シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

「誰でも貧困になりうるんだから、貧困は他人事じゃない」というメッセージは、リアリティもないし社会保障の理念とも相いれないからあまり使いたくない。…という話

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こんにちは!

職業柄(?)、反貧困の活動をしている団体の主催するイベントや一般の方向けの勉強会などに参加する機会があるのですが、そのなかでよく「貧困は他人事(ひとごと)じゃない」というフレーズを目にします。
貧困を問題視するような番組などでも関係者がこうしたことを口にするのは珍しくないんじゃないでしょうか。

この、「貧困は他人事じゃない」という言葉、個人的に大いに同意ですし、私が活動する動機もまさにこれなんですが、「他人事じゃない」というのは色んな意味合いや文脈があるな~と思ってます。

そして、その文脈によっては、「貧困は他人事じゃない」というメッセージは果たして適切なのだろうか?と疑問に思うこともあります。

その「文脈」とは、「今の時代、誰がいつ貧困に陥るか分からないんだから、貧困は他人事じゃないのよ!」というものです。
私も団体の説明会などで貧困について話をする機会がたまにありますが、主に二つの理由からこういう表現はしないようにしています。

理由その① リアリティがない
まず、「誰がいつ貧困に陥るか分からない」というのは、事実認識として正しいでしょうか?
もちろん、失職や事故、病気など、長い人生、予測のできないことや個人の力ではコントロールできないことは、可能性としてはたくさんあります。
その意味で、「この人は絶対に貧困にならない」と言える人はいないでしょう。

ただ、貧困に陥るリスクや、一度貧困に陥った人が元の生活に戻るためのレジリエンスの程度は明らかに個人の置かれている状態や社会的資源の多寡によって差がある。
よく、「貧困についてよく知るようになってから、自分もいつ貧困になるか分からないと思うようになった」という言葉を耳にしますが、私の場合はむしろ逆です。
貧困について学べば学ぶほど、現場で当事者の話を聞けば聞くほど、「自分は相対的に貧困状態にはなりにくい立場にいるな」と思うようになりました。

なぜなら、幼少期から様々な困難を抱え、苦労をされてきた方の話を聞くたびに、いかに自分が有形無形の社会的資源に恵まれてきたかを強く意識させられることになるからです。
例えば、「困ったときに相談できる親戚や友人がいる」「免許証や住基カードといった身分証を持っている」といった、多くの人にとって普段は意識もしないような「当たり前のこと」がいざという時に決定的な社会的資源としての意味をもったりするわけです。

数字を見ても、日本の相対的貧困率は戦後からほぼ一貫して9~20%の水準で推移しています。(橋本健二『「格差」の戦後史』)
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貧困率が「高い」とされる時でもせいぜい5~6人に一人ということですから、この数字から「生涯を通じて一度も貧困状態に陥らない人のほうが多いはずだ」、と考えるのはそれほど突飛な発想ではないでしょう。
相対的貧困率のような定点観測ではなく「生涯を通じて貧困を経験したことのある人」の割合を調べた調査を私は見たことないので、実際のところは分かりませんが。多分、そういう調査は国内では今のところないはずです。知ってる人は教えていただけると助かります。)

「貧困の再生産」などの議論に象徴的なように、「貧困状態にある方やリスク層は固定化される傾向がある」というのは貧困研究者の間で一定の合意があるように思います。
つまり、実態としては貧困状態にならない方のほうが大多数だし、また貧困に陥るリスクも均等ではないので、「誰がいつ貧困に陥るか分からない」というメッセージは多くの人にとってあまりリアリティのあるかたちでは響かないのではないか…と思っています。

理由その② 「貧困リスクを回避したいなら、金持ちは民間の保険を使えばいい」となってしまう
第二に、「いつ自分が貧困に陥るか分からないから、貧困に関心をもとう」という考えは、「自分が貧困になる可能性が限りなくゼロに近いなら、自分には関係ない」という考えの裏返しでしかありません。
でもって、「そうは言ってもリスクがないわけじゃない」と考えるお金持ちの方は、自分のリスクを回避したいだけであれば「失業したり事故にあった時のために、所得保障の民間の保険に入っておこう」とすればよくなってしまう。

「自分が貧困に陥った時のために貧困に関心をもって社会的な対策を講じとかないと、いざという時困りますよ」という、いわば「損得」にもとづいて貧困を考えるのであれば、お金持ちの方が国による社会保障を支持するうまみは実はあまりありません。
なぜなら、「損得」で考えるなら、「保障を受けるリスクが低い人同士でお金を出し合ってプールしておく」のが一番合理的だからです。
社会的・経済的地位の高い人は、そもそも貧困に陥るリスクが低いわけですから、そういう人たちが出し合ってプールしたお金が目減りするリスクも当然低くなります。
そうすると加入者の一人が保障を受ける際、既存の社会保障よりもはるかに手厚くすることもできるかもしれない。
そういう意味で、「損得」勘定をするなら、お金持ちの人たちにとっては、国による社会保障のようにわざわざリスクの高い人たちと一緒にリスクヘッジをしようとするのは明らかに「損」です。

しかし、この「多くの人にとっては『損』」という社会保障制度の特徴こそ、まさに国家による社会保障の理念を反映しています。「貧困のリスクヘッジ」を民間の保障会社などの市場に任せてしまったら、保険を「買えない」人たちの生活は守られなくなってしまう。
「一番リスクが高く、一番ニーズの高い人たち」が“保障の市場”から締め出されないように、税金というかたちで広く“保険料”を集め、すべての人の生活を保障しようというのが社会保障ということですね。

つまり、「自分が貧困に陥った時のために」という「損得」勘定にもとづく発想は、根本的には社会保障の理念とは相いれないというわけです。

社会保障の「多くの人にとっては『損』」という特徴が強く印象づけられてしまうような制度設計では、社会保障の意義が人々の間で共有しにくくなってしまうので、より多くの人が利用しやすいユニバーサルな制度の在り方を模索しようという議論もあります。
『分断社会を終わらせる』URL短縮サービス URX.NU


それでも「貧困は他人事じゃない」と言い続けたい本当の理由
さて、冒頭でも言ったように、私は「貧困は他人事じゃない」論者(?)です。
しかしそれは、「誰がいつ貧困に陥るかわからない」という意味で「他人事じゃない」ということではありません。

私の言う「他人事じゃない」というのは、
「生涯を通じて一度も貧困に陥らない人」であっても、生涯を通じて貧困とは構造的に関わっている、という“事実認識”からです。

次の絵は以前のエントリでも使ったものです。

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ここでは野球を観戦している3人の人が描かれていますが、一番左と真ん中の人は試合を観ることができていますが、右の人は全く観ることができていません。
「試合を観れない状態」を貧困とすると、右の人のみ貧困状態にあるということになります。それでは、左の人は「貧困とは関係ない」といえるでしょうか?

