映しています。「貧困のリスクヘッジ」を民間の保障会社などの市場に任せてしまったら、保険を「買えない」人たちの生活は守られなくなってしまう。
「一番リスクが高く、一番ニーズの高い人たち」が“保障の市場”から締め出されないように、税金というかたちで広く“保険料”を集め、すべての人の生活を保障しようというのが社会保障ということですね。

つまり、「自分が貧困に陥った時のために」という「損得」勘定にもとづく発想は、根本的には社会保障の理念とは相いれないというわけです。

社会保障の「多くの人にとっては『損』」という特徴が強く印象づけられてしまうような制度設計では、社会保障の意義が人々の間で共有しにくくなってしまうので、より多くの人が利用しやすいユニバーサルな制度の在り方を模索しようという議論もあります。
『分断社会を終わらせる』URL短縮サービス URX.NU


それでも「貧困は他人事じゃない」と言い続けたい本当の理由
さて、冒頭でも言ったように、私は「貧困は他人事じゃない」論者(?)です。
しかしそれは、「誰がいつ貧困に陥るかわからない」という意味で「他人事じゃない」ということではありません。

私の言う「他人事じゃない」というのは、
「生涯を通じて一度も貧困に陥らない人」であっても、生涯を通じて貧困とは構造的に関わっている、という“事実認識”からです。

次の絵は以前のエントリでも使ったものです。

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ここでは野球を観戦している3人の人が描かれていますが、一番左と真ん中の人は試合を観ることができていますが、右の人は全く観ることができていません。
「試合を観れない状態」を貧困とすると、右の人のみ貧困状態にあるということになります。それでは、左の人は「貧困とは関係ない」といえるでしょうか?

「貧困に陥るリスク」という意味では、左の人は貧困とはほぼ無縁です。なぜなら「身長」という資源に恵まれているために、仮にこの人が乗っている「箱」を失うという不測の事態がおきても試合を観続けることができるからです。
しかし、左の人は右の人が置かれている貧困状態と構造的にも「関係がない」かというとそうではない。
なぜなら、左の人が右の人に「箱」を譲ることで、右の人は貧困状態ではなくなるからです。

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つまり、右の人が貧困状態であり続けるのか、貧困から脱するのかは、左の人が「箱を譲るかどうか」に〈関わって〉います。
この意味において、「貧困は他人事じゃない」のであり、「貧困は自分とは関係ない」というのは〈事実認識〉として間違っています。

これを、今の日本社会で考えるなら、「箱の移動」は「税金を通じた所得の再分配」となるでしょう。
生活保護をはじめとする社会保障は、みんなで払いあった税金で運用しているという意味で、わたしたちは貧困にある方もそうでない方もお互いの生活を基礎づけあっている。関係しあっている。

この関係性/構造からは誰も逃れられないわけですから、「自分は関係ないから税金も払いたくない」という方も、せめてこの事実くらいには目を向けて、自分がある人々を貧困状態に置き続けているという居心地の悪さくらいは感じてほしいなーと思います。

今日のような話をもっと小難しく考えたい人には、立岩真也の『自由の平等』をおススメします。
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それではまた…!

「スマートフォンを持てない」は、貧困か?

こんにちは!
2009年に「相対的貧困率」が発表されてから、日本国内の貧困に関する報道はかなり活発にされるようになってますよね。
とはいえ、日本の貧困に対して誰もが一様に「問題だ」と感じているかというとそんなこともないように思います。

例えば、国内の貧困当事者としてのドキュメンタリーが流れれば、「携帯を持っていて『貧困』なんておかしい」と炎上したりしてます。
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これは、まだ日本のなかで「貧困とはどういう状態か」という合意が形成されてないということを如実に表した出来事だな~と思いますし、そういう合意がこれから形成される過渡期にある日本では、こういう議論の「盛り上がり」は自然なこととも言えそうです。

こないだも(出不精の私には珍しく)スタバでコーヒーを飲んでいたら、年配のおじさんと、20代くらいの(同業者っぽい)お兄さんが議論してました。

おじさんは「戦後の日本や途上国に比べたら、現代の日本は全然マシ。携帯電話を持てなくて困る、なんて甘い」と言い、お兄さんは「今の日本の貧困は戦後や途上国の貧困とは性質が違う。相対的貧困の基準で考えるべきだ」と反論するわけです。

このお兄さんの「反論」は、日本の貧困を問題視する立場にとってはお決まりのフレーズのようになっていますよね。
ただ、この「反論」、反論になってますかね??

