シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

広島大学で講義をさせてもらいました。-“怠け者”や“素行不良な者”でも支援する理由とは?

お久しぶりです!
先日、母校の広島大学でホームレス支援の活動についてお話をする機会をいただきました。「貧困支援のプロのやりがいと悩み」という、たいそうな題目をまえに僭越ながら…(笑)

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今回は基本的にはどんな話をしてくれても構わないということだったのですが、講義の全体としては福祉国家の多くが理念として掲げているいわゆる(支援における)「無差別平等の原理」が、(場合によっては多くの市民感情を“逆なで”するにも関わらず)なぜ採用されているか…というあたりを掘り下げる内容とのことだったので、私もここに重点をおこうと決めました。
というのも、私自身、この「一見、“怠け者”に見えたりトンデモない言動をする当事者」に対峙する時こそ、現場で活動するうえでのある種の“おもしろさ”を感じているからです。

少し話がそれますが、ホームレスの方や生活困窮者に対する「お金をギャンブルやお酒に使い込んでしまったり、仕事があるのに働きもしない怠け者だっている。そういう人たちを税金で支援するなんてけしからん!」というバッシングはよく目にしますよね。
これに対して支援関係者や研究者は、「そういう人はごくごく少数」「実態としては働かないんじゃなくて働けないんだ」などとカウンターを入れるんですが、私個人としてはこうした“擁護”が時に不自然に感じることがあり、正直こういう応答の仕方に「飽き飽き」しています。
というのも、ギャンブルやお酒で一文無しになって泣付かれることはそんなに珍しいことでもないですし、無差別平等の原理を徹底することを念頭におくならば、むしろそういう「トンデモない言動をする人」の存在を認め、かつ「まあ、一般的にはトンデモないと評価されるような人だって、生きていていいじゃないですか」と開き直るほうが、よっぽど無差別平等の理念と整合的だと思うからです。
「働かないんじゃなくて働けないんだ!」と強調すればするほど、「働かない人」バッシングにある意味では加担してしまうことになるように思います。

そこで今日は、貧困支援関係者の多くが、なぜ「トンデモない言動をする人」であれ、支援の枠組みから排除しないのかということについて広大での講義内容をもとに私の考えを書いてみようと思います。

そもそも、「無差別平等の原理」とは?

今でこそ最低生活に満たない生活をしている方であれば、その困窮の理由に関わらず生活保護による保障の対象となりますが、1946年に制定された(旧)生活保護法には第二条に「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という欠格条項がありました。

第二条 次の各号の一に該当する者は、この法律による保護は、これをなさない。
一 能力があるにもかかはらず、勤労の意思のない者、勤労を怠る者その他生計の維持に努めない者
二 素行不良な者

また、この法律を制定するにあたり、当時の厚生省とGHQの間で「素行不良な者」の解釈をめぐって議論になり、「『飲む、打つ、買う』のような者」という意見が出たそうです。(副田義也1995『生活保護制度の社会史』:21)

つまり、「怠け者」や「トンデモない言動をする人」を保護の対象から外そうという議論は生活保護法の制定をめぐる公的な議論においてすでになされていたというわけです。

しかし、1950年に施行された現行の生活保護法では、この欠格条項はなくなっており、第二条にはかわりに「この法律の定める要件を満たす限り」保護をうけることができる、という「無差別平等」の理念が明記されるようになりました。
(※厳密に言うと(旧)生活保護法にも第一条で無差別平等に関わる文言を確認できるのですが、現行制度の無差別平等とは質的に大きく異なっています)

(無差別平等)
第二条 すべて国民は、この法律を定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を無差別平等に受けることができる。

この、「要件を満たす限り」というのは、「現在、本人の資産や他の社会保障制度(年金など)を活用してもなお生活に困窮しているのであれば、勤労の意欲のない者であれ素行不良な者であれ保護する」ということです。

これはちょっと不思議な感じというか、納得できない人も多いのではないでしょうか?
(旧)生活保護法のほうがいいのではないかと感じる人も多いと思います。

では、なぜ現行の生活保護法は、そして当事者支援を行う団体や関係者の多くは、支援にあたってその対象とするか否かの「条件づけ」をしない(明文化しているかどうかは別として事実上、無差別平等の原理を採用している)のでしょう。
今日はその理由として、以下の3つの視点から考えてみたいと思います。

支援に際して条件づけを行わない理由①
理由の1つ目は、「“怠け者”や“素行不良な者”」の定義と運用に関するものです。
例えば、飲酒を考えてみましょう。「社会保障制度による給付金を初日に全額飲み代に使ってしまった…」など、極端な例であれば、「それは飲みすぎだ!けしからん!」と多くの人は思うでしょうが、「月に一度、缶ビールを飲んでしまった」という場合はどうでしょう?
「困窮してるのにお酒なんかにお金を使うべきではない!」という人もいれば、「まあ、誰だってたまの1杯くらい息抜きにあってもいいかも」という人もいるのではないでしょうか。

ギャンブルにしたって、月に1回1000円程度(社会保障の給付金で)パチンコに行く人を“素行不良”と評価する人もいればそうでない人もいる。また、その1000円が映画鑑賞などであれば問題に感じる人はぐっと減るかもしれない。そうなってくると、なぜ映画鑑賞はよくてパチンコはダメなのか?

…と、「素行不良な者は支援しない」という条件をつくろうとすると、即座に「“素行不良な言動”を誰が、どういった価値観から、どうやって定義づけするのか」という、極めて難しい問題に直面します。

お酒やギャンブルなど、数値化がありえるものはまだ「社会保障の給付金での飲酒はひと月1000円まで」などと設定することは、技術的には可能かもしれない。
しかし、「労働意欲があるか否か」など、“本人の気持ち”に関わる極めて質的なものを、誰もが納得できる妥当性のある形で定義することなどできるでしょうか?

「厳密な定義やルールづくりなど必要ない。対応する人間がその都度当事者のやる気を判断すればいい」という人もいますが、支援を継続するか否かを判断するというのは、控えめに言っても「相手の生死について決定する」という行為です。そんな重い判断を現場の人間だけに委ね、負わせることは、明らかにフェアじゃない。何より、公的なサービスをきちんとした定義やルールに基づくことなく運用するというのは法治国家として失格でしょう。

支援に際して条件づけを行わない理由②
理由の2つ目は、「関わりを断ったり“排除”したところで状況は何も好転しない」という事実認識にもとづくものです。

「“怠け者”や“素行不良な者”の生活を社会が支える必要はない」として、支援するのをやめたところで、当事者はこの世から消えてなくなるわけではありません。
このことは、ちょっと考えれば当たり前にわかることだと思うんですが、なぜかこれが前提とされないままに当事者バッシングが盛り上がる…ということがよくあるように感じます。

今年の2月18日に日曜朝の『ワイドナショー』という情報番組内で、ダウンタウン松本人志さんの発言が話題になりました。

分からんように(ネットカフェの部屋を)ちょっとずつ狭くしたったらどう?
路上から始まるほうが俺はチャレンジしてる感じがする。路上なら頑張るんじゃないかな。

また、ネットカフェではないですが、都内の路上では時々ホームレスの方のダンボールハウスの撤去を求める張り紙が張られ、実際に行政によって撤去されるということがあります。

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当事者に対するこういった対応に関して、私が世間の多くの方に知っていただきたいことは二つあります。
一つ目は、「路上からのチャレンジ」と言っても、そもそも「路上が“抱えられる”路上生活者の数には限りがある」ということです。
路上生活と聞けば、どこでも寝られるように思う方もいるかもしれませんが、実際には路上生活ができる場所は限られています。私有地は勿論、普通の住宅の軒先などで寝ていたら通報されますし、雨などにさらされるとダンボールハウスはすぐに傷んでしまうためビルなどの屋根や大きな道路の高架下、公園の木の下や植え込みの中など、ある程度雨露をしのげる所でなければなりません。また、賞味期限のきれた食品をそれなりに食べられる状態で捨ててくれるコンビニや飲食店、支援団体の炊き出しにアクセスできる場所でなければ食べていくことは難しいです。
こういった条件を満たしている場所は、大都会東京といえども限定されてきます。
あまり知られていないことですが、日本の場合、どんなに大きな都市でも路上生活者の数は5000人代で頭打ちになります。(各都市の路上生活者は厚生労働省のHPから確認可能)