「貧困に陥るリスク」という意味では、左の人は貧困とはほぼ無縁です。なぜなら「身長」という資源に恵まれているために、仮にこの人が乗っている「箱」を失うという不測の事態がおきても試合を観続けることができるからです。
しかし、左の人は右の人が置かれている貧困状態と構造的にも「関係がない」かというとそうではない。
なぜなら、左の人が右の人に「箱」を譲ることで、右の人は貧困状態ではなくなるからです。

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つまり、右の人が貧困状態であり続けるのか、貧困から脱するのかは、左の人が「箱を譲るかどうか」に〈関わって〉います。
この意味において、「貧困は他人事じゃない」のであり、「貧困は自分とは関係ない」というのは〈事実認識〉として間違っています。

これを、今の日本社会で考えるなら、「箱の移動」は「税金を通じた所得の再分配」となるでしょう。
生活保護をはじめとする社会保障は、みんなで払いあった税金で運用しているという意味で、わたしたちは貧困にある方もそうでない方もお互いの生活を基礎づけあっている。関係しあっている。

この関係性/構造からは誰も逃れられないわけですから、「自分は関係ないから税金も払いたくない」という方も、せめてこの事実くらいには目を向けて、自分がある人々を貧困状態に置き続けているという居心地の悪さくらいは感じてほしいなーと思います。

今日のような話をもっと小難しく考えたい人には、立岩真也の『自由の平等』をおススメします。
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それではまた…!

「スマートフォンを持てない」は、貧困か?

こんにちは!
2009年に「相対的貧困率」が発表されてから、日本国内の貧困に関する報道はかなり活発にされるようになってますよね。
とはいえ、日本の貧困に対して誰もが一様に「問題だ」と感じているかというとそんなこともないように思います。

例えば、国内の貧困当事者としてのドキュメンタリーが流れれば、「携帯を持っていて『貧困』なんておかしい」と炎上したりしてます。
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これは、まだ日本のなかで「貧困とはどういう状態か」という合意が形成されてないということを如実に表した出来事だな~と思いますし、そういう合意がこれから形成される過渡期にある日本では、こういう議論の「盛り上がり」は自然なこととも言えそうです。

こないだも(出不精の私には珍しく)スタバでコーヒーを飲んでいたら、年配のおじさんと、20代くらいの(同業者っぽい)お兄さんが議論してました。

おじさんは「戦後の日本や途上国に比べたら、現代の日本は全然マシ。携帯電話を持てなくて困る、なんて甘い」と言い、お兄さんは「今の日本の貧困は戦後や途上国の貧困とは性質が違う。相対的貧困の基準で考えるべきだ」と反論するわけです。

このお兄さんの「反論」は、日本の貧困を問題視する立場にとってはお決まりのフレーズのようになっていますよね。
ただ、この「反論」、反論になってますかね??

思うに、おじさんは「携帯電話は贅沢なもので、これを持てないのは『容認できない困窮』ではない」と判断しているように思います。
これに対し、お兄さんは「今の日本には戦後や途上国のような貧困はもうほとんどないけど、『相対的貧困』が問題としてある」という主張をしているようですが、この主張は「携帯電話は贅沢品では?」というおじさんのモヤモヤに正面から応えているわけではない。お兄さんは「昔の貧困」と「今の貧困」を同じモノサシでは測れないと言っているだけです。潜在的には「昔に比べれば今は贅沢」というおじさんの意見を少なからず受け入れているような印象すらあります。

しかし、(以前のエントリ
cbyy.hatenablog.com
で書いたように)、ある状態を「貧困」として問題提起するためには、その状態が「単なる『不平等』ではなく、『容認できない困窮状態』である」と説明する必要があり、お兄さんの応答だけでは「先進国の貧困は『戦後や途上国の貧困』よりはマシなわけで、比較的恵まれた国のなかの格差の話なのね」と理解されても仕方ないように思います。

前置きがちょっと冗長になってしまいましたが、「今の日本で携帯電話がもてない」という状態を貧困として問題提起するためには、その状態が「他の時代や地域と比べても同じ深刻さをもつ」ことを説明する必要があるということです。
そんな説明が、本当にできるのでしょうか?

というのも、長い人類の歴史のなかで人々が携帯電話をもつようになったのはほんの最近のことですから、「携帯電話を持てないというのは、単なる不平等ではなく容認できない困窮状態である」と言われてすぐに納得できる人はいないでしょう。
「じゃあ携帯電話のない時代や地域で生きていた人は全員、貧困だったってこと?」という疑問がすぐ浮かびますよね。

そこで今日は、これに挑戦してみます!

「道具」に注目していても仕方がないので、「できること」「ニーズ」に注目してみる
携帯電話が存在しなかった時代を生きた人からすれば、「携帯電話なんてなくたって楽しく生きていけるわい!」と思うはずです。

ただ、「携帯電話がない時代」は、僕のような20代にとってはちょっとリアリティがないので、もうちょっと時代を最近に近づけてみましょうか。
例えば、今の高校生から「うちは経済的に余裕がないのでガラケーしかもてないんです。」と言われたらどうでしょう?

こうなると平成生まれの人でも「いやいやいや、私が高校生のころはスマホなんてなかったけど楽しかったよ(笑)」となるんじゃないでしょうか?

いまだにラインなんて使ったことがない、という大人からしたら「何を贅沢なことを…」となりそうですね。

ただ、これをやりだすともう、キリがないです。

「わたしらの頃は携帯なんてなかったぞ!」と胸をはるおじさんに対しては、その一つ前の世代から「あなたたちの頃はポケベルがあった。わたしらのころは家庭用の電話しかなかった」と言われるでしょうし、さらにその前の世代からは「電話があるだけ裕福!わたしらのころは電報しか…」
…と、エンドレスです。最終的には「わたしらのころには狼煙しかなかった」とかになりそう(笑)

科学技術は進歩していくわけですから、「携帯電話」とか「電報」とか、「道具のレベル」だけに注目していたら、「昔に比べたら今は裕福」という話で終わってしまうにきまっています。

そこで、一旦、生活の状態を評価する基準として、この「道具のレベル」から離れてみましょう。

そもそも本質的に重要な問いは、それぞれの時代で人々が「何を持っているか/持っていないか」ではなく、そういった道具で「何ができるか/どういうニーズを満たせるか」ということでしょう。

これを先ほどの話に引き付けて考えると、「携帯電話」「家庭電話」「電報」といった道具を持っていることで何ができるのか、持っていないと何ができないのか…という視点で考えてみましょうということになります。