思うに、おじさんは「携帯電話は贅沢なもので、これを持てないのは『容認できない困窮』ではない」と判断しているように思います。
これに対し、お兄さんは「今の日本には戦後や途上国のような貧困はもうほとんどないけど、『相対的貧困』が問題としてある」という主張をしているようですが、この主張は「携帯電話は贅沢品では?」というおじさんのモヤモヤに正面から応えているわけではない。お兄さんは「昔の貧困」と「今の貧困」を同じモノサシでは測れないと言っているだけです。潜在的には「昔に比べれば今は贅沢」というおじさんの意見を少なからず受け入れているような印象すらあります。

しかし、(以前のエントリ
cbyy.hatenablog.com
で書いたように)、ある状態を「貧困」として問題提起するためには、その状態が「単なる『不平等』ではなく、『容認できない困窮状態』である」と説明する必要があり、お兄さんの応答だけでは「先進国の貧困は『戦後や途上国の貧困』よりはマシなわけで、比較的恵まれた国のなかの格差の話なのね」と理解されても仕方ないように思います。

前置きがちょっと冗長になってしまいましたが、「今の日本で携帯電話がもてない」という状態を貧困として問題提起するためには、その状態が「他の時代や地域と比べても同じ深刻さをもつ」ことを説明する必要があるということです。
そんな説明が、本当にできるのでしょうか?

というのも、長い人類の歴史のなかで人々が携帯電話をもつようになったのはほんの最近のことですから、「携帯電話を持てないというのは、単なる不平等ではなく容認できない困窮状態である」と言われてすぐに納得できる人はいないでしょう。
「じゃあ携帯電話のない時代や地域で生きていた人は全員、貧困だったってこと?」という疑問がすぐ浮かびますよね。

そこで今日は、これに挑戦してみます!

「道具」に注目していても仕方がないので、「できること」「ニーズ」に注目してみる
携帯電話が存在しなかった時代を生きた人からすれば、「携帯電話なんてなくたって楽しく生きていけるわい!」と思うはずです。

ただ、「携帯電話がない時代」は、僕のような20代にとってはちょっとリアリティがないので、もうちょっと時代を最近に近づけてみましょうか。
例えば、今の高校生から「うちは経済的に余裕がないのでガラケーしかもてないんです。」と言われたらどうでしょう?

こうなると平成生まれの人でも「いやいやいや、私が高校生のころはスマホなんてなかったけど楽しかったよ(笑)」となるんじゃないでしょうか?

いまだにラインなんて使ったことがない、という大人からしたら「何を贅沢なことを…」となりそうですね。

ただ、これをやりだすともう、キリがないです。

「わたしらの頃は携帯なんてなかったぞ!」と胸をはるおじさんに対しては、その一つ前の世代から「あなたたちの頃はポケベルがあった。わたしらのころは家庭用の電話しかなかった」と言われるでしょうし、さらにその前の世代からは「電話があるだけ裕福!わたしらのころは電報しか…」
…と、エンドレスです。最終的には「わたしらのころには狼煙しかなかった」とかになりそう(笑)

科学技術は進歩していくわけですから、「携帯電話」とか「電報」とか、「道具のレベル」だけに注目していたら、「昔に比べたら今は裕福」という話で終わってしまうにきまっています。

そこで、一旦、生活の状態を評価する基準として、この「道具のレベル」から離れてみましょう。

そもそも本質的に重要な問いは、それぞれの時代で人々が「何を持っているか/持っていないか」ではなく、そういった道具で「何ができるか/どういうニーズを満たせるか」ということでしょう。