それ以上になると、物理的に寝られる場所がないということです。

厚労省の調査では昨年の都内23区の路上生活者は1246人ですが、これは昼間に実施される行政職員による目視調査の数字なので、日中に空き缶拾いなどの仕事をしている人や図書館などで休んでいる人はカウントされていません。そのため、多くの支援団体は夜間の調査を行いより実態に即した数字を公表すべきだと主張しています。

例えば、「ARCH(Advocacy and Research Centre for Homelessness)」という団体が行っている「東京ストリートカウント」という、有志で深夜に都内の路上を歩いて目視でカウントするという取り組みの結果、該当地域の路上生活者数は政府公表の2.6倍だったという報告があります。

こうした数字から都内の路上生活者の数を推計すると3000人は超える計算になります。
松本人志さんの「対策」を実施するとネットカフェ難民4000人が都内の路上に出てくるわけですから、都内の路上のキャパを考えると、全員が「路上からのチャレンジ」をできるかはとても怪しい。
「路上生活すらできない人たち」が一定数出るはずです。

厚労省のカウントが実態より少ないのであれば、「頭打ち」の上限も5000人以上なのでは?と、鋭い人は思われるでしょうが、「行政による路上で寝られない工夫(公園の椅子に肘掛けを設ける等)」は東京都で5000人台を記録した平成15年よりかなり“進んで”いるので、やはりキャパの限界は5000人台だと考えていいと思います)

行政によるダンボールハウスの撤去についても、同じことが起きています。
私は毎月、夜の都内を歩いて路上生活の方に食料をお渡しする「夜回り」を行っていますが、その際、別の地域を回っていた時にお会いした方と、また別の場所で再会することがよくあります。話を聞くと、

以前寝ていたA区の高架下は行政の規制が厳しくなって寝られなくなったので、こちらに移ってきました。

「ネットカフェで寝られなくしよう」「自分たちの区のダンボールハウスは撤去しよう」という対応をしたところで、当事者は別の場所に移るだけ(場合によっては移ることすらできない)です。根本的な解決には全く繋がりません。

2つ目は、松本人志さんの発言に端的に表れているように、少なくない人が「路上に出れば頑張るようになる」と考えているようですが、残念ながら、そんなことはありません…ということです。

「路上に出れば」もしくは「路上ですら寝られない状況をつくれば」働くようになる…という仮説が正しいのであれば、上記の「A区の高架下で寝ていたおじさん」は働くようになっていないと説明がつきません。
ところが、実際なかなかそうはならない。

その理由は、今の日本では路上生活から職を得るのは極めて困難…など、まずもって構造的な要因がとても大きい。(最近ではマイナンバーカードを持っていないと工事現場などでの日雇いの仕事にもありつけなくなってきています)。そして心身の持病や高齢などでそもそも働くどころではないという方がとても多い印象です。なかには「こういう生活が自分には合ってるんだ」と、世捨て人のような人もいます。(私はこういう発言をひとつとって「本人の希望で路上生活しているならよいではないか」という意見には与しません。「本人の希望」という評価は、少なくとも「当事者が路上でない生活を送る自由が実質的に確保されているにも関わらず、路上での生活を希望している」と判断できる状態でなければ成立しえません)
いずれにせよ、構造的・個人的な様々な理由が複雑に関係することで、「路上にでれば頑張って働くようになる」ということはあまり期待できない…というのが現場のリアリティかと思います。

支援に際して条件づけを行わない理由③
“怠け者”であれ“素行不良な者”であれ、支援の対象から外さない(=関わりを絶たない)という立場をとる3つ目の理由は、

「そういう人こそ、今の社会の規範を見つめ、制度の在り方などを再構築するためのきっかけやヒントをくれる貴重な存在だから」です。

自分の価値観からは考えられない言動をする人に驚くたびに、「自分のなかにある常識」をゆさぶられる感覚があります。
面談などの約束の時間をすっぽかされたり遅刻された際には、
「『分刻みで約束を守る』という今の日本の“常識”」を意識させられますし、

予期せず仕事が入り、1日で8000円稼いだのにその日のうちに飲み代に使ってしまった人から「宵越しの金は持たない主義なんですよ」と言われた際には、
「『貯金を前提にやりくりする』という発想ではないやり方で人生を楽しんでいる人もいる」といったことも考えさせられる。

いやいやいや、守らなきゃいけないルールもあるでしょう…という側面もあるでしょうが、少なくとも、「今あるルールや常識を常に疑い、より多様な人が生きやすいルールづくりについて考えるための余地」を残しておくことはとても重要なのではないか。そして、現状のルールや制度は数的・権力的マジョリティ―によってつくられているわけですから、そういった枠組みから外れる人に対して“怠け者”や“素行不良な者”というレッテルを張って排除してしまったら、社会が変革する「余白」もまた失ってしまうのではないでしょうか。

それは、あまりに勿体ない。

また、関われば関わるほど、私の場合、“素行不良”と一般的には言われるであろう当事者の方に、人間の多様さ、面白さを感じるようになりました。

ずるさ、弱さ、したたかさ、頑固さ、懐の深さ…など人間の多様な性格が一人の人のなかにも多面的に見出すことができる。

様々な不正を働いては関係者を困らせているような人が、ある時は盗難にあった路上の仲間を心配してご飯をおごっている。
数年前まで誰も信用せず、理由もなく他の路上生活の方をぼこぼこに殴っていた人が、今では殴った相手と座って談笑している。

そういう、一枚岩でない歪さや矛盾のなかにこそ、何とも言えない人間の“面白さ”のようなものを感じ、(個人的な好き嫌いは別として)「死んでもらっては困る」と思うわけです。

「そうは言っても、やっぱりちゃんと働いている人たちがやる気のない人を支える形になるのはおかしい」と思う方もいるでしょう。

そういう方には、是非一度、“やる気がない人がやる気のある人に支えられているのをみる気分の悪さ”と“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”を天秤にかけてみてもらえればと思います。
そのうえで、改めて前者のほうが「気分が悪い」と感じるのであれば、それも一つの立場かと思います。
ただ、その場合、“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”というコストは現場の人間が直接的に負うことになるわけですから、その点において、私は引き続き異議を唱えさせていただきます。

以上、永井が考える、“怠け者”や“素行不良な者”でも支援を続ける3つの理由でした。

※今回、広島大学でお話させていただいたことで、私自身、日々の活動を振り返るよい契機になりました。また、学生の方からも様々なコメントをいただき改めて勉強させていただきました。こうした機会をくださった広大関係者、学生の皆さんにこの場をかりてお礼申し上げます。

「貧困支援はおせっかい?」―パターナリズムを考える

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こんにちは!

