シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

みんなちょっと、「緊急事態宣言」に“慣れすぎ”じゃないだろうか?

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緊急事態宣言が発令(4月7日)されてから2週間以上が経った。

国内の新型コロナ感染者が増加の一途を辿る中、「緊急事態宣言がいつ出されるか」というのは社会的にも大きな注目を集めた。
しかし、実際に発令されたもののそれ以前の自粛要請の頃と実際の行動範囲がほとんど変わっていないという人もいるだろう。
日本の場合、法的な根拠を持って人びとの自由を規制できる内容になっているわけではないので当然と言えば当然である。

しかし実際には、日本の社会は決定的に変わってしまった。
「緊急事態宣言という前例を作ってしまった」のである。

「緊急事態宣言」(あるいは非常事態宣言)について、私は「感染症パンデミックや戦争、テロなど、市民の生命や財産に危険が差し迫っている有事に際し、政府が法令などに基づいて特殊な権限を発動するために、そのような事態を広く布告・宣言すること」として理解している。

ここで重要なのは、政府が市民の(平時であれば基本的人権として保障されているような)行動を「特殊な権限」の下に規制しうるということである。 

これは、冷静に考えたら大変なことである。

「日本の緊急事態宣言な罰則などの強制力を伴う規制を可能とするものではないから、重大な自由の侵害は起こらない」という識者の意見もよく聞いた。
ところが実際は、法的な根拠にもとづかないはずの行動規制が「自粛要請」の名のもとに行なわれている。
警察が駆り出されている現状、権力の行使まではされていないという説明は無理があるだろう。
さらにこわいのは、こうした状況を市民が自然と受け入れているように感じることである。

「受け入れている」という表現はマイルドすぎるかもしれない。
様々な事情から「自粛」に踏み切れない人たちが、世間から激しくバッシングされたりもしている。
平時であれば当然のように保障される個人の自由が、国家的な権力や市民からの「監視」によって制限されているのである。
さらに驚いたのは、普段、国家による自由の侵害を批判し市民の自由を守る論陣を張ってきたリベラルからも、緊急事態宣言を疑問視するような声がほとんど聞かれなかったことである。
いやむしろ、「緊急事態宣言を出すのが遅い」と批判する論調のほうが目についた。

このような話をすると、
「未曾有の感染症が世界的なパンデミックに発展している今、そんな悠長なことは言ってられない」
「公共の福祉が、危機感のない身勝手な個人の『自由』によって侵害されてもいいというのか」
…といった声が聞こえてきそうである。

だが、待ってほしい。

「公共の福祉のため」という名の下に、個人の自由が蔑ろにされた結果、この国で何が起きたか。
まだ70年くらいしか経っていないのに、みんな、忘れてしまったのだろうか。

勿論、私は「個人のどんな自由であっても規制すべきではない」などとは全く思っていない。

保守やコミュニタリアンからのリベラルに対するお決まりの批判の一つに、「リベラルは『個人の自由』を価値中立に支持しているつもりでいるが、ある『個人の自由』の保障を訴える際、価値中立ではありえない」というものがある。

ただ、これはリベラルにとって致命傷でも何でもない。
何故なら、リベラルは個人の自由を価値中立に支持しているわけではないことを自覚しているからだ。むしろ、リベラルはこれまで散々「どのような価値、規範にもとづく自由が保障されるべきか」という議論をしてきた。
もしも、「特定の規範や価値観に基づいた時点で思想的な偏りがあるということになるのだから、リベラルは価値中立の立場を堅守すべきだ」と主張する“自称リベラル”がいたら、私は骨太な保守やコミュニタリアンと手を組んでその“自称リベラル”を(敬意をもった作法にのっとった議論で)タコ殴りにしてやりたい。
保障すべき自由に関する議論において、相対主義に陥るのは最悪である。

話を戻そう。

私たちはあらゆる「自由」を保障できるわけではないし、すべきでもない。
例えば、「人を殺す自由」を主張するAと、「殺されることを回避する自由」を主張するBがいた場合、私たちはBの主張する自由を守るべきだと感じるだろう。