これを先ほどの話に引き付けて考えると、「携帯電話」「家庭電話」「電報」といった道具を持っていることで何ができるのか、持っていないと何ができないのか…という視点で考えてみましょうということになります。

これらの道具でぱっと思いつく「できること/満たせるニーズ」は、
〈遠方にいる知り合いと連絡をとる〉
〈人間関係を維持/豊かにする〉
〈緊急時に助けを求める〉

…などでしょうか。

確かに「電報」が「家庭電話」「ポケベル」「携帯電話」へと“進化”することで、こういった道具が満たすニーズの水準は高くなります。
例えば、「家族が事故に遭った」等というとても緊急度の高い情報を家族に伝えるとき、その伝達速度や伝えられる情報量などは電報と携帯電話では段違いです。
しかし、ここで、「家族が事故に遭ったことを、兄弟に伝えたい」というニーズは時代や地域、生活水準に関わらず普遍的なものでしょう。

「ニーズ」そのものに注目すると、昔より今のほうが困窮していたりする
つまり、「電報しかなかった時代を生きた私にしてみれば、携帯電話は贅沢品だ」といった主張は、電報と携帯電話という「道具」を比べているだけであって、ニーズの充足状況については何も語っていない。

「電報しかない時代に電報しか使っていない人」と、「現代において電報しか使えない人」がいた場合、両者は「電報」という「道具のレベル」は同じですが、ニーズの充足状況に着目すれば、明らかに後者のほうが困窮状態にあります。
なぜなら、「道具」は時代によって変化するだけでなく、「新しい道具ができると古い道具はなくなっていく」からです。

携帯電話も家庭用電話もなかった頃は、「知り合いと連絡をとる」というニーズは電報が満たしてくれたでしょう。
しかし、多くの人が家庭用電話を持つようになると、日常の連絡手段として電報はどんどん使われなくなりました。
そうなってくると、「電話のある時代に電報だけを使える人」は周りが電報を使っていないので「知り合いと連絡をとる」というニーズを満たすことができません。

ガラケー×スマートフォン論争」にも同じことが言えます。
僕が大学2年生くらいまでは、友人との連絡といえばメールが基本でしたが、最近ではラインの普及にともなって、仕事関係以外でメールを使うことは滅多にありません。
最近の高校生も、友人との連絡手段は基本的にラインやSNSですから、携帯をもっていても、こうしたアプリが使える機種でなければ「友人と連絡をとる」というニーズを満たすことはできません。

もう一度言います。貧困について議論する際、「何を持っているか」といった「道具のレベル」を比べても仕方ありません。より本質的な問いは、「どんな〈ニーズ〉を満たせているか」、です。
今回の「携帯電話が持てない、というのは貧困か」というテーマで話をする際には、「携帯電話が贅沢か」ではなく、「携帯電話が満たしうる〈友人と連絡をとりたい〉〈緊急時に助けを求めたい〉といったニーズが贅沢かどうか」を考えるほうが建設的な議論になるということですね。

そうやって考えてみると、今の日本の高校生がスマホを持てない、というのは「友人と連絡をとりたい」といった(途上国だろうが先進国だろうが戦後だろうが2018年だろうが普遍的に存在する)極めて重要なニーズを満たせない、という意味で、「他の時代や地域と比べても同じ深刻さをもつ」(=貧困である)と評価できないでしょうか?

どんなニーズを、どの水準まで保障すべきか?
ただ、今日の話では「時代や地域に限定されない普遍的なニーズがある」ということを確認してきましたが、①「どんなニーズが保障されるべきか」という点や、②保証されるべきと合意したニーズをどの水準まで満たせば「最低限の水準を超えた」と評価できるのか、という話は全くしてません。

今回の話に引き付けて言うと、①〈友人と連絡をとる〉というニーズを満たせない状態は、本当に「容認できない困窮状態」と考えられるのか?
②仮に〈友人と連絡をとる〉というニーズを保障すべきニーズとするなら、これが最低限満たされたというのはどういう水準か?「自由に文字のやりとりができるのであればよし」とするのか、「声でやりとりできなければ不十分」とするのか?「1分間隔でやりとりできなければ問題」と考えるのか「1時間間隔でよし」とするのか?