僕は現在、ホームレス・生活困窮者支援を仕事として行っているので、あまり直接的に言われることはないですが、学生の頃に「大学で社会保障のありかたを勉強しています」というと、「当事者が何を望んでるか分からないのに、『支援をする』って大きなお世話じゃないの?」と素朴な疑問として聞かれることが度々ありました。

確かに、「何が良い生活か?」というのは個人によって異なるでしょうし、「支援」という看板を掲げて、客観的な状況から「当事者」をカテゴライズして向き合うというのは、「あなたの今の生活は良い状態ではない」という無言のメッセージを相手に与えかねない…という懸念はよく分かります。

実際、「相談にきました」と向こうから足を運んでくださるケースであれば、本人が「困っている」という自己認識をお互いに確認した状態から話が始まることが多いですが、路上にこちからか足を運ぶ「夜回り」などの現場では、「あんたらは路上生活が悪いもんだって決めつけてるだろ?私は今の生活に十分満足してるんだから放っておいてくれ」と怒られることもあります。

「あなたのため」という暴力
ホームレス状態の方のなかには、日々向けられる差別的/同情的なまなざしや経験から、自身の生活を他者から評価されることにうんざりしている方も多くいらっしゃるように感じます。
もちろん、他者からラベリングされる気持ち悪さを感じたことのある方はホームレス状態の方に限らないでしょう。
ただ、支援する者、される者という関係で対峙せざるをえないことの多い貧困支援の現場では、(支援する側の心持がどのようなものであれ)相手にみじめな思いをさせてしまうリスクがあるということを常に認識しておくべきだと思っています。

「これは、あなたのためだから」「そんな生活をしていたら幸せにならないから」と、他人の“幸せ”を自分のモノサシで勝手に決めて、特定の価値観をおしつけるようなアプローチは、相手に対する敬意を著しく欠いているし、批判されてしかるべきでしょう。
こういう態度は、パターナリズム(温情主義)という言葉でその暴力性が学術的にも指摘されてきました。

「価値観のおしつけはよくない」という、価値観のおしつけ?
では、「『価値観のおしつけ』はよくないから、何もしない」という立場は、パターナリズムとしての批判を避けられているのでしょうか?
私が学生の頃「貧困支援や社会福祉を行うべきだとは思わない」という知人と話すときに、その理由として「価値観のおしつけをしたくないから」という人が少なからずいました。

しかし、「価値観のおしつけ」をしたくないから「何もしない」という行為は、「価値観のおしつけをされるのは嫌だろうから、あなたのために何もしない」というかたちで、既に相手にとっての良い生活を(「他者から価値観を押し付けられない生活」として)先取りしてしまっている。

これをもう少し具体的に、支援の現場における「ホームレス状態の方に出会ったとき生活保護をすすめるか否か」というケースで考えてみましょう。

ここで、Aさんは「この人にとって今の生活は良くないから、生活保護を申請してより良い生活を送ってもらうべきだ」と主張したとします。
これに対してBさんは「この人にとって、今の生活が悪いと決めつけるのはパターナリズムだ。こちらの価値観を伝えるべきではない」と主張しました。

一見、Aさんの行為を「価値観のおしつけ」と批判しているBさんはパターナリズムを回避しているようにも思えます。しかし、実際にはBさんは「生活保護での生活について伝えられないまま路上で生活する」という、ある特定の生活を当事者に強いているとも言えます。

はじめ、なんとなくBさんのほうがパターナリズムを回避しているように見えるのは、Aさんが直接的な「価値観のおしつけ」をしているのに対し、Bさんは直接的な関わりを避けているため、価値観のおしつけとしての暴力性が見えにくくなっているからでしょう。いずれにせよ、両者ともパターナリズムを回避しているとは言えません。

より“マシ”なパターナリズムを模索するしかない?
こう考えてくると、私たちが誰かの「ために」何かをする(あるいはしない)場合、パターナリズムとしての批判を完全に避けるのは無理なのではないかと思えてきます。
ホームレス状態の方に出会った場合、具体的な支援を実施するにせよ、素通りするにせよ、こちらが何らかの対応をしたという事実からは逃れられず、その結果として相手に対して何らかの影響を与えてしまっている。(すでに確認してきたように素通りする場合でも「当事者を今の状況のままにおいておく、という「支援」を通じて当事者に影響を与えています)

そうであるならば、「その行為はパターナリズムだ!」と批判するとき、それがなぜ「問題だ」と言えるのかについてもきちんと主張しなければ建設的な議論にはなりません。
もしもパターナリズムを「自分以外の他者に何らかの価値観を示し、影響を与えてしまう」こととしてイメージするなら、パターナリスティックでない言動などこの世には存在しない(=あらゆる行為はパターナリズム)ということになり、批判として成り立ちません。

では、私たちが「価値観のおしつけ」や「個人の“良い生活”について他人が勝手に判断すること」を、良くないと直感的に感じるのはなぜなのでしょうか?
私は既に、〈他人の“幸せ”を自分のモノサシで勝手に決めて、自分の価値観をおしつけるようなアプローチは、相手に対する敬意を著しく欠いているし、批判されてしかるべき〉と書きましたが、この時想定している「相手に対する敬意」とは、どういった敬意なのか。

ここには、「他人に対して何が良いことかの基準を強制する行為は、〈人々が自身にとって何が良いことかを判断し行動するという自由〉に敬意をはらっていない」という直感があるように思います。
上で、Aさんの「生活保護を申請すべき」という意見に対してBさんが「今の生活が悪いときめつけるべきではない」と反対したのは、Aさんが「当事者が路上で生活するという自由」を軽視しているように感じたからでしょう。逆にAさんからすればBさんの「生活保護の申請をサポートしない」という行為は、「生活保護を利用して生活するという自由」をはく奪しているように映ったはずです。

そう考えると、AさんもBさんも、当事者の(なんらかの)自由を促進させたい、という点では同じ課題に向き合っているとも言えるのかもしれない。
ということは、(今回の例でとりあげたような)路上生活をしている方に対面した際、私たちが取り組むべき建設的な問いは、「パターナリズムに陥ることなく人々を扱うにはどのような方法をとるべきか」、ではなく、「選択の〈自由〉を促進するパターナリズムとはどのようなものか」ということでしょう。

“諦める自由”と“保障する自由”
では、「選択の〈自由〉を促進するパターナリズム」について評価するうえで、どのような作業が必要になるのでしょうか。
まず、それぞれの立場によって当事者がどのような自由を保障され、どのような自由を失うかを考えてみることが重要かと思います。

①Aさんの「生活保護で生活してもらう」という立場
この場合、Aさんのアプローチによって当事者は「生活保護で生活する自由」は保障されますが、「路上での生活を続ける自由」を失います。また、もしも生活保護での生活が半ば強制的に強いられたものであったならば、「生活保護で生活する自由」も、選択的に選ばれたものではないという意味では自由とはよべなくなりそうです。

②Bさんの「何もしない」という立場
この場合、当事者が「路上での生活を続ける自由」は守られますが、「生活保護で生活する自由」は保障されません。また、こちらが生活保護についての知識を知っているのにそれを伝えないという意味では、「生活保護について知る」自由も奪われているともいえるでしょう。

つまり、AさんのアプローチもBさんのアプローチも、自由の促進という点ではあまりに得るものが少ない(あっても非常に限定的)と評価せざるを得ません。

それでは、次のような第三の立場ではどうでしょう。
生活保護に関する知識、制度の説明をしたうえで、路上生活を続けるか生活保護の申請をするかの判断を委ねる」
この場合、当事者は「路上での生活を続ける自由」、「生活保護について知る自由」、「生活保護で生活する自由」を保障されることになります。
無論、このアプローチでも「生活保護について知らない自由」、「生活保護での生活か路上生活かを選択するという機会を与えられない自由」ははく奪されてしまいますし、その意味ではパターナリズムを回避しているとは言えないかもしれない。
しかし、私たちは保障する価値のある自由とそうでない自由について選別するという作業からも逃れられないわけですから、ある種類の自由がはく奪されているからというだけで、そのアプローチを悪いものだと批判することはできません。
そもそも(繰り返しになりますが)、「何の自由もはく奪しないアプローチ」など存在しません。
“保障する自由”と“諦める自由”を選別し、どのようなアプローチが保障する価値のある自由を促進しているか、を判断しなければいけないということですね。

今回の場合では、「Aさんの立場」、「Bさんの立場」、そして「第三の立場」によって保障される価値のある自由とはく奪される自由を整理すると以下の図のようになります。

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このように整理することを通じて、どの立場が〈保障される価値のある自由をよりよく促進できているか〉を考えることが、「支援はおせっかいにすぎないんじゃないか…」と自信がなくなった時、現場に踏みとどまって一歩前に進むために必要なのではないかと思っています。

それでは今日はこのへんで…!