これらの道具でぱっと思いつく「できること/満たせるニーズ」は、
〈遠方にいる知り合いと連絡をとる〉
〈人間関係を維持/豊かにする〉
〈緊急時に助けを求める〉

…などでしょうか。

確かに「電報」が「家庭電話」「ポケベル」「携帯電話」へと“進化”することで、こういった道具が満たすニーズの水準は高くなります。
例えば、「家族が事故に遭った」等というとても緊急度の高い情報を家族に伝えるとき、その伝達速度や伝えられる情報量などは電報と携帯電話では段違いです。
しかし、ここで、「家族が事故に遭ったことを、兄弟に伝えたい」というニーズは時代や地域、生活水準に関わらず普遍的なものでしょう。

「ニーズ」そのものに注目すると、昔より今のほうが困窮していたりする
つまり、「電報しかなかった時代を生きた私にしてみれば、携帯電話は贅沢品だ」といった主張は、電報と携帯電話という「道具」を比べているだけであって、ニーズの充足状況については何も語っていない。

「電報しかない時代に電報しか使っていない人」と、「現代において電報しか使えない人」がいた場合、両者は「電報」という「道具のレベル」は同じですが、ニーズの充足状況に着目すれば、明らかに後者のほうが困窮状態にあります。
なぜなら、「道具」は時代によって変化するだけでなく、「新しい道具ができると古い道具はなくなっていく」からです。

携帯電話も家庭用電話もなかった頃は、「知り合いと連絡をとる」というニーズは電報が満たしてくれたでしょう。
しかし、多くの人が家庭用電話を持つようになると、日常の連絡手段として電報はどんどん使われなくなりました。
そうなってくると、「電話のある時代に電報だけを使える人」は周りが電報を使っていないので「知り合いと連絡をとる」というニーズを満たすことができません。

ガラケー×スマートフォン論争」にも同じことが言えます。
僕が大学2年生くらいまでは、友人との連絡といえばメールが基本でしたが、最近ではラインの普及にともなって、仕事関係以外でメールを使うことは滅多にありません。
最近の高校生も、友人との連絡手段は基本的にラインやSNSですから、携帯をもっていても、こうしたアプリが使える機種でなければ「友人と連絡をとる」というニーズを満たすことはできません。

もう一度言います。貧困について議論する際、「何を持っているか」といった「道具のレベル」を比べても仕方ありません。より本質的な問いは、「どんな〈ニーズ〉を満たせているか」、です。
今回の「携帯電話が持てない、というのは貧困か」というテーマで話をする際には、「携帯電話が贅沢か」ではなく、「携帯電話が満たしうる〈友人と連絡をとりたい〉〈緊急時に助けを求めたい〉といったニーズが贅沢かどうか」を考えるほうが建設的な議論になるということですね。

そうやって考えてみると、今の日本の高校生がスマホを持てない、というのは「友人と連絡をとりたい」といった(途上国だろうが先進国だろうが戦後だろうが2018年だろうが普遍的に存在する)極めて重要なニーズを満たせない、という意味で、「他の時代や地域と比べても同じ深刻さをもつ」(=貧困である)と評価できないでしょうか?

どんなニーズを、どの水準まで保障すべきか?
ただ、今日の話では「時代や地域に限定されない普遍的なニーズがある」ということを確認してきましたが、①「どんなニーズが保障されるべきか」という点や、②保証されるべきと合意したニーズをどの水準まで満たせば「最低限の水準を超えた」と評価できるのか、という話は全くしてません。

今回の話に引き付けて言うと、①〈友人と連絡をとる〉というニーズを満たせない状態は、本当に「容認できない困窮状態」と考えられるのか?
②仮に〈友人と連絡をとる〉というニーズを保障すべきニーズとするなら、これが最低限満たされたというのはどういう水準か?「自由に文字のやりとりができるのであればよし」とするのか、「声でやりとりできなければ不十分」とするのか?「1分間隔でやりとりできなければ問題」と考えるのか「1時間間隔でよし」とするのか?

このあたりは、継続的に議論してその都度合意形成していく必要があることですが、その際「道具のレベル」だけに注目して贅沢云々というレベルの低い話をするのはもうやめにしましょうよ、というのが今日の趣旨でした!(笑)
着地がグラグラした感が否めないですが…(多分)また来週!

貧困について、たまにはポジティブな話がしたい(笑)ーあたなが守った、小さな命

こんにちは!

大学で日本の貧困について研究してた頃から「多くの人に貧困について語る、伝えるうえで、どういうやり方が効果的なのか?」というのは、自分のなかでとても関心のあるテーマでした。

貧困がを是正するためには、最低生活の保障という社会的合意を得ることが必須ですから、こういう問いに向き合うことになるのはある意味当然ですよね。

同時に、「貧困について考える」「向き合う」ということそのものの「面白さ」をもっと多くの人で共有したい、というピュアな思いもありました。
貧困について人と議論しているとき、相手に自分と同じような問題意識をもってほしいという思いも当然あるわけですが、そこでの対話の最終的な着地点は違っていて全然かまわない。「やっぱり社会保障は不要だと思う」という人がいてもいい。ただ、その過程のなかにある「社会の在り方について一緒に考える」という作業そのものがとても楽しい。
でもって、貧困の議論の出発点(あるいはさしあたりの「着地点」?)は、この「楽しさを共有する」ということでいいのではないか?そんな風にも思うわけです。

…というのもですね、「貧困への関心を持ちましょう」っていう啓蒙的な感じにアレルギーある人もいると思いますし、皆さん日々自分のことで手一杯ななか、重くなりがちなテーマをぶつけられてもしんどくなってしまうんじゃないかと思うんです。
ニュースや新聞で貧困をめぐる議論をちょっと覗いただけで「日本の7人に1人が相対的貧困」「生活保護の捕捉率がわずか20%」「最低生活の基準引き下げ」「東京都のネットカフェ難民が4000人」…と、暗い話題ばかり。

一方で、最近、貧困をめぐる芸能人の発言に対する世間のリアクション(某咄家のSNSの炎上とか)を見ていると、国内の貧困に目を向ける人も増えてきているように思います。

とはいえ、貧困に関心をもって「どうにかしたい」と思う人であっても、「今の日本ではこんなに苦しんでる人たちがいます」と言われ続けると暗い気持ちになってしまいそう。
貧困支援の現場で働いていると、当事者の色々な声を聞いたり、社会保障制度の効果を感じる機会があるので、「今の日本でもここまではできてる!」とポジティブな部分も確認できるんですが、ニュースとかでしか貧困に「触れる」機会がないと、入ってくるのは暗い話ばかりではないかな~と。