このあたりは、継続的に議論してその都度合意形成していく必要があることですが、その際「道具のレベル」だけに注目して贅沢云々というレベルの低い話をするのはもうやめにしましょうよ、というのが今日の趣旨でした!(笑)
着地がグラグラした感が否めないですが…(多分)また来週!

貧困について、たまにはポジティブな話がしたい(笑)ーあたなが守った、小さな命

こんにちは!

大学で日本の貧困について研究してた頃から「多くの人に貧困について語る、伝えるうえで、どういうやり方が効果的なのか?」というのは、自分のなかでとても関心のあるテーマでした。

貧困がを是正するためには、最低生活の保障という社会的合意を得ることが必須ですから、こういう問いに向き合うことになるのはある意味当然ですよね。

同時に、「貧困について考える」「向き合う」ということそのものの「面白さ」をもっと多くの人で共有したい、というピュアな思いもありました。
貧困について人と議論しているとき、相手に自分と同じような問題意識をもってほしいという思いも当然あるわけですが、そこでの対話の最終的な着地点は違っていて全然かまわない。「やっぱり社会保障は不要だと思う」という人がいてもいい。ただ、その過程のなかにある「社会の在り方について一緒に考える」という作業そのものがとても楽しい。
でもって、貧困の議論の出発点(あるいはさしあたりの「着地点」?)は、この「楽しさを共有する」ということでいいのではないか?そんな風にも思うわけです。

…というのもですね、「貧困への関心を持ちましょう」っていう啓蒙的な感じにアレルギーある人もいると思いますし、皆さん日々自分のことで手一杯ななか、重くなりがちなテーマをぶつけられてもしんどくなってしまうんじゃないかと思うんです。
ニュースや新聞で貧困をめぐる議論をちょっと覗いただけで「日本の7人に1人が相対的貧困」「生活保護の捕捉率がわずか20%」「最低生活の基準引き下げ」「東京都のネットカフェ難民が4000人」…と、暗い話題ばかり。

一方で、最近、貧困をめぐる芸能人の発言に対する世間のリアクション(某咄家のSNSの炎上とか)を見ていると、国内の貧困に目を向ける人も増えてきているように思います。

とはいえ、貧困に関心をもって「どうにかしたい」と思う人であっても、「今の日本ではこんなに苦しんでる人たちがいます」と言われ続けると暗い気持ちになってしまいそう。
貧困支援の現場で働いていると、当事者の色々な声を聞いたり、社会保障制度の効果を感じる機会があるので、「今の日本でもここまではできてる!」とポジティブな部分も確認できるんですが、ニュースとかでしか貧困に「触れる」機会がないと、入ってくるのは暗い話ばかりではないかな~と。

もちろん、問題点の指摘はとても重要ですし、社会の責任を問い続ける意義はありまくりです。この点はいくら強調してもしすぎることはないと思ってます。
でも、たまには「ポジティブな話」も聞きたくないですか?
大体、「貧困について考える」ということは、「良い社会、住んでみたい世界についてみんなでワイワイ考える」という、とてもポジティブな作業でもあるはず。
すでに日本には生活保護という、みんなが幸せに暮らすことを目的にした制度があるわけで、実際にこれをみんなで作ってきたわけじゃないですか。
せっかくみんなで作ってるこの制度、問題点ばっか確認してても楽しくないので、たまには「できてる」部分にも光をあててみましょう。

大学院の調査で出会ったノゾミさんの話
僕が大学院で調査していた時に出会った方で、ノゾミさん(仮名)という方がいました。2015年当時30歳の彼女は、0歳児の一人親として生活保護施設で生活されていました。
貧困に関わる調査で出会う方というのは、やはりみなさん大変な生活をされていて、ライフヒストリーを聞いていると、なかなか壮絶なエピソードが出てきます。