「誰でも貧困になりうるんだから、貧困は他人事じゃない」というメッセージは、リアリティもないし社会保障の理念とも相いれないからあまり使いたくない。…という話

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こんにちは!

職業柄(?)、反貧困の活動をしている団体の主催するイベントや一般の方向けの勉強会などに参加する機会があるのですが、そのなかでよく「貧困は他人事(ひとごと)じゃない」というフレーズを目にします。
貧困を問題視するような番組などでも関係者がこうしたことを口にするのは珍しくないんじゃないでしょうか。

この、「貧困は他人事じゃない」という言葉、個人的に大いに同意ですし、私が活動する動機もまさにこれなんですが、「他人事じゃない」というのは色んな意味合いや文脈があるな~と思ってます。

そして、その文脈によっては、「貧困は他人事じゃない」というメッセージは果たして適切なのだろうか?と疑問に思うこともあります。

その「文脈」とは、「今の時代、誰がいつ貧困に陥るか分からないんだから、貧困は他人事じゃないのよ!」というものです。
私も団体の説明会などで貧困について話をする機会がたまにありますが、主に二つの理由からこういう表現はしないようにしています。

理由その① リアリティがない
まず、「誰がいつ貧困に陥るか分からない」というのは、事実認識として正しいでしょうか?
もちろん、失職や事故、病気など、長い人生、予測のできないことや個人の力ではコントロールできないことは、可能性としてはたくさんあります。
その意味で、「この人は絶対に貧困にならない」と言える人はいないでしょう。

ただ、貧困に陥るリスクや、一度貧困に陥った人が元の生活に戻るためのレジリエンスの程度は明らかに個人の置かれている状態や社会的資源の多寡によって差がある。
よく、「貧困についてよく知るようになってから、自分もいつ貧困になるか分からないと思うようになった」という言葉を耳にしますが、私の場合はむしろ逆です。
貧困について学べば学ぶほど、現場で当事者の話を聞けば聞くほど、「自分は相対的に貧困状態にはなりにくい立場にいるな」と思うようになりました。

なぜなら、幼少期から様々な困難を抱え、苦労をされてきた方の話を聞くたびに、いかに自分が有形無形の社会的資源に恵まれてきたかを強く意識させられることになるからです。
例えば、「困ったときに相談できる親戚や友人がいる」「免許証や住基カードといった身分証を持っている」といった、多くの人にとって普段は意識もしないような「当たり前のこと」がいざという時に決定的な社会的資源としての意味をもったりするわけです。

数字を見ても、日本の相対的貧困率は戦後からほぼ一貫して9~20%の水準で推移しています。(橋本健二『「格差」の戦後史』)
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貧困率が「高い」とされる時でもせいぜい5~6人に一人ということですから、この数字から「生涯を通じて一度も貧困状態に陥らない人のほうが多いはずだ」、と考えるのはそれほど突飛な発想ではないでしょう。
相対的貧困率のような定点観測ではなく「生涯を通じて貧困を経験したことのある人」の割合を調べた調査を私は見たことないので、実際のところは分かりませんが。多分、そういう調査は国内では今のところないはずです。知ってる人は教えていただけると助かります。)

「貧困の再生産」などの議論に象徴的なように、「貧困状態にある方やリスク層は固定化される傾向がある」というのは貧困研究者の間で一定の合意があるように思います。
つまり、実態としては貧困状態にならない方のほうが大多数だし、また貧困に陥るリスクも均等ではないので、「誰がいつ貧困に陥るか分からない」というメッセージは多くの人にとってあまりリアリティのあるかたちでは響かないのではないか…と思っています。

理由その② 「貧困リスクを回避したいなら、金持ちは民間の保険を使えばいい」となってしまう
第二に、「いつ自分が貧困に陥るか分からないから、貧困に関心をもとう」という考えは、「自分が貧困になる可能性が限りなくゼロに近いなら、自分には関係ない」という考えの裏返しでしかありません。
でもって、「そうは言ってもリスクがないわけじゃない」と考えるお金持ちの方は、自分のリスクを回避したいだけであれば「失業したり事故にあった時のために、所得保障の民間の保険に入っておこう」とすればよくなってしまう。

「自分が貧困に陥った時のために貧困に関心をもって社会的な対策を講じとかないと、いざという時困りますよ」という、いわば「損得」にもとづいて貧困を考えるのであれば、お金持ちの方が国による社会保障を支持するうまみは実はあまりありません。
なぜなら、「損得」で考えるなら、「保障を受けるリスクが低い人同士でお金を出し合ってプールしておく」のが一番合理的だからです。
社会的・経済的地位の高い人は、そもそも貧困に陥るリスクが低いわけですから、そういう人たちが出し合ってプールしたお金が目減りするリスクも当然低くなります。
そうすると加入者の一人が保障を受ける際、既存の社会保障よりもはるかに手厚くすることもできるかもしれない。
そういう意味で、「損得」勘定をするなら、お金持ちの人たちにとっては、国による社会保障のようにわざわざリスクの高い人たちと一緒にリスクヘッジをしようとするのは明らかに「損」です。

しかし、この「多くの人にとっては『損』」という社会保障制度の特徴こそ、まさに国家による社会保障の理念を反映しています。「貧困のリスクヘッジ」を民間の保障会社などの市場に任せてしまったら、保険を「買えない」人たちの生活は守られなくなってしまう。
「一番リスクが高く、一番ニーズの高い人たち」が“保障の市場”から締め出されないように、税金というかたちで広く“保険料”を集め、すべての人の生活を保障しようというのが社会保障ということですね。

つまり、「自分が貧困に陥った時のために」という「損得」勘定にもとづく発想は、根本的には社会保障の理念とは相いれないというわけです。

社会保障の「多くの人にとっては『損』」という特徴が強く印象づけられてしまうような制度設計では、社会保障の意義が人々の間で共有しにくくなってしまうので、より多くの人が利用しやすいユニバーサルな制度の在り方を模索しようという議論もあります。
『分断社会を終わらせる』URL短縮サービス URX.NU


それでも「貧困は他人事じゃない」と言い続けたい本当の理由
さて、冒頭でも言ったように、私は「貧困は他人事じゃない」論者(?)です。
しかしそれは、「誰がいつ貧困に陥るかわからない」という意味で「他人事じゃない」ということではありません。

私の言う「他人事じゃない」というのは、
「生涯を通じて一度も貧困に陥らない人」であっても、生涯を通じて貧困とは構造的に関わっている、という“事実認識”からです。

次の絵は以前のエントリでも使ったものです。

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ここでは野球を観戦している3人の人が描かれていますが、一番左と真ん中の人は試合を観ることができていますが、右の人は全く観ることができていません。
「試合を観れない状態」を貧困とすると、右の人のみ貧困状態にあるということになります。それでは、左の人は「貧困とは関係ない」といえるでしょうか?