もちろん、問題点の指摘はとても重要ですし、社会の責任を問い続ける意義はありまくりです。この点はいくら強調してもしすぎることはないと思ってます。
でも、たまには「ポジティブな話」も聞きたくないですか?
大体、「貧困について考える」ということは、「良い社会、住んでみたい世界についてみんなでワイワイ考える」という、とてもポジティブな作業でもあるはず。
すでに日本には生活保護という、みんなが幸せに暮らすことを目的にした制度があるわけで、実際にこれをみんなで作ってきたわけじゃないですか。
せっかくみんなで作ってるこの制度、問題点ばっか確認してても楽しくないので、たまには「できてる」部分にも光をあててみましょう。

大学院の調査で出会ったノゾミさんの話
僕が大学院で調査していた時に出会った方で、ノゾミさん(仮名)という方がいました。2015年当時30歳の彼女は、0歳児の一人親として生活保護施設で生活されていました。
貧困に関わる調査で出会う方というのは、やはりみなさん大変な生活をされていて、ライフヒストリーを聞いていると、なかなか壮絶なエピソードが出てきます。

ノゾミさんも「物心がついたぐらいから経済的に苦しくなって、保険証もなかったので何かあっても市販薬で我慢。高校生の頃にはアルバイトして家にお金をいれていた」そうで、彼女が成人する頃には親が自己破産をしたことで実家を失ったといいます。
その後、結婚を前提に交際をしていた男性と同棲するも、相手にノゾミさんの貯金を使われるなどして財産を失い、妊娠が分かったことで仕事も解雇されてしまいました。

住所移して一緒に住み始めようってことで住み始めた直後に、相手に借金があることが分かり、しかも気づいたら私の財産、財布の中まで全部持ち出されてるような状況で。で、しかも妊娠が分かった当時も働いてたんですけど、もう、マタハラというか、事実上解雇になって。

そんな、「八方ふさがり」の時に利用したのが、生活保護だったといいます。

つわりもあるから働きたくても働けなくて、このままだと自分もお腹の子もダメになる…どうしようもなくなって、生活保護受給中の親を頼るしかなく、…だけど親ももう高齢だし、自己破産のストレスとかもあって…それこそ手をあげる感じの人だったので、どうしようって。それで、出産して、病院で退院後の生活を聞かれた時に「それはやばい」ってなって、周りの人が助けてくれて、こちら(生活保護施設)に入れてもらって生活保護受給させてもらえるようになったんです。

幼少期から生活に困窮し、成人後も大変な環境で生きてこられたノゾミさん。
彼女の話から、「適切な社会的支援をもっと早い段階で受けられるように、制度を改善するべきである」と指摘することもできますし、僕自身その立場です。
ただ、それに加えて、ノゾミさんの生活を「良く」するために、今の日本が、僕たちができていることも確認しておきましょう。
ノゾミさんにとって、今の生活保護はどういったものだったのでしょうか。

生活保護の話をして、困ってる人の話になると、「臭いものにふた」じゃないですけど、やっぱり暗いイメージとかがあると思うんです。だけど、そうじゃなくて、生活保護のおかげでこうやって生まれた命もあって、この子もこうやって元気に育って笑ってますっていうのを知ってほしいというか。本当に私は子どもが生まれて、子どもの顔をみて、「ああ本当に苦しかったけど産んで良かった」って思ったので…、なんていうかその、生活保護って、「納めてる税金で暮らしやがって」って思われるだろうけど、あなたはこの子の命を守ってくれてるんですよ、と。払ってもらってる分、ありがとうとも思うし、そういうのも知ってほしいというか。うん・・・まあ子ども嫌いな人には逆効果でしょうけど(笑)。私は妊娠中に本当に困って、子どもとわたしで死ぬしかないんじゃないかと思うぐらい追い詰められたので、うん。。。そうですね。そうやって助けてもらってるうえで命があるんですということを言いたいです。

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当たり前といえば当たり前ですが、今の社会制度にたくさんの不備や問題点があるのと同時に、今の制度でもできてることがたくさんあるはず。
救えなかった命もあれば、救えた命もあるはず。

貧困の実態や、制度の問題点を“当事者の声”から指摘することばかりを意識していた当時の僕は、ノゾミさんの「あなたはこの子の命を守ってくれてるんですよ、というのも知ってほしい」という言葉がとても新鮮に感じました。

“当事者の声”は今の社会に「何ができていないか」だけでなく、「何ができているか」も教えてくれる。そんな当たり前のことを気づかせてもらったことは、今の僕が支援の現場で前を向く活力として活かさせてもらっているように思います。

貧困に関わる話は、重く暗いトーンになりがちですが、たまにはポジティブなことも確認する。
「貧困について考える、向き合う」ことそのものの「面白さ」をみんなで共有する出発点として、そんなアプローチもあっていいんじゃないでしょうか?
それでは今日はこのへんで!

「貧困」と「格差」は全く違うというお話

こんにちは!

前回の投稿から1年以上経ってしまいました(笑)
やっぱりこういうのは性格が出ますね…。
それと、貧困支援活動の現場に身をおいていると、世間の皆さんに知ってほしいことや現状みたいなものに日々「出会う」一方で、それらを整理して理性的に俯瞰する…という作業はなかなか進まないというか、骨が折れるのだなと痛感しております。。。

とはいえ、今の職場で働きだして約1年半。そろそろちょっとずつ慣れてきたので、「社会の在り方や貧困に関する自分の考えを俯瞰して整理する作業」もきっちりやっていこうと思います。2018年の目標です(笑)

そんなわけで、さしあたり今年、「貧困をめぐる議論への違和感」に向き合おうと思っとります。
近年、国内の「貧困」をめぐって議論が活発にされるようになってきてますが、問題提起する側とそれに反発する側の主張がうまくかみ合っていないなと思うことも多く、そのあたりをちょっとずつ整理していきたいなーと思うわけです。

貧困を是正しようというと、なかなかの確率で返される反論「共産主義じゃうまくいかない」…への違和感

「貧困の問題が深刻なので社会的になんとかしましょう」というと、なかなかの確率で「そうは言ったって共産主義はうまくいかないでしょ?」と返されます。

こう返されるたびに私は、「貧困と格差/(所得の)不平等の区別がまだまだ日本では認識されていないのだな~」と感じます。
というのも、「貧困の是正を目指す」イコール「格差・(所得の)不平等を解消する」というわけではないからです。

ここで声を大にして申し上げておきたいのですが……

「貧困」は、「(所得の)不平等」や「格差」とは全く異なる概念です。

語弊を恐れずに言えば、私は、「貧困」は絶対に是正されなくてはならないと考えていますが、「(所得の)不平等」や「格差」がなくなるべきかどうかは一概に言えんと思っています。

何故なら、「格差がない」というだけの条件では、これが良い社会かどうかは分からないからです。

ここで、
格差は大きいけれど構成員全員がそこそこ幸せな暮らしを営むことができている社会Aと、構成員の全員が餓死すれすれの社会Bを考えてみてください。

この時、社会Aと社会Bではどちらのほうが「良い」社会でしょう?
恐らくほとんどの人は社会Aを選ぶのではないでしょうか?
それでは、なぜ私たちは社会Bより社会Aのほうが「良い」社会であると考えるのでしょうか?