そして、実際にBの自由を守るために、国家が司法制度などの大きな権力を行使することを私たちは社会的に承認しあっている。
このように、近代的な法治国家では、競合する様々な「自由」のなかから守るべき自由とそうでない自由を取捨選択し、守られるべきと評価された自由を保障するために国家権力の行使が正当化されるのである。

こうした視点から改めて「公共の福祉のために個人の自由を制限する」という意見を聞くとどうか。
現在のような“緊急事態”下では一見、もっともらしくも感じられるかもしれない。
しかし、この言葉はそもそも論理的に変である。

というのも、「AのためにBを控える」という時、AとBは優先順位として「比較」されているわけであるが、「公共の福祉」と「個人の自由」は適切な「比較」対象として成立するだろうか。
例えば、「感染が拡大している今、ある個人が公共の場に出向くことは規制されるべきである」と主張される時、「ある個人が公共の場に出向く自由」よりも「公共」が優先されるというのは何を意味するのか。
この場合、「ある個人」は具体的な存在であるのに対し、「公共」は極めて抽象性の高いものであり、実態がない。

これでは、比較のしようがない。

こうした状況下で実際に競合している「自由」のありようを正しく表現するなら、次の通りである。

「ある個人Aが公共の場に出向く自由」と「公共の場にいあわせた個人Bが、Aと濃厚接触するのを避ける自由」のうち、どちらが優先されるべきか。

こうしてはじめて取捨選択すべき自由についての議論は可能になる。
もっともらしい「公共の福祉」という言葉に惑わされてはいけない。

さて、それでは上記の個人Aの自由と個人Bの自由はどちらが優先されるべきか。
多くの人は個人Bの自由を支持するのではないだろうか。

それでは、「やっぱり緊急事態宣言で個人Aの自由は規制すべきである」と考えたくなるかもしれないが、ここでもちょっと待ってほしい。

国家が権力を行使して個人の自由を制限することが正当化されうるのは、「競合する自由のなかから優先すべき自由とそうでない自由を取捨選択し、前者の自由を守るためにやむをえない場合」だったはずだ。
現在の日本で、「外出したいという人の自由」と「感染する機会を避けたいという人の自由」は、本当に競合を避けられないのだろうか。

応えは否である。

恐らく現在の日本の多くの市民が望んでいるのは、「感染する機会を避ける自由」だ。
みんな、自粛できるならしたいはずだ。
わざわざ政府や金持ちから「STAY HOME」と言われくても、である。

安倍政権は市民が収入の心配をせずに「自粛」できる施策を行っていない。
「感染する機会を避ける自由」を奪っているのは「外出したい人」ではなく、他ならない政府である。

「外出したいという人の自由」と「感染する機会を避けたいという人の自由」は、国が市民の収入や休業における補償さえすれば、競合しないどころか、両立しうる。

改めて言おう。
今の日本に、緊急事態宣言など必要ない。

「感染する機会を避けたいという人の自由」が保障できれば、あとは外出したい人は自由に外出すればよい。
こういった状況では「外出したい人の自由」は軽視されがちだが、私たちは「家にいることができるとしてもなお、命を危険にさらしてでも外出したい人」の存在にもっと思いを寄せるべきではないだろうか。

私たちはつい、「今は大切な人に会えなくても、ちょっと我慢すればまた会える。今会ったら、永遠に会えなくなってしまうかもしれないよ」と迫ってしまったりする。

だけど、本当にそうだろうか。

今会うのを諦めたことで、来年会える保障は本当にあるのだろうか。

人にはそれぞれの事情がある。
大切な人が来年まで生きられる保証がないという人もいる。

他者を顧みずに思いのままに振る舞うのを承認せよと言っているのではない。
百歩譲って今の日本が「市民の生命を守るために一定の私権の制限が不可避」なのだとしても、本来は断腸の思いで、制限される個人への深い敬意のもとに行なわれるべきだ。
間違っても、「制限が当たり前」という風潮のもとに個人が批判されるということがあってはならない。