「貧困に陥るリスク」という意味では、左の人は貧困とはほぼ無縁です。なぜなら「身長」という資源に恵まれているために、仮にこの人が乗っている「箱」を失うという不測の事態がおきても試合を観続けることができるからです。
しかし、左の人は右の人が置かれている貧困状態と構造的にも「関係がない」かというとそうではない。
なぜなら、左の人が右の人に「箱」を譲ることで、右の人は貧困状態ではなくなるからです。

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つまり、右の人が貧困状態であり続けるのか、貧困から脱するのかは、左の人が「箱を譲るかどうか」に〈関わって〉います。
この意味において、「貧困は他人事じゃない」のであり、「貧困は自分とは関係ない」というのは〈事実認識〉として間違っています。

これを、今の日本社会で考えるなら、「箱の移動」は「税金を通じた所得の再分配」となるでしょう。
生活保護をはじめとする社会保障は、みんなで払いあった税金で運用しているという意味で、わたしたちは貧困にある方もそうでない方もお互いの生活を基礎づけあっている。関係しあっている。

この関係性/構造からは誰も逃れられないわけですから、「自分は関係ないから税金も払いたくない」という方も、せめてこの事実くらいには目を向けて、自分がある人々を貧困状態に置き続けているという居心地の悪さくらいは感じてほしいなーと思います。

今日のような話をもっと小難しく考えたい人には、立岩真也の『自由の平等』をおススメします。
URL短縮サービス URX.NU


それではまた…!

「スマートフォンを持てない」は、貧困か?

こんにちは!
2009年に「相対的貧困率」が発表されてから、日本国内の貧困に関する報道はかなり活発にされるようになってますよね。
とはいえ、日本の貧困に対して誰もが一様に「問題だ」と感じているかというとそんなこともないように思います。

例えば、国内の貧困当事者としてのドキュメンタリーが流れれば、「携帯を持っていて『貧困』なんておかしい」と炎上したりしてます。
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これは、まだ日本のなかで「貧困とはどういう状態か」という合意が形成されてないということを如実に表した出来事だな~と思いますし、そういう合意がこれから形成される過渡期にある日本では、こういう議論の「盛り上がり」は自然なこととも言えそうです。

こないだも(出不精の私には珍しく)スタバでコーヒーを飲んでいたら、年配のおじさんと、20代くらいの(同業者っぽい)お兄さんが議論してました。

おじさんは「戦後の日本や途上国に比べたら、現代の日本は全然マシ。携帯電話を持てなくて困る、なんて甘い」と言い、お兄さんは「今の日本の貧困は戦後や途上国の貧困とは性質が違う。相対的貧困の基準で考えるべきだ」と反論するわけです。

このお兄さんの「反論」は、日本の貧困を問題視する立場にとってはお決まりのフレーズのようになっていますよね。
ただ、この「反論」、反論になってますかね??

思うに、おじさんは「携帯電話は贅沢なもので、これを持てないのは『容認できない困窮』ではない」と判断しているように思います。
これに対し、お兄さんは「今の日本には戦後や途上国のような貧困はもうほとんどないけど、『相対的貧困』が問題としてある」という主張をしているようですが、この主張は「携帯電話は贅沢品では?」というおじさんのモヤモヤに正面から応えているわけではない。お兄さんは「昔の貧困」と「今の貧困」を同じモノサシでは測れないと言っているだけです。潜在的には「昔に比べれば今は贅沢」というおじさんの意見を少なからず受け入れているような印象すらあります。

しかし、(以前のエントリ
cbyy.hatenablog.com
で書いたように)、ある状態を「貧困」として問題提起するためには、その状態が「単なる『不平等』ではなく、『容認できない困窮状態』である」と説明する必要があり、お兄さんの応答だけでは「先進国の貧困は『戦後や途上国の貧困』よりはマシなわけで、比較的恵まれた国のなかの格差の話なのね」と理解されても仕方ないように思います。

前置きがちょっと冗長になってしまいましたが、「今の日本で携帯電話がもてない」という状態を貧困として問題提起するためには、その状態が「他の時代や地域と比べても同じ深刻さをもつ」ことを説明する必要があるということです。
そんな説明が、本当にできるのでしょうか?

というのも、長い人類の歴史のなかで人々が携帯電話をもつようになったのはほんの最近のことですから、「携帯電話を持てないというのは、単なる不平等ではなく容認できない困窮状態である」と言われてすぐに納得できる人はいないでしょう。
「じゃあ携帯電話のない時代や地域で生きていた人は全員、貧困だったってこと?」という疑問がすぐ浮かびますよね。

そこで今日は、これに挑戦してみます!

「道具」に注目していても仕方がないので、「できること」「ニーズ」に注目してみる
携帯電話が存在しなかった時代を生きた人からすれば、「携帯電話なんてなくたって楽しく生きていけるわい!」と思うはずです。

ただ、「携帯電話がない時代」は、僕のような20代にとってはちょっとリアリティがないので、もうちょっと時代を最近に近づけてみましょうか。
例えば、今の高校生から「うちは経済的に余裕がないのでガラケーしかもてないんです。」と言われたらどうでしょう?

こうなると平成生まれの人でも「いやいやいや、私が高校生のころはスマホなんてなかったけど楽しかったよ(笑)」となるんじゃないでしょうか?

いまだにラインなんて使ったことがない、という大人からしたら「何を贅沢なことを…」となりそうですね。

ただ、これをやりだすともう、キリがないです。

「わたしらの頃は携帯なんてなかったぞ!」と胸をはるおじさんに対しては、その一つ前の世代から「あなたたちの頃はポケベルがあった。わたしらのころは家庭用の電話しかなかった」と言われるでしょうし、さらにその前の世代からは「電話があるだけ裕福!わたしらのころは電報しか…」
…と、エンドレスです。最終的には「わたしらのころには狼煙しかなかった」とかになりそう(笑)

科学技術は進歩していくわけですから、「携帯電話」とか「電報」とか、「道具のレベル」だけに注目していたら、「昔に比べたら今は裕福」という話で終わってしまうにきまっています。

そこで、一旦、生活の状態を評価する基準として、この「道具のレベル」から離れてみましょう。

そもそも本質的に重要な問いは、それぞれの時代で人々が「何を持っているか/持っていないか」ではなく、そういった道具で「何ができるか/どういうニーズを満たせるか」ということでしょう。

これを先ほどの話に引き付けて考えると、「携帯電話」「家庭電話」「電報」といった道具を持っていることで何ができるのか、持っていないと何ができないのか…という視点で考えてみましょうということになります。

これらの道具でぱっと思いつく「できること/満たせるニーズ」は、
〈遠方にいる知り合いと連絡をとる〉
〈人間関係を維持/豊かにする〉
〈緊急時に助けを求める〉

…などでしょうか。

確かに「電報」が「家庭電話」「ポケベル」「携帯電話」へと“進化”することで、こういった道具が満たすニーズの水準は高くなります。
例えば、「家族が事故に遭った」等というとても緊急度の高い情報を家族に伝えるとき、その伝達速度や伝えられる情報量などは電報と携帯電話では段違いです。
しかし、ここで、「家族が事故に遭ったことを、兄弟に伝えたい」というニーズは時代や地域、生活水準に関わらず普遍的なものでしょう。

「ニーズ」そのものに注目すると、昔より今のほうが困窮していたりする
つまり、「電報しかなかった時代を生きた私にしてみれば、携帯電話は贅沢品だ」といった主張は、電報と携帯電話という「道具」を比べているだけであって、ニーズの充足状況については何も語っていない。

「電報しかない時代に電報しか使っていない人」と、「現代において電報しか使えない人」がいた場合、両者は「電報」という「道具のレベル」は同じですが、ニーズの充足状況に着目すれば、明らかに後者のほうが困窮状態にあります。
なぜなら、「道具」は時代によって変化するだけでなく、「新しい道具ができると古い道具はなくなっていく」からです。

携帯電話も家庭用電話もなかった頃は、「知り合いと連絡をとる」というニーズは電報が満たしてくれたでしょう。
しかし、多くの人が家庭用電話を持つようになると、日常の連絡手段として電報はどんどん使われなくなりました。
そうなってくると、「電話のある時代に電報だけを使える人」は周りが電報を使っていないので「知り合いと連絡をとる」というニーズを満たすことができません。