それは、「餓死すれすれ」という状態が、私たちの「あってはならない」という直観と整合的だからでしょう。
この、「『あってはならない』状態かそうでないかというギリギリのラインを割っているかどうか」という点こそ、貧困と格差の違いです。

このことをより分かりやすくするために下の絵が役に立ちます。

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ここに、(多分、ズムスタで)野球を観戦している3人の人がいます。しかし、一番左と真ん中の2人は実際に試合をみることができていますが、一番右の1人は全くみることができていません。更に、試合を観ることができている2人は、「高い位置から見る事ができているか、ぎりぎり観る事ができているか」という違いがあります。
 この時、「試合をみる高さ」という視点から考えると、一番左の人と真ん中の人の状態は不平等(格差がある)です。しかし、両者とも試合をみることができているのでこの2人の間にある不平等が「問題である」といってよいかどうかは定かではありません。しかし、一番右の人はまったく試合をみることができていないわけですから、最低限のラインを下回っている=「問題である」と認識されるというわけです。

また、この絵の面白いところは、社会の富を額面上で「平等」に分配しても、実質的な意味では格差も貧困もなくならないことを示しているところです。

3人が乗っている台の高さを所得だと考えてみてください。
すると、この3人で構成されている社会は、所得の面では完全に平等な社会です。
しかし、3人は背の高さに違いがあるため実質的な生活内容には違いが生まれていることが分かります。

私たちがある生活を営むために必要となる所得は個人の個体差によって変わってきます。例えば、健康なAさんがそこそこの生活を送るうえで年間200万円必要な社会を想像して下さい。この社会で何らかの病気を患っているBさんが、Aさんと同様のそこそこの生活を送るために必要な所得はいくらになるでしょうか?明らかに200万円では足りません。何故なら、BさんはAさんと比べると病気の治療費が余分に必要となるからです。

目指すべきは、何の平等か?

 こうした例を考えれば、僕たちが「平等」について考えるとき、「何の平等か」というのは非常に大切な論点です。
今回、以下の3つの「平等」について確認してきました。
・所得(3人が乗っている台の高さ)の平等
・生活水準(試合をみる高さ)の平等
・「そこそこの生活を営む」(試合をみることができるかどうか)平等   

私が「貧困を是正するために再分配をしっかりしましょう」という時、想定されているのは「そこそこの生活を営む」平等であり、所得の平等でも生活水準の平等でもありません。

「そこそこの生活を営む」平等が達成されているのであれば、私は所得格差や生活水準の格差がどれだけ大きくても(さしあたり)問題はないと考えます。

とはいえ、これは理屈上の話であり、実際の社会では所得格差の大きい国ほど貧困率も高いことが指摘されています。まあ、当然と言えば当然ですよね。所得格差が大きいということは再分配があまり熱心に行われていないということですから、「あってはならない」ギリギリのラインを割っている人の数も多くなることは容易に想像ができます。試しに上の絵で、全員が「そこそこの生活を営む」平等を達成するために再分配をしてみましょう。

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この3人で構成される社会では全員が「そこそこの生活を営む」平等を達成するまで再分配を行うと、結果的に貧困だけでなく、再分配前で一番左と真ん中の人の間にあった生活水準の格差も是正されていることが分かります。

ただ、これは今回のケースで「結果的にそうなった」という話にすぎないのであって、
生活水準の格差(試合を見る高さの不平等)を是正することを目指したわけではありません。
また、所得格差という点からすると、今度は一番左の人と一番右の人で大きな所得格差が生じています。しかし繰り返しますが、ここで目指したのは「そこそこの生活を営む」平等なので、こうした格差は問題だとはされないということです。

格差社会といた言葉や貧困という言葉がメディアで取り上げられる機会が近年増えてきましたが、そこで問題となっている平等、不平等とは「何の」平等、不平等なのか?目指されるべきは何の平等なのか?こういった点をきちんと整理したうえで議論しなければ、あまり建設的な話にはならないということですね。

今日の話をもう少し学術的にみてみたいという方には、立岩真也の『自由の平等』をお勧めします!

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それでは、(多分)また来週・・・!(笑)

脱!貧困が個人の責任なのか社会の責任なのかという不毛な議論~「どっちでもいいじゃん」という「第三の道」~


お久しぶりです!
前回の投稿から100日近く経ってしまいました。

実はこの間、私は就職・引っ越し……とバタバタしておりました。
これからまた、ちょっとずつ投稿していこうと思います。

さて、今日は前回に引き続き、「労働能力・意欲」と最低生活保障の関係について、これまでとはちょっと違う視点から考えてみようと思います。

これまで生活困窮者に対して「働かざる者食うべからず」という人の意見は、該当する生活困窮者が「働こうと思えばいつでも働ける状況にあること」を証明しなければ説得力を持たないと論じてきました。

でもって「働こうと思えば誰でもいつでも働ける状況」(=意欲次第で貧困から抜け出せる状況)というのは日本の景気が良かった時期(高度経済成長期、バブル景気、いざなみ景気)であっても実現していなかったことを確認しましたね!
cbyy.hatenablog.com

しかし、理屈の上では「ある仕事Aをするのに十分健康で、かつ仕事Aが用意されているにも関わらず、『働きたくない』という理由で働かない人」を想定し、この人物の最低生活を社会が保障する必要があるのか、と問うことはできます

おそらくこういった問を立てた時、上述したような人物を社会が助けるべきだと考える人はあまり多くないのではないでしょうか?
実際、貧困を問題視する立場であっても、「貧困がいかに社会的なものとして生じているか」を強調するケースが多く、「働きたくなくて働いていない人」や「本人の努力不足と認識しうる人」を想定することはあまりありません。僕は、ここに貧困を問題提起する人たちの(ある種の)「わきの甘さ」があるように思えてならないです。なぜなら、社会保障不要論を唱える人の多くは、「個人の責任で貧困にある人」の存在を想定し、こうした人を救済することに反対しているように思えるからです。
個人的責任による貧困と社会的責任による貧困が存在すると信じている人に対し、貧困の原因は個人的なものではなく社会的なものなのだと応答し続けるというのはあまり建設的ではないように思います。
両者の議論を前に進めるためには、「貧困は自己責任か、社会の責任か」という問いをめぐって争うのをやめることだと思います。
というのも「完全に個人的な責任による貧困」「完全に社会的な責任による貧困」といったものを同定しようとすること自体が、そもそも不可能だからです。