「家にいる自由」を国から保障されないままに放置されている私たちが、私権の制限を当然のものとして受けいれ、市民同士で監視し、たたき合うのは、絶対に間違っている。

もう一度言う。
現在の日本は、「市民の生命やより重要な自由を守るために国家がやむを得ず特殊な権限を発動しなければいけない状態」では全くない。

みんなが「STAY HOMEできる自由」を、政府が保障すればいいだけの話なのだ。

その責任を全く果たしていない政府が、「個人の自由を尊重していたら市民の生命を守れない」というのは恐ろしいほどの詭弁である。

内田樹がコロナ後の世界として予言しているように、今後、間違いなく「日本も法的根拠をもつ罰則をともなう緊急事態宣言の法制度をすすめるべきだ」と言い出す人が右派からはもちろん左派からも出るだろう。

感染の恐怖は私たちから冷静さを奪う。
大きな物語」にすがりたくもなる。

だが、こんな時だからこそ忘れてはいけない。
私たちが大切だと思う様々な「自由」を危険にさらしているのは、「身勝手な個人」ではない。政府だ。

「緊急事態宣言下」に慣らされてはいけない。

「一律給付金10万円を受け取ること」は、立派な社会貢献です。

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新型コロナウイルスの社会的な影響が凄まじい。
今この瞬間はもちろん、今後の生活に不安を感じている人は多いのではないだろうか。
しかも、本来こうした“不安”を緩和するためにあらゆる施策を講ずるべきはずの政府は、その後手後手な対応によって市民の不安を一層掻き立てている印象すらある。

そんななか、ようやく、本当にようやくではあるが、総務省は4月20日「現金10万円の一律給付」の概要を発表した。

正直、遅すぎる。
以前、Twitterでも呟いたけれど、貧困対策は早ければ早いほど、効果は高く、効率も良い。

1か月前であれば10万円でもなんとか生活再建の見通しを立てられたであろう人が、現在では全く足りなくなってしまうということは往々にしてありうる。まあ、それでも、今からでもやらないより絶対やったほうがいい。
現政権に対して言いたいことはいくらでもあるが、評価するべきことは評価しておこう。

ところが、一律給付金の話がすすんでいくなかで、今度は「私は受け取りません」と公言する議員や団体が出てきた。
申請するもしないも、個人の権利なのでそれ自体はまあ好きにすればいいと思う。
ただ、影響力のある立場にある人間や団体が、受け取らないということを「公言」するのはとても迷惑だと思っている。

なぜなら、こうした「公言」は生活に困っている人はもちろん、“「コロナ禍によって所得が下がったわけでもない人」が給付金を受け取ることを後ろめたく感じてしまう空気”をつくりかねないからだ。
「生活に困ってない人が受け取るのを躊躇うこと」は良いことだ、と思う人もいるかもしれない。
しかし、これはとても困る。
なぜなら、私は、給付金を受け取ることは、むしろそれ自体、とても素晴らしい社会貢献だと考えているからだ。
給付金を受け取らないのは個人の勝手だが、それを公言することで、これから日本中でまき起こるであろう「給付金を受け取るという社会貢献」を邪魔しないでいただきたいのだ。

それでは、何故、「所得が下がったわけではない人が給付金を受け取ること」が社会貢献だと言えるのか。
その意味を、現在貧困支援に身を置く立場として論じてみたい。

日本の“本当に困っている人探し”の歴史

「一律の現金給付」にかじを切るまでに政府がこれだけの時間と思想的な葛藤を必要としたこと自体は、日本の貧困対策、社会保障制度のこれまでの思想的潮流・特徴を念頭におけば実は驚くべきことではない。