ノゾミさんも「物心がついたぐらいから経済的に苦しくなって、保険証もなかったので何かあっても市販薬で我慢。高校生の頃にはアルバイトして家にお金をいれていた」そうで、彼女が成人する頃には親が自己破産をしたことで実家を失ったといいます。
その後、結婚を前提に交際をしていた男性と同棲するも、相手にノゾミさんの貯金を使われるなどして財産を失い、妊娠が分かったことで仕事も解雇されてしまいました。

住所移して一緒に住み始めようってことで住み始めた直後に、相手に借金があることが分かり、しかも気づいたら私の財産、財布の中まで全部持ち出されてるような状況で。で、しかも妊娠が分かった当時も働いてたんですけど、もう、マタハラというか、事実上解雇になって。

そんな、「八方ふさがり」の時に利用したのが、生活保護だったといいます。

つわりもあるから働きたくても働けなくて、このままだと自分もお腹の子もダメになる…どうしようもなくなって、生活保護受給中の親を頼るしかなく、…だけど親ももう高齢だし、自己破産のストレスとかもあって…それこそ手をあげる感じの人だったので、どうしようって。それで、出産して、病院で退院後の生活を聞かれた時に「それはやばい」ってなって、周りの人が助けてくれて、こちら(生活保護施設)に入れてもらって生活保護受給させてもらえるようになったんです。

幼少期から生活に困窮し、成人後も大変な環境で生きてこられたノゾミさん。
彼女の話から、「適切な社会的支援をもっと早い段階で受けられるように、制度を改善するべきである」と指摘することもできますし、僕自身その立場です。
ただ、それに加えて、ノゾミさんの生活を「良く」するために、今の日本が、僕たちができていることも確認しておきましょう。
ノゾミさんにとって、今の生活保護はどういったものだったのでしょうか。

生活保護の話をして、困ってる人の話になると、「臭いものにふた」じゃないですけど、やっぱり暗いイメージとかがあると思うんです。だけど、そうじゃなくて、生活保護のおかげでこうやって生まれた命もあって、この子もこうやって元気に育って笑ってますっていうのを知ってほしいというか。本当に私は子どもが生まれて、子どもの顔をみて、「ああ本当に苦しかったけど産んで良かった」って思ったので…、なんていうかその、生活保護って、「納めてる税金で暮らしやがって」って思われるだろうけど、あなたはこの子の命を守ってくれてるんですよ、と。払ってもらってる分、ありがとうとも思うし、そういうのも知ってほしいというか。うん・・・まあ子ども嫌いな人には逆効果でしょうけど(笑)。私は妊娠中に本当に困って、子どもとわたしで死ぬしかないんじゃないかと思うぐらい追い詰められたので、うん。。。そうですね。そうやって助けてもらってるうえで命があるんですということを言いたいです。

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当たり前といえば当たり前ですが、今の社会制度にたくさんの不備や問題点があるのと同時に、今の制度でもできてることがたくさんあるはず。
救えなかった命もあれば、救えた命もあるはず。

貧困の実態や、制度の問題点を“当事者の声”から指摘することばかりを意識していた当時の僕は、ノゾミさんの「あなたはこの子の命を守ってくれてるんですよ、というのも知ってほしい」という言葉がとても新鮮に感じました。

“当事者の声”は今の社会に「何ができていないか」だけでなく、「何ができているか」も教えてくれる。そんな当たり前のことを気づかせてもらったことは、今の僕が支援の現場で前を向く活力として活かさせてもらっているように思います。

貧困に関わる話は、重く暗いトーンになりがちですが、たまにはポジティブなことも確認する。
「貧困について考える、向き合う」ことそのものの「面白さ」をみんなで共有する出発点として、そんなアプローチもあっていいんじゃないでしょうか?
それでは今日はこのへんで!