例えば貧困状態にあるAさんとそうでないBさんがいたとします。この時、「Aさんが貧困状態にあるのはAさんの努力がBさんよりも足りなかったからだ」として、Aさんが貧困状態にあることの原因をAさんの努力不足に求める主張は、貧困が社会問題として取り上げられる際かなりの頻度で耳にします。

しかし、上の「Aさん自己責任論」は、AさんとBさんにはそれぞれ生まれながら全く同じ条件が与えられているという前提がなければ説得力を持ちません。なぜならたまたま貧困家庭に生まれたAさんは義務教育以外何の教育も受けなかったのに対し、たまたまお金持ちの家庭に生まれたBさんは小さい頃から英才教育をバンバン受けていた……という場合、AさんがBさんと同じ能力や社会的地位を獲得するためには、BさんよりもAさんが努力しなければならないのは明らかだからです。そしてこの場合、AさんはBさんの何倍の努力をしていたにも関わらず、Bさんより低い業績しか達成できない、ということは十分あり得ます。

しかし現実の社会は個人の才能といった先天的なものから、家庭環境といった社会的なものを含め、一人ひとりがおかれた状況、与えられた条件というのは全く異なります。こうした様々な条件を統一しなければ、現在貧困状態にある人が本人の努力不足で貧困に陥っているとの説明は説得力を欠きます

一方、Aさんの貧困は100%社会に原因があると証明するためには、Aさんと同じような家庭や条件を与えられた人がみんな貧困に陥ってしまうことを証明しなければいけません。が、これも不可能な試みです。なぜなら、やはり全く同じ条件のもとに成長するという二者は現実的には存在しないからです。

実際、貧困であれそうでない状態であれ、現在ある個人がおかれた状況というのは社会構造と個人の主体的な行為の相互作用の蓄積であると理解するのが妥当なところです。

貧困を問題提起したい人の多くは貧困の自己責任的な側面を否定しますが、こうした取組は場合によっては貧困にある人々の首をしめることにすらなりかねません。なぜなら、「貧困を生み出すのは個人の責任ではなく社会構造に原因がある!」と強調すればするほど(貧困にある人に落ち度はなかったのかといった)、「自己責任の度合を問う社会的な視線」を尖鋭化させてしまうからです。そして繰り返しになりますが、「貧困の原因は100%社会構造の側にある」というのは事実認識として説得力を持ちません。立証が不可能だからです。

では、貧困を問題提起する際、重要なことは何か?

それは「最低生活を営む権利」が個人の意欲や努力などを条件として保障されるという発想を変える主張を行うことです。

貧困の自己責任的な側面を認めた上で、「本人に落ち度があるとしても、最低生活は無差別平等に保障すべきである」、と開き直ればよいのです。

そして、これはそれほど突飛な考え方ではありません。
というのも、僕たちの社会が基本的人権として認めているもののほとんどは、
本人の資質や性格や生活態度がどのようなものであれ無差別平等に保障されています

例えば、義務教育を受ける権利はいかなる理由でも剥奪されることはありません。
「○○さんは授業中寝てばかりいるので明日から登校を認めない」などと教師が言おうものなら大問題になりますよね?

また、選挙での投票権も年齢や国籍の条件を満たせば禁固以上の刑に処せられたりしない限り、生活態度がどのようなものであれ剥奪されません。

同様に生存権基本的人権ですから、理念的には「労働意欲や生活態度に関わらず、所得状況などの要件を満たす(=客観的な指標で生活に困窮していると判断される)場合は無差別平等に最低生活を保障する」こととされるわけです。

よく、「義務の伴わない権利はない」という人がいますが、その際の義務の内容や強制力というのは権利の種類によって大きく異なります。レストランで食事をとる権利はお金を払うという強力な義務(条件)とトレードオフな関係にありますが、基本的人権はそのような強い強制力を伴う義務が条件として課されることはないのです。これは、基本的人権は人が善く生きるうえで極めて重要、必要不可欠な要素であると理解されているためです。

実は、戦後直後の生活保護制度は「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という「欠格条項」というものがありました。しかしその後、上述した理由でこの条項は取り除かれ、(理念上は)文字通り無差別平等に保障するということになったという歴史があります。(岩永2011:49-79)

こうした理念を念頭におくと「働かざる者食うべからず」という意見は「食う」という基本的人権が「働く」という条件を前提としている時点で、最低生活保障の理念とは相いれないことが分かります。

条件つきでない権利というものをあまり考えたことがないという人にはあまり腑に落ちない話かもしれませんが、ちょっと思考をめぐらせてみれば意外とそういった権利は少なくないことに気付くかもしれません。

繰り返しますが、貧困を問題提起し社会保障の充実を目指す際、「貧困は自己責任ではない」と主張する必要なんて全くない。「自己責任だろうが社会の責任だろうが最低生活の保障はしっかりやりましょう」という立場をとって、基本的人権の性質について訴えていった方が絶対建設的だと私は思います。

長くなりましたが、今日はこのへんで失礼します。

日本の貧困は「働けるのに働いていない人の問題」だと言えるのか検証してみた

こんちわ!
以前、労働能力や労働意欲の有無といった個人の状態に関わらず貧困は生じるということが歴史的に実証されてきたという話をしました。
cbyy.hatenablog.com

それでは、そうした事象は日本でも確認されるのでしょうか?