ガラケー×スマートフォン論争」にも同じことが言えます。
僕が大学2年生くらいまでは、友人との連絡といえばメールが基本でしたが、最近ではラインの普及にともなって、仕事関係以外でメールを使うことは滅多にありません。
最近の高校生も、友人との連絡手段は基本的にラインやSNSですから、携帯をもっていても、こうしたアプリが使える機種でなければ「友人と連絡をとる」というニーズを満たすことはできません。

もう一度言います。貧困について議論する際、「何を持っているか」といった「道具のレベル」を比べても仕方ありません。より本質的な問いは、「どんな〈ニーズ〉を満たせているか」、です。
今回の「携帯電話が持てない、というのは貧困か」というテーマで話をする際には、「携帯電話が贅沢か」ではなく、「携帯電話が満たしうる〈友人と連絡をとりたい〉〈緊急時に助けを求めたい〉といったニーズが贅沢かどうか」を考えるほうが建設的な議論になるということですね。

そうやって考えてみると、今の日本の高校生がスマホを持てない、というのは「友人と連絡をとりたい」といった(途上国だろうが先進国だろうが戦後だろうが2018年だろうが普遍的に存在する)極めて重要なニーズを満たせない、という意味で、「他の時代や地域と比べても同じ深刻さをもつ」(=貧困である)と評価できないでしょうか?

どんなニーズを、どの水準まで保障すべきか?
ただ、今日の話では「時代や地域に限定されない普遍的なニーズがある」ということを確認してきましたが、①「どんなニーズが保障されるべきか」という点や、②保証されるべきと合意したニーズをどの水準まで満たせば「最低限の水準を超えた」と評価できるのか、という話は全くしてません。

今回の話に引き付けて言うと、①〈友人と連絡をとる〉というニーズを満たせない状態は、本当に「容認できない困窮状態」と考えられるのか?
②仮に〈友人と連絡をとる〉というニーズを保障すべきニーズとするなら、これが最低限満たされたというのはどういう水準か?「自由に文字のやりとりができるのであればよし」とするのか、「声でやりとりできなければ不十分」とするのか?「1分間隔でやりとりできなければ問題」と考えるのか「1時間間隔でよし」とするのか?

このあたりは、継続的に議論してその都度合意形成していく必要があることですが、その際「道具のレベル」だけに注目して贅沢云々というレベルの低い話をするのはもうやめにしましょうよ、というのが今日の趣旨でした!(笑)
着地がグラグラした感が否めないですが…(多分)また来週!

貧困について、たまにはポジティブな話がしたい(笑)ーあたなが守った、小さな命

こんにちは!

大学で日本の貧困について研究してた頃から「多くの人に貧困について語る、伝えるうえで、どういうやり方が効果的なのか?」というのは、自分のなかでとても関心のあるテーマでした。

貧困がを是正するためには、最低生活の保障という社会的合意を得ることが必須ですから、こういう問いに向き合うことになるのはある意味当然ですよね。

同時に、「貧困について考える」「向き合う」ということそのものの「面白さ」をもっと多くの人で共有したい、というピュアな思いもありました。
貧困について人と議論しているとき、相手に自分と同じような問題意識をもってほしいという思いも当然あるわけですが、そこでの対話の最終的な着地点は違っていて全然かまわない。「やっぱり社会保障は不要だと思う」という人がいてもいい。ただ、その過程のなかにある「社会の在り方について一緒に考える」という作業そのものがとても楽しい。
でもって、貧困の議論の出発点(あるいはさしあたりの「着地点」?)は、この「楽しさを共有する」ということでいいのではないか?そんな風にも思うわけです。

…というのもですね、「貧困への関心を持ちましょう」っていう啓蒙的な感じにアレルギーある人もいると思いますし、皆さん日々自分のことで手一杯ななか、重くなりがちなテーマをぶつけられてもしんどくなってしまうんじゃないかと思うんです。
ニュースや新聞で貧困をめぐる議論をちょっと覗いただけで「日本の7人に1人が相対的貧困」「生活保護の捕捉率がわずか20%」「最低生活の基準引き下げ」「東京都のネットカフェ難民が4000人」…と、暗い話題ばかり。

一方で、最近、貧困をめぐる芸能人の発言に対する世間のリアクション(某咄家のSNSの炎上とか)を見ていると、国内の貧困に目を向ける人も増えてきているように思います。

とはいえ、貧困に関心をもって「どうにかしたい」と思う人であっても、「今の日本ではこんなに苦しんでる人たちがいます」と言われ続けると暗い気持ちになってしまいそう。
貧困支援の現場で働いていると、当事者の色々な声を聞いたり、社会保障制度の効果を感じる機会があるので、「今の日本でもここまではできてる!」とポジティブな部分も確認できるんですが、ニュースとかでしか貧困に「触れる」機会がないと、入ってくるのは暗い話ばかりではないかな~と。

もちろん、問題点の指摘はとても重要ですし、社会の責任を問い続ける意義はありまくりです。この点はいくら強調してもしすぎることはないと思ってます。
でも、たまには「ポジティブな話」も聞きたくないですか?
大体、「貧困について考える」ということは、「良い社会、住んでみたい世界についてみんなでワイワイ考える」という、とてもポジティブな作業でもあるはず。
すでに日本には生活保護という、みんなが幸せに暮らすことを目的にした制度があるわけで、実際にこれをみんなで作ってきたわけじゃないですか。
せっかくみんなで作ってるこの制度、問題点ばっか確認してても楽しくないので、たまには「できてる」部分にも光をあててみましょう。

大学院の調査で出会ったノゾミさんの話
僕が大学院で調査していた時に出会った方で、ノゾミさん(仮名)という方がいました。2015年当時30歳の彼女は、0歳児の一人親として生活保護施設で生活されていました。
貧困に関わる調査で出会う方というのは、やはりみなさん大変な生活をされていて、ライフヒストリーを聞いていると、なかなか壮絶なエピソードが出てきます。

ノゾミさんも「物心がついたぐらいから経済的に苦しくなって、保険証もなかったので何かあっても市販薬で我慢。高校生の頃にはアルバイトして家にお金をいれていた」そうで、彼女が成人する頃には親が自己破産をしたことで実家を失ったといいます。
その後、結婚を前提に交際をしていた男性と同棲するも、相手にノゾミさんの貯金を使われるなどして財産を失い、妊娠が分かったことで仕事も解雇されてしまいました。

住所移して一緒に住み始めようってことで住み始めた直後に、相手に借金があることが分かり、しかも気づいたら私の財産、財布の中まで全部持ち出されてるような状況で。で、しかも妊娠が分かった当時も働いてたんですけど、もう、マタハラというか、事実上解雇になって。

そんな、「八方ふさがり」の時に利用したのが、生活保護だったといいます。

つわりもあるから働きたくても働けなくて、このままだと自分もお腹の子もダメになる…どうしようもなくなって、生活保護受給中の親を頼るしかなく、…だけど親ももう高齢だし、自己破産のストレスとかもあって…それこそ手をあげる感じの人だったので、どうしようって。それで、出産して、病院で退院後の生活を聞かれた時に「それはやばい」ってなって、周りの人が助けてくれて、こちら(生活保護施設)に入れてもらって生活保護受給させてもらえるようになったんです。

幼少期から生活に困窮し、成人後も大変な環境で生きてこられたノゾミさん。
彼女の話から、「適切な社会的支援をもっと早い段階で受けられるように、制度を改善するべきである」と指摘することもできますし、僕自身その立場です。
ただ、それに加えて、ノゾミさんの生活を「良く」するために、今の日本が、僕たちができていることも確認しておきましょう。
ノゾミさんにとって、今の生活保護はどういったものだったのでしょうか。