日本の貧困対策の歴史的な特徴とは、ずばり、「選別主義」である。

1874年に制定された恤救規則、第一次世界大戦後の救護法、第二次世界大戦後の(旧)生活保護法、そして1950年に改正され現在に至る(新)生活保護法まで、一貫して支援の対象者は「本当に困っているかどうか」という「選別」にさらされてきた。
無論、現在の生活保護を、権利性すら曖昧にされたり、そもそも明記されていなかったそれ以前の法と並べるのは、制度の発展に尽力してきた先人からお叱りを受けるかもしれない。
現在の生活保護は無差別平等の理念の下、稼働年齢にあるかどうかなどに関わらず、申請時の困窮度合いによって利用できるかどうかが決まるのであり、(少なくとも)過去の制度とは比べものにならないくらい「普遍性」が担保されている。
しかし、現在の生活保護においても厳しい資産調査(ミーンズテスト)が行われるという点において、選別主義的であることに変わりはない。
そしてこの「困っている人」を社会的に選別し、そうした貧困層に対して市民から集めた税金を分配する。これが、日本の「再分配」の基本的な考え方である。

「相対的に困ってない人が多めに負担して、困っている人に回す」。
自然なことだと思うかもしれない。
こうした再分配の考え方が、とりわけリベラルによって支持されてきたことも改めて言うまでもない。

ただ、この一見“当たり前”な「選別を前提とした再分配」という戦略も、次の2つの点で留意しておきたい課題がある。

「選別」の難しさ

まず、「困っている人」のみに支援を行うということは、「困っている」状態を定義する必要が生じる。そして、その定義に基づいて「困り度合い」を測る「基準(A)」が設定されるわけだが、裏返せば、この「基準(A)」を満たさなければ、別の視点(B)からみれば明らかに困窮している人であっても支援の対象からは漏れるということになる。
すると今度は「別の視点(B)からみれば明らかに困窮している人」を支援するために別の「基準(B)」に基づく制度がつくられる。
しかし更に別の視点(C)……といった具合に、「選別主義」に基づく社会保障制度は、常に制度から漏れる困窮者を生み出しうるという課題がある。

しかも、日本はただでさえ生活保護の捕捉率が二割前後と、欧米に比べて「漏救」がひどい国であることも再三指摘されている。
貧困層に制度の情報をアウトリーチしたり、基準を満たす人を支援に繋げるということが、そもそもめちゃくちゃ下手くそな国なのだ。

市民の分断を生む、「負担者」と「受益者」という構図

次に、「困ってない人が多めに負担して、困っている人に回す」という戦略は、とりわけ中間階層の生活が苦しくなってきている現在の日本では、「私も苦しいのに何故他人の生活を支えなければならないのか」という市民対立的な感情を生じさせやすい。
改めて指摘するまでもなく、現在の日本は格差が大きく、貧困率も高い社会である。私は以前、「そうは言っても人生を通じて一度も貧困に陥ることのない人のほうが多数派であるのだから、『あなたもいつ貧困状態になるか分からないのですよ』というメッセージはリアリティを持ちえないし、戦略としてもうまくいかない」と主張したことがある。
cbyy.hatenablog.com

この認識は今でも間違っていないと思う。
ただ、少し留意しておきたい点がある。

情報メディア「ワイズロ-ン」の調査によれば、対象となった日本在住の男女1060名の貯金額の中央値は100万円。しかも、調査対象者の半分以上が100万円以下と回答しており、そのうちの2割は10万円以下となっている。これは結構ショッキングな数字である。
とはいえ、やっぱり貯金が100万円あれば、「病気などで失職したら即生活が行き詰まる」というほどの緊張感はないかもしれない。また、「いざとなったら実家など頼れる資源がある」という人のほうが依然として多数派だろう。
ただ、貯金が100万円以下であるという状態は、「何かあった時の貯蓄としては心もとない」、「あまり余裕がない」という漠然とした不安感を抱くには十分である。十分な程度に、少ない。
そして、この「余裕のなさ」や「将来への漠然とした不安」をマジョリティが共有する時、「選別を前提とした再分配」は、「負担ばかり強いられる私と、再分配の恩恵を受ける者」という心理的な敵意、ルサンチマンを生じさせる。
本来、自分もしんどいなら、社会保障制度の拡充を訴える側に立ったほうがよさそうなものだが、そうはならない。
なぜなら、「余裕がない」と感じている一方で、「自分が『貧困』に至るというリアリティまではない」ために、「自分が再分配の受益者になる」とは思えないからだ。