 「働かざる者食うべからず」という意見が説得力を持つためには、「働けるのに働いていない」ということを科学的に立証する必要がありますね!今日はその実証を試みてみようと思います。(実証といってもここでは「稼働能力」の意味に関する整理などもしていないし、全ての地域の有効求人倍率などをみているわけではないので、あくまでも一つの視点を提供する……くらいのレベルのものですが)

まず、過去50年の有効求人倍率を見てみましょう。有効求人倍率

有効求人倍率=求人数(企業側の採用予定人員数)÷ 求職者(仕事を探している人)


で計算されるので、有効求人倍率が1を超えていれば、理屈上は仕事を探している(労働能力・意欲がある)人は全員がさしあたりの職にありつけるということになります。

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※縦軸:有効求人倍率 横軸:西暦
厚生労働省 職業安定業務統計 より永井が作成)

 このグラフを見ても明らかなように、日本は過去50年間のうちほとんどの時期において有効求人倍率は1を下回っています。有効求人倍率が1を超えているのは1967年から73年の高度経済成長期、89年から91年にバブル経済期、いざなみ景気の2007年といった好景気の時だけです。

つまり、少なくとも過去50年間のほとんどの時期において、日本は「働く能力があっても職にありつけない人が一定数存在する」国だったということになります。

それでは、有効求人倍率が1を超えている時期は、生活困窮者はいないのでしょうか?近年、「貧困を是正するために経済成長を!」という掛け声がよく聞かれますが、貧困率の推移を見ると、過去50年間相対的貧困率は10%前後で推移していることが分かります。

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※縦軸:貧困率(%) 横軸:西暦
橋本健(2013)『「格差」の戦後史』河出書房新社,227 より永井が作成

高度経済成長の頃に戻れば貧困はなくなると考える人も少なくないのですが、実はこうした考えはデータで支持されません。実際には好景気の時であっても生活困窮者は常に一定数存在していたのです。


これはちょっと不思議な感じがしませんか?全国平均の有効求人倍率が1を超えている時期にも関わらず生活困窮者がいるというのはどういうことなのでしょう?

勿論、生活に困窮する理由としては失業、健康上の問題などでそもそも労働能力がない、など人によって様々なので、貧困とされる10%のうちわけを詳しく見なければ、有効求人倍率貧困率の関係から意味のある説明を導くことはできません。

しかし、「有効求人倍率が1を超えても貧困状態にある人は、労働意欲がないために困窮しているにすぎないか、少なくともそうした人を一定数含んでいる」と仮説的に考えることはそれほど無理のある説明ではないし、実際にそのような理由から貧困是正策として経済成長が謳われている側面があることは否定できません。

そこで、ここからは「有効求人倍率が1を超えても貧困状態にある人は、労働意欲がないために困窮しているにすぎない」という説明が正当制を持ちうるかを検証してみましょう。

こうした説明を導くためには地域別の有効求人倍率についても検証しなければなりません。以下は北海道と沖縄の過去30年の有効求人倍率です。


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図1 北海道の有効求人倍率の推移 - 内閣府


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図2 沖縄の有効求人倍率の推移 - 内閣府



二つのグラフから明らかなように、全国平均で有効求人倍率が1を超えている時期でも、北海道と沖縄の有効求人倍率は低いままです。
つまり、有効求人倍率が全国平均で1を超えているかどうかを見ているだけでは働く条件が保障されているかを検証するには不十分だということです。
それでは、有効求人倍率が1を超えている地域であれば誰でも働きたい人は働けるのでしょうか?

2005年12月から2007年12月という比較的好景気だった東京都の有効求人倍率をみると、全体として(年齢計)は1を大きく上回っていることが分かります。しかし年齢別にみるとどの年齢階層でも1を超えているのは2007年12月だけです

\ 05年12月 06年4月 8月 12月 07年4月 8月 12月
年齢計  1.52 1.61 1.62 1.44 1.41 1.36 1.37
24歳以下 3.51 2.82 1.83 1.68 1.38 1.46 1.45
25~34歳 1.44 1.32 1.98 1.81 1.51 1.56 1.45
35~44歳 1.20 1.22 1.00 1.06 0.98 1.00 1.26
45~54歳 1.20 1.22 1.00 1.06 0.98 1.00 1.26
55歳以上 0.76 0.78 0.81 0.96 0.94 0.93 1.37
55~59歳 0.63 0.67 0.81 0.91 0.87 0.89 1.31
60~64歳 0.71 0.77 0.81 0.98 0.96 0.93 1.36


年齢別有効求人倍率の推移 バックナンバー | 東京労働局
より、永井作成


以上から……
日本の過去50年間において、「労働能力のある人全員が就ける仕事がある」という、「働かざる者食うべからず」という意見が多少でも説得力をもつ前提が成立したことは、極めて限られた時期の限定的な地域を除くとほとんど全くなかったということが分かります。
 よって、「本人の労働能力がどのようなものであれ貧困は社会構造上発生する」という、イギリスの「教訓」は日本にも当てはまるということになりますね!
 「給付を引き締めれば怠惰な貧困者は働くようになり、生活困窮者は減る」なんてことは絶対にないのであり、労働能力に関わらず生活困窮者は社会的に救済すべきだということが分かるかと思います。
 
さて、今日は「働く条件が整っているのか」という視点から最低生活保障の必要性について書きました。しかし、「働く条件が整っていようがいまいが最低生活は無差別平等に保障すべきである」という考えも存在します。
次回はこの点について考えてみたいと思っています!

よろしく、どーぞ。

生まれて初めて言います。今回ばかりは選挙行きましょう!(笑)

さて、日頃から研究の関係上政治参加について考える機会の多い僕ですが、ついこないだRCCの取材でも答えたように、

選挙に対する基本的な構えとしては、
「投票は政治参加の重要な手段の一つではあるけれど、その全てではない」であり、
投票に行くかどうかについて(自分は行くけど)他人にとやかく言うつもりはない

……というものです。

投票に行く行かないに関わらず、選挙結果には有権者全員が責任を有しているのであって、その責任に自覚的な人に対して「投票に行ってない」というだけの理由で政治的に未熟だと切って捨てるのはナンセンスだと思っています。

そんな僕が、今回は声を大にして言います。

皆、今回ばかりは投票に行きましょう!

それは、なぜか?

今回の選挙はただの参院選ではなく、改憲に関わる一次予選だからです。

ご存知の通り、現在の与党は改憲をしようとしています。

しかし「憲法を変える」ということがどういうことか、あまり分かってない人も多いのでは?と思います。普通の法律を変えるのと何が違うのでしょうか?ここを理解しておかなければ、今回の参院選が持つ意味は理解できないでしょう。
というわけで、僕なりの理解の仕方で……ですが、憲法を変えるということの意味について整理してみたいと思います。

立憲主義と民主主義の緊張関係

法律をつくったり変えたりするのは政治家(=為政者)の役割ですよね?僕たちの生活は様々な法律によって(良い悪いは別として)縛られるわけですが、これが許されるのは政治家が国民によって選ばれた国民の代表だからです。

これに対して憲法というのは「為政者がやらなければいけないこと/やってはいけないこと」を予め定めておいて、これに反する法律や政策はできないようにしておく……という性質のものです。

憲法が国の最高法規(=一番えらい法)と言われるのはこのためですね。

昨年の夏、安保法制案をめぐる議論のなかで盛んに「立憲主義」という言葉が語られました。当時よくなされた立憲主義の説明は、
 「立憲主義とは、憲法によって権力者を縛るという考え方」
というものでした。そして、本来権力者を縛るはずのものである憲法を軽視したということで昨年夏、与党による安保法制案の強行採決が「立憲主義に反する」と批判されたわけです。

しかし、考えてみれば与党を選んだのは私たち国民です。
それでは、仮に「国民から100%支持された、民意を完全に反映した政権」であっても、為政者は憲法に縛られるべきなのでしょうか?