生活保護の話をして、困ってる人の話になると、「臭いものにふた」じゃないですけど、やっぱり暗いイメージとかがあると思うんです。だけど、そうじゃなくて、生活保護のおかげでこうやって生まれた命もあって、この子もこうやって元気に育って笑ってますっていうのを知ってほしいというか。本当に私は子どもが生まれて、子どもの顔をみて、「ああ本当に苦しかったけど産んで良かった」って思ったので…、なんていうかその、生活保護って、「納めてる税金で暮らしやがって」って思われるだろうけど、あなたはこの子の命を守ってくれてるんですよ、と。払ってもらってる分、ありがとうとも思うし、そういうのも知ってほしいというか。うん・・・まあ子ども嫌いな人には逆効果でしょうけど(笑)。私は妊娠中に本当に困って、子どもとわたしで死ぬしかないんじゃないかと思うぐらい追い詰められたので、うん。。。そうですね。そうやって助けてもらってるうえで命があるんですということを言いたいです。

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当たり前といえば当たり前ですが、今の社会制度にたくさんの不備や問題点があるのと同時に、今の制度でもできてることがたくさんあるはず。
救えなかった命もあれば、救えた命もあるはず。

貧困の実態や、制度の問題点を“当事者の声”から指摘することばかりを意識していた当時の僕は、ノゾミさんの「あなたはこの子の命を守ってくれてるんですよ、というのも知ってほしい」という言葉がとても新鮮に感じました。

“当事者の声”は今の社会に「何ができていないか」だけでなく、「何ができているか」も教えてくれる。そんな当たり前のことを気づかせてもらったことは、今の僕が支援の現場で前を向く活力として活かさせてもらっているように思います。

貧困に関わる話は、重く暗いトーンになりがちですが、たまにはポジティブなことも確認する。
「貧困について考える、向き合う」ことそのものの「面白さ」をみんなで共有する出発点として、そんなアプローチもあっていいんじゃないでしょうか?
それでは今日はこのへんで!

「貧困」と「格差」は全く違うというお話

こんにちは!

前回の投稿から1年以上経ってしまいました(笑)
やっぱりこういうのは性格が出ますね…。
それと、貧困支援活動の現場に身をおいていると、世間の皆さんに知ってほしいことや現状みたいなものに日々「出会う」一方で、それらを整理して理性的に俯瞰する…という作業はなかなか進まないというか、骨が折れるのだなと痛感しております。。。

とはいえ、今の職場で働きだして約1年半。そろそろちょっとずつ慣れてきたので、「社会の在り方や貧困に関する自分の考えを俯瞰して整理する作業」もきっちりやっていこうと思います。2018年の目標です(笑)

そんなわけで、さしあたり今年、「貧困をめぐる議論への違和感」に向き合おうと思っとります。
近年、国内の「貧困」をめぐって議論が活発にされるようになってきてますが、問題提起する側とそれに反発する側の主張がうまくかみ合っていないなと思うことも多く、そのあたりをちょっとずつ整理していきたいなーと思うわけです。

貧困を是正しようというと、なかなかの確率で返される反論「共産主義じゃうまくいかない」…への違和感

「貧困の問題が深刻なので社会的になんとかしましょう」というと、なかなかの確率で「そうは言ったって共産主義はうまくいかないでしょ?」と返されます。

こう返されるたびに私は、「貧困と格差/(所得の)不平等の区別がまだまだ日本では認識されていないのだな~」と感じます。
というのも、「貧困の是正を目指す」イコール「格差・(所得の)不平等を解消する」というわけではないからです。

ここで声を大にして申し上げておきたいのですが……

「貧困」は、「(所得の)不平等」や「格差」とは全く異なる概念です。

語弊を恐れずに言えば、私は、「貧困」は絶対に是正されなくてはならないと考えていますが、「(所得の)不平等」や「格差」がなくなるべきかどうかは一概に言えんと思っています。

何故なら、「格差がない」というだけの条件では、これが良い社会かどうかは分からないからです。

ここで、
格差は大きいけれど構成員全員がそこそこ幸せな暮らしを営むことができている社会Aと、構成員の全員が餓死すれすれの社会Bを考えてみてください。

この時、社会Aと社会Bではどちらのほうが「良い」社会でしょう?
恐らくほとんどの人は社会Aを選ぶのではないでしょうか?
それでは、なぜ私たちは社会Bより社会Aのほうが「良い」社会であると考えるのでしょうか?

それは、「餓死すれすれ」という状態が、私たちの「あってはならない」という直観と整合的だからでしょう。
この、「『あってはならない』状態かそうでないかというギリギリのラインを割っているかどうか」という点こそ、貧困と格差の違いです。

このことをより分かりやすくするために下の絵が役に立ちます。

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ここに、(多分、ズムスタで)野球を観戦している3人の人がいます。しかし、一番左と真ん中の2人は実際に試合をみることができていますが、一番右の1人は全くみることができていません。更に、試合を観ることができている2人は、「高い位置から見る事ができているか、ぎりぎり観る事ができているか」という違いがあります。
 この時、「試合をみる高さ」という視点から考えると、一番左の人と真ん中の人の状態は不平等(格差がある)です。しかし、両者とも試合をみることができているのでこの2人の間にある不平等が「問題である」といってよいかどうかは定かではありません。しかし、一番右の人はまったく試合をみることができていないわけですから、最低限のラインを下回っている=「問題である」と認識されるというわけです。

また、この絵の面白いところは、社会の富を額面上で「平等」に分配しても、実質的な意味では格差も貧困もなくならないことを示しているところです。

3人が乗っている台の高さを所得だと考えてみてください。
すると、この3人で構成されている社会は、所得の面では完全に平等な社会です。
しかし、3人は背の高さに違いがあるため実質的な生活内容には違いが生まれていることが分かります。

私たちがある生活を営むために必要となる所得は個人の個体差によって変わってきます。例えば、健康なAさんがそこそこの生活を送るうえで年間200万円必要な社会を想像して下さい。この社会で何らかの病気を患っているBさんが、Aさんと同様のそこそこの生活を送るために必要な所得はいくらになるでしょうか?明らかに200万円では足りません。何故なら、BさんはAさんと比べると病気の治療費が余分に必要となるからです。

目指すべきは、何の平等か?

 こうした例を考えれば、僕たちが「平等」について考えるとき、「何の平等か」というのは非常に大切な論点です。
今回、以下の3つの「平等」について確認してきました。
・所得(3人が乗っている台の高さ)の平等
・生活水準(試合をみる高さ)の平等
・「そこそこの生活を営む」(試合をみることができるかどうか)平等   

私が「貧困を是正するために再分配をしっかりしましょう」という時、想定されているのは「そこそこの生活を営む」平等であり、所得の平等でも生活水準の平等でもありません。

「そこそこの生活を営む」平等が達成されているのであれば、私は所得格差や生活水準の格差がどれだけ大きくても(さしあたり)問題はないと考えます。

とはいえ、これは理屈上の話であり、実際の社会では所得格差の大きい国ほど貧困率も高いことが指摘されています。まあ、当然と言えば当然ですよね。所得格差が大きいということは再分配があまり熱心に行われていないということですから、「あってはならない」ギリギリのラインを割っている人の数も多くなることは容易に想像ができます。試しに上の絵で、全員が「そこそこの生活を営む」平等を達成するために再分配をしてみましょう。

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この3人で構成される社会では全員が「そこそこの生活を営む」平等を達成するまで再分配を行うと、結果的に貧困だけでなく、再分配前で一番左と真ん中の人の間にあった生活水準の格差も是正されていることが分かります。

ただ、これは今回のケースで「結果的にそうなった」という話にすぎないのであって、
生活水準の格差(試合を見る高さの不平等)を是正することを目指したわけではありません。
また、所得格差という点からすると、今度は一番左の人と一番右の人で大きな所得格差が生じています。しかし繰り返しますが、ここで目指したのは「そこそこの生活を営む」平等なので、こうした格差は問題だとはされないということです。

格差社会といた言葉や貧困という言葉がメディアで取り上げられる機会が近年増えてきましたが、そこで問題となっている平等、不平等とは「何の」平等、不平等なのか?目指されるべきは何の平等なのか?こういった点をきちんと整理したうえで議論しなければ、あまり建設的な話にはならないということですね。

今日の話をもう少し学術的にみてみたいという方には、立岩真也の『自由の平等』をお勧めします!