なぜ社会保障を拡充しても「自分が受益者になる」とは思えないのか。それは、日本の再分配が厳しい「選別」を前提にしてきたからに他ならない。
「本当に困っている人のみが対象とされる」というイデオロギーが強い制度しか持たない国で、“あまり余裕がないマジョリティー”が再分配政策を支持しないのは合点がいく。
あとは悪循環である。
「再分配」が進まない→分配資源が更に限られる→“本当に困っている人”に支援を限るという「選別主義」が先鋭化する→市民間対立、ルサンチマンが増大する→「再分配」が進まない…
また、こうした悪循環によって選別主義が先鋭化することは、一つめの課題として指摘した「制度から漏れる困窮者」を質的にも量的にも増大させてしまうことも付言しておく。

「選別を前提とした分配」から、「みんなが受益者になる分配」へ

この袋小路をどう抜ければよいのだろうか。
そのヒントは、やはり既存の福祉国家に求めてみたい。

福祉国家と聞いてまずイメージするのは北欧だろうか。
福祉国家=再分配をしっかりやっている」という漠然とした印象を持つ人は多いだろう。そして、そういった制度が支持されているということは、北欧の人々は「再分配を支持している」ことが想像できる。
ところが、意外なことに、井手ら(2016)の整理によれば、ノルウェースウェーデンといった北欧諸国の「低所得層への給付」(という再分配政策)への支持は、それほど高くない。
日本やアメリカ、イギリス、ロシア、台湾など25か国のなかで、再分配政策への支持のポイントはノルウェーが14位、スウェーデンは19位と、むしろ下位に位置づいている。

他方、「高齢者に対する政策」や「失業者に対する政策」といった、あるカテゴリー向けの政策に対するノルウェースウェーデン国民の支持は高い。

つまり、北欧諸国は、再分配への支持自体はそれほど高くないものの、人々の共通するリスクやニーズに対処する政策への支持が高いということだ。
そして、特定の階層から他の階層への再分配というかたちではなく、低所得者も含めて社会で広く負担し、介護や教育サービス、失業補償をユニバーサルなかたちで設計することで、「多くの人が受益者となる」という戦略を採用しているのである。
北欧諸国でのこうした制度設計は、貧困率や格差の是正を実現する。
しかし、ここで低所得者層への再分配が進むのは、「みんなが受益者となる政策」の結果にすぎず、必ずしもはじめからそれ自体を目的として設計されているわけではない。
こうした戦略は、日本の悪循環とは正反対に作用する可能性が高い。

社会階層に関わらず、市民が様々な福祉サービスを広く享受できる→市民間対立、ルサンチマンが生じにくい→高負担に対する社会的合意が得やすい→再分配の資源を確保しやすい→社会階層に関わらず、……。

ここで私が主張したいことは、「日本も北欧のような高福祉・高負担に今すぐ舵を切るべきだ」ということではない。
どのような方法で社会保障費を担保するかというのは、経済状況などを踏まえて十分な民主的な熟議のもとに決定していくのが望ましいし、「高福祉・高負担」というレトリックが、高所得者納税の義務貧困層に転嫁する方便に使われてしまうリスクにも注意が必要だと思っている。

一方で、北欧諸国の仕組みから得られる教訓があることも事実である。
その一つは、厳しい「選別主義」を前提とした再分配は、必ずしも最も“効率のよい”戦略とは限らない、ということである。
特に、現在の日本のように「余裕がない」というリアリティを多くの人が共有する社会では、「選別主義」を前提とした再分配戦略こそが、―社会的合意形成を困難にしてしまうという意味において―、“政治的な非効率さ”を生んでしまっているといえないだろうか。

現在の日本で、「みんなが受益者になる分配」のありかたについて一度真剣に検討してみる価値は、確かにあるはずだ。

「一律給付金10万円を受け取る」という、“社会貢献”