答えは、イエスです。

立憲主義の考え方では、「民意を完全に反映した法案、政策であっても憲法に反するものは無効」というものです。つまり、ある意味、立憲主義は為政者だけでなく(国民主権を採用しているという意味で)日本の「権力者」である私たち有権者も縛っているといえるわけです。

ちょっと変な感じがしませんか?
それって民主主義の理念と対立するのでは……と思いません?

じゃあどうして一見、民主主義と対立するような立憲主義を、日本を含む多くの国は採用しているのでしょうか?

それは・・・・・・

一時の世論や社会的な感情の高まりによって、長い人類の様々な歴史の中で蓄積されてきた人智である平和の希求、基本的人権の尊重などが掘り崩されないように、どんな状況でも「これだけは絶対に守りましょう」という防波堤を予め構築しておく必要があると考えられているため
です。

実際、国民の選挙によって選ばれた政権が、人々の基本的人権を踏みにじる政策を行った例というのは枚挙に暇がありません。

(繰り返しになりますが)だからこそ、権力者、とりわけ為政者が「何があってもやってはいけないこと/やらなければならないこと」を憲法で予め決めておこうということになっているわけです。

憲法を変えるというのは、他の法律を変えるのとは全く違う意味を持つ

さて、そうはいっても「絶対に変えることのできないルール」なんて不自然極まりないですよね。時代に合わせてルールが変わっていくのはおかしなことではありませんし、むしろ既存のルールの正しさを妄信することの方が不健全だと思っています。何を隠そう、僕は改憲派です。(自民の改憲草案には断固反対ですが)

なので当然、憲法も変えることができるようになってます。

しかし!

憲法を変えるということは、長い人類の歴史的な経験の結果として蓄積された「基本的人権を守るためのルール」に変更を加えるということになるわけですから、「飲酒ができるのは18歳に変えましょう」なんていう単なる法律の変更とは、その重みが全く異なるわけです。

だからこそ、憲法を変える時には

第九十六条  この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。


という、ものすごい面倒くさい手続きを踏まないといけないことになってるわけです。

憲法変えるよ?衆院議員の皆さん、いいですか?いい?いいよね?過半数がいいって言ってもダメだよ?3分の2!いい?よっしゃ。じゃあ、参院議員の皆さんは?いい?3分の2……いい?よしよし。じゃあ、最後!国民の皆さん、いいですか?過半数……いいね?ほんまにいいんやね?よっしゃ!」

……とまあこれだけ念には念を押して「みんなで決めた」という確認がとれてはじめて憲法は変えることができるようになってるわけです。それだけ憲法というものは国のあり方の根幹に関わる重要なルールなんだという評価がされているというわけですね。

憲法を変えるということがどのくらいデカイことか分かって頂けたでしょうか?
よく「投票したって何も変わらない」という人がいますが、今回の選挙に限って言えば、それは大間違いです。今回の選挙次第では、今後の日本の根幹となるルールが大きく変わりうるのです。それは、日本を根底からつくり変える可能性を持つということです。

さて、参院選の予想ではこのままいくと改憲派の党で参議院議席3分の2が占められるようです。

まあ、それはそれでいいでしょう。
みんなが選んだ結果、「憲法改正の発議」→「国民投票」という流れで憲法のあり方をみんなで考えて決めて行けばいいわけですから。

自民党憲法改正草案は、単なる改憲ではなく立憲主義そのものを問い直すものになっている

一方で……

みんな、自民党憲法改正草案よんでますか??

constitution.jimin.jp


僕は自民党憲法改正草案をはじめて読んだとき、「マジか!!」と思いました。
それは何故かというと、自民党憲法改正草案は憲法立憲主義を事実上骨抜きにするものになっていると感じたからです。

改憲をめぐっては9条について活発に議論されていますが、これは「為政者が何があってもやってはいけないこと/やらなくてはいけないこと」の内容・リストをどう考えるか……という議論です。

しかし、自民党憲法改正草案では、この「為政者が何があってもやってはいけないこと/やらなくてはいけないこと」が記述されると同時に、国民の義務が強調され、これが基本的人権を制約する根拠となりうるような記述が非常に多いんです。

繰り返しますが、立憲主義の本来の理念は国民の基本的人権を保障するために「為政者がやってはいけないこと/やらなくてはいけないこと」をリスト化することで為政者を牽制することであって、国民の義務をリスト化し基本的人権を制約しうる条件を設けることではありません

これでは、自民党憲法改正草案が現実のものとなった場合、僕たちの国は(控えめに言っても)「立憲主義を部分的に放棄する」ことになると評価せざるをえません。

つまり、今回の参院選は、「憲法改正の一次予選」であると同時に、「日本が立憲主義を今後も採用するかどうかが問われる選挙」でもあるわけです。


改めて、言わせて下さい。

みんな、選挙行きましょう!

立憲主義そのものを問い直す選挙」なんていう、日本史上初のめちゃめちゃ大事な「まつりごと」に関われるなんてことは、この先の人生でなかなかあるものじゃないですよ。

それでも選挙には行かないという方、
せめて、自民党憲法改正草案の対比表を見てください。

僕からすると、「立憲主義をやめる」ということは、「集団的自衛権を認める」なんて比較にならないぐらい最悪です。生存権とか表現の自由とか、そういう基本的人権が保障されるという建前を失うわけですから。

でも勿論、立憲主義そのものをやめるべきだという意見の方もいるだろうと思う。
「草案よんだけど、ナガイが言うほど立憲主義に反してなくない?」と感じる人もいるでしょう。(っていうか、僕の杞憂であることをマジで望みます)

だからこそ、みんな、草案よんで、各々の意見もって、投票行きましょう!

昨年の夏、メディアで散々立憲主義がどうの改憲がどうのって騒いで、あれから1年たった今、「草案を読む時間なかった」なんて通らないですよ。
あとになって、「こんな憲法になるなんて思わなかった!!」なんて無責任なこと言っても遅いですよ。

どの候補者、党を支持するにしても、みんなで考えて、みんなで決めましょうよ。

人の行為にあーだこーだ言うのを嫌う僕が「選挙に行こう」なんておせっかいなこと言うのは、多分後にも先にもこれが最後だと思います。(わからんけど)

うざいなーと思われるでしょうが、それだけ重要な選挙だと(少なくとも)ナガイは考えているとご理解下さい(笑)