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それでは、(多分)また来週・・・!(笑)

脱!貧困が個人の責任なのか社会の責任なのかという不毛な議論~「どっちでもいいじゃん」という「第三の道」~


お久しぶりです!
前回の投稿から100日近く経ってしまいました。

実はこの間、私は就職・引っ越し……とバタバタしておりました。
これからまた、ちょっとずつ投稿していこうと思います。

さて、今日は前回に引き続き、「労働能力・意欲」と最低生活保障の関係について、これまでとはちょっと違う視点から考えてみようと思います。

これまで生活困窮者に対して「働かざる者食うべからず」という人の意見は、該当する生活困窮者が「働こうと思えばいつでも働ける状況にあること」を証明しなければ説得力を持たないと論じてきました。

でもって「働こうと思えば誰でもいつでも働ける状況」(=意欲次第で貧困から抜け出せる状況)というのは日本の景気が良かった時期(高度経済成長期、バブル景気、いざなみ景気)であっても実現していなかったことを確認しましたね!
cbyy.hatenablog.com

しかし、理屈の上では「ある仕事Aをするのに十分健康で、かつ仕事Aが用意されているにも関わらず、『働きたくない』という理由で働かない人」を想定し、この人物の最低生活を社会が保障する必要があるのか、と問うことはできます

おそらくこういった問を立てた時、上述したような人物を社会が助けるべきだと考える人はあまり多くないのではないでしょうか?
実際、貧困を問題視する立場であっても、「貧困がいかに社会的なものとして生じているか」を強調するケースが多く、「働きたくなくて働いていない人」や「本人の努力不足と認識しうる人」を想定することはあまりありません。僕は、ここに貧困を問題提起する人たちの(ある種の)「わきの甘さ」があるように思えてならないです。なぜなら、社会保障不要論を唱える人の多くは、「個人の責任で貧困にある人」の存在を想定し、こうした人を救済することに反対しているように思えるからです。
個人的責任による貧困と社会的責任による貧困が存在すると信じている人に対し、貧困の原因は個人的なものではなく社会的なものなのだと応答し続けるというのはあまり建設的ではないように思います。
両者の議論を前に進めるためには、「貧困は自己責任か、社会の責任か」という問いをめぐって争うのをやめることだと思います。
というのも「完全に個人的な責任による貧困」「完全に社会的な責任による貧困」といったものを同定しようとすること自体が、そもそも不可能だからです。

例えば貧困状態にあるAさんとそうでないBさんがいたとします。この時、「Aさんが貧困状態にあるのはAさんの努力がBさんよりも足りなかったからだ」として、Aさんが貧困状態にあることの原因をAさんの努力不足に求める主張は、貧困が社会問題として取り上げられる際かなりの頻度で耳にします。

しかし、上の「Aさん自己責任論」は、AさんとBさんにはそれぞれ生まれながら全く同じ条件が与えられているという前提がなければ説得力を持ちません。なぜならたまたま貧困家庭に生まれたAさんは義務教育以外何の教育も受けなかったのに対し、たまたまお金持ちの家庭に生まれたBさんは小さい頃から英才教育をバンバン受けていた……という場合、AさんがBさんと同じ能力や社会的地位を獲得するためには、BさんよりもAさんが努力しなければならないのは明らかだからです。そしてこの場合、AさんはBさんの何倍の努力をしていたにも関わらず、Bさんより低い業績しか達成できない、ということは十分あり得ます。

しかし現実の社会は個人の才能といった先天的なものから、家庭環境といった社会的なものを含め、一人ひとりがおかれた状況、与えられた条件というのは全く異なります。こうした様々な条件を統一しなければ、現在貧困状態にある人が本人の努力不足で貧困に陥っているとの説明は説得力を欠きます

一方、Aさんの貧困は100%社会に原因があると証明するためには、Aさんと同じような家庭や条件を与えられた人がみんな貧困に陥ってしまうことを証明しなければいけません。が、これも不可能な試みです。なぜなら、やはり全く同じ条件のもとに成長するという二者は現実的には存在しないからです。

実際、貧困であれそうでない状態であれ、現在ある個人がおかれた状況というのは社会構造と個人の主体的な行為の相互作用の蓄積であると理解するのが妥当なところです。

貧困を問題提起したい人の多くは貧困の自己責任的な側面を否定しますが、こうした取組は場合によっては貧困にある人々の首をしめることにすらなりかねません。なぜなら、「貧困を生み出すのは個人の責任ではなく社会構造に原因がある!」と強調すればするほど(貧困にある人に落ち度はなかったのかといった)、「自己責任の度合を問う社会的な視線」を尖鋭化させてしまうからです。そして繰り返しになりますが、「貧困の原因は100%社会構造の側にある」というのは事実認識として説得力を持ちません。立証が不可能だからです。

では、貧困を問題提起する際、重要なことは何か?

それは「最低生活を営む権利」が個人の意欲や努力などを条件として保障されるという発想を変える主張を行うことです。

貧困の自己責任的な側面を認めた上で、「本人に落ち度があるとしても、最低生活は無差別平等に保障すべきである」、と開き直ればよいのです。

そして、これはそれほど突飛な考え方ではありません。
というのも、僕たちの社会が基本的人権として認めているもののほとんどは、
本人の資質や性格や生活態度がどのようなものであれ無差別平等に保障されています

例えば、義務教育を受ける権利はいかなる理由でも剥奪されることはありません。
「○○さんは授業中寝てばかりいるので明日から登校を認めない」などと教師が言おうものなら大問題になりますよね?

また、選挙での投票権も年齢や国籍の条件を満たせば禁固以上の刑に処せられたりしない限り、生活態度がどのようなものであれ剥奪されません。

同様に生存権基本的人権ですから、理念的には「労働意欲や生活態度に関わらず、所得状況などの要件を満たす(=客観的な指標で生活に困窮していると判断される)場合は無差別平等に最低生活を保障する」こととされるわけです。

よく、「義務の伴わない権利はない」という人がいますが、その際の義務の内容や強制力というのは権利の種類によって大きく異なります。レストランで食事をとる権利はお金を払うという強力な義務(条件)とトレードオフな関係にありますが、基本的人権はそのような強い強制力を伴う義務が条件として課されることはないのです。これは、基本的人権は人が善く生きるうえで極めて重要、必要不可欠な要素であると理解されているためです。

実は、戦後直後の生活保護制度は「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という「欠格条項」というものがありました。しかしその後、上述した理由でこの条項は取り除かれ、(理念上は)文字通り無差別平等に保障するということになったという歴史があります。(岩永2011:49-79)

こうした理念を念頭におくと「働かざる者食うべからず」という意見は「食う」という基本的人権が「働く」という条件を前提としている時点で、最低生活保障の理念とは相いれないことが分かります。

条件つきでない権利というものをあまり考えたことがないという人にはあまり腑に落ちない話かもしれませんが、ちょっと思考をめぐらせてみれば意外とそういった権利は少なくないことに気付くかもしれません。

繰り返しますが、貧困を問題提起し社会保障の充実を目指す際、「貧困は自己責任ではない」と主張する必要なんて全くない。「自己責任だろうが社会の責任だろうが最低生活の保障はしっかりやりましょう」という立場をとって、基本的人権の性質について訴えていった方が絶対建設的だと私は思います。

長くなりましたが、今日はこのへんで失礼します。