今回の「一律給付金10万円」という施策の公表に至るまで、私たち市民は政府から嫌と言うほど「選別のまなざし」を向けられた。ある時は収入が下がったことを自ら証明することを求められたし、ある業種は「適切でない」という差別的なレッテルを貼られた。
政府だけではない。市民の間でも生活保護利用者や外国にルーツを持つ方がやり玉にあげられ、「給付反対」の掛け声を中心に差別的な言葉が飛び交っている。

しかし、一律給付金がきっかけとなって市民の断絶を深めるのは、あまりに勿体ない。
なぜなら、この一律給付金こそ、日本社会が一貫して囚われてきた過度なまでの「選別主義」を乗り越えるきっかけ、わずかでも重要な一歩という意味を持ちうるはずだからだ。

「誰が本当に困っているかを厳しく判別する社会」ではなく、「誰もが受益者になる社会」のほうが、居心地がよいに決まっている。

あなたが「一律給付金を受け取る」ということは、「選別主義をわずかでも乗り越えたという前例」づくりに参加するということだ。
「互いを監視し合う社会」ではなく、「みんなが助かる社会」を、社会共通の経験として記憶するということだ。
これが社会貢献でなくて何なのか。

もう一度言いたい。
あなたの所得が減っていようとなかろうと、生活保護を利用していようとなかろうと、外国にルーツがあろうとなかろうと、胸を張って、一律給付金を申請しよう。

一律給付金の申請は、それだけで大きな意義を持つ、立派な社会貢献だ。

受け取らないという選択をするのも自由だが、それを公言することで、今まさに社会貢献しようとしている人たちの足を引っ張らないでいただきたい。

日本のホームレス支援が、絶望的に“遅れてる”と思う本当のワケ

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お久しぶりです。
先日、昨年に続き、広島大学でホームレス支援の活動をお話してきました。
昨年は「一見“怠け者”に見えたりトンデモない言動をする当事者」であっても支援をするのをやめない、支援にあたってその対象とするか否かの「条件づけ」をしないのは何故か、
―すなわち現行の生活保護法が採用する無差平等の原理を明文化せずとも採用しているのは何故か―についてお話しました。

そして今年は、私がホームレス問題に取り組む一番の問題意識についても、少し話させてもらいました。
それは、「ホームレスの人が現在の制度に合わないといって路上生活を続けるのは、ルールを無視している、わがままなのではないか」という批判に応答するものです。
実は私は、このあたりにホームレス問題が語られる際に見落とされがちな重要な論点があると考えています。

“制度に合わない”は、社会のルールを軽視している?


このブログでも再三紹介しているように、日本は憲法25条にもとづいてすべての国民の最低生活を保障すべく、生活保護をはじめとした様々な社会保障制度を運用していることは周知のとおりです。
しかしながら、東京では、「居宅保護の原則が守られていない」、「自立支援センターに入所できても、期限内に仕事を見つけなくてはアパートに移るための支援がなされない」…といった様々な「課題」から、現行制度を利用することを躊躇し、路上にとどまる人が少なくない現状があります。

こうした現状を前に、多くの活動家などが制度の改善を訴える議論を蓄積してきているわけですが、時折、そうした立場に対して次のような批判が向けられることがあります。

それは、「現行の生活保護法やホームレス自立支援法は、国会を通じて制定されてきていることを踏まえれば、これらの法とそれに規定される諸制度は国民の合意に基づくものであり、社会の構成員には相互にこれを尊重し履行する義務と責任がある。そうであれば、『無料低額宿泊所は嫌だから(路上の占有という本来認められないはずの)路上での生活を続ける』というのは、そうした責任を放棄した無責任な行為ではないのか」というものです。

現状の制度運用に関していえば、そもそも(居宅保護の原則に反するなど)違法性が指摘されているのであり、「決められたルール通りに運用されている」という前提そのものが成り立っていません。
一方で、自立支援センターの在り方を規定する「ホームレス自立支援法」が成立して15年以上が経過していること、その間、3度にわたって基本方針の見直しがされていることを鑑みれば、「現状のホームレス自立支援法および制度運用は、民主的な手続きを踏んできた、一定のコンセンサスのとられたものである」という評価もありうるわけで、それを根拠にこの“民主的な手続きが踏まれた”法の尊重を説く立場からの指摘は、一度正面から検証する価値があるように思います。

“誰”の合意にもとづいているのか


しかしながら、「ホームレスもルールを尊守せよ」と批判する立場からは、そもそも「民主的な手続きによる法の履行」を該当社会の構成員に(責任として)課すことが正当性をもちうる条件についてはあまり語られません。
より具体的に言えば、わたしたちがホームレス状態の人に対して「あなたがたにもルールに従う責任があるのだから、路上を占有するのはやめて自立支援センターか生活保護を利用しなさい」と要求できるための条件は何か、ということについて、あまり議論されていないということです。

「ルールが改訂されるまでは、さしあたり決められたルールに従う」という、一見当たり前に思える要求も、これが正当性をもちうるためには条件があります。
それは、「ルールの履行を要求される人すべてが、そのルールづくりに参加する機会を等しく得ていること」でしょう。

民主主義というパースぺクティブでは、正義は、それを課された人々の頭ごなしに決定され外部から押し付けられた要求ではない。むしろ正義は、その名宛人が正当に自分自身をその起草者としても見なすことができる限りにおいてのみ、拘束力をもつのである。(ナンシー・フレイザー2012)

自身を規定(規制)しうるルールに関する民主的な議論に参加できていないのに、そのルールに従わなければならないというのは、端的に言って、意味不明です。
それでは、ホームレス状態の方は社会保障制度をはじめとする“ルールづくり”に参加できているか。
言うまでもなく、否(いな)です。

ホームレス状態の方の多くは住民票をもたないため、まずもって選挙の投票ができません。
2017年に厚生労働省が公表した「『ホームレス』の実態に関する全国調査」によれば、この年の全国のホームレス5534人のうち、路上生活の期間が「10年以上」とこたえた人は34.6%、「5年以上10年未満」が20.5%とされています。
この間、ホームレス状態の人が直接かかわる制度に関してどのような動きがあったでしょうか。

まず、すでに言及してきた「ホームレス」と冠した代表的な法である「ホームレス自立支援法」(※正式名称は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」)は、2003年7月に施策が開始されて以降、2008年、2013年、2018年と、5年ごとに基本方針が策定されてきています。
そしてこの間、関係者からは常に指摘されてきた同法の課題―「ワークファースト型」―そのものは見直されることなく今日に至っています。

また、ホームレスはもちろん、貧困是正策の土台ともいえる生活保護法も、2013年に(1950年の生活保護法成立以来、法自体の改正としては初めて)扶養義務の強化などを盛り込むかたちで改正され、2018年にも施設での保護をすすめかねない内容での法改正が行われています。この間、生活保護費が段階的に引き下げられてきた(またそうした議論がすすめられている)ことも周知のとおりです。

こうした、ホームレス状態の人をとりまく法制度の改定内容やその帰結への評価について今は論じません。
ここで重要なことは、こうした当事者の生活を直接規定するような法の改定に関する議論に、当事者が―上述した数字から推計すると、少なく見積もっても2012年から2017年の5年間で2700人(全国の過半数)以上の路上生活者が―参加できていないという事実です。
これでは、「現行制度は(ホームレスの人を含む)社会の構成員の合意に基づいて制定・運営されている」と評価することは到底できず、さきの「ホームレスの人もルールに従うべきである」とする正当性を担保できません。

他の分野では“当事者”の声を聞くことは当たり前のように行われている


実は、この「ルールづくりにおいて当事者の声をきく」という、ともすれば“当たり前”な理念については、2011年8月に障害者基本法が改正され内閣府に「障害者政策委員会」が設置された際、法律として明記されています。

政策委員会の委員は、障害者、障害者の自立及び社会参加に関する事業に従事する者並びに学識経験のある者のうちから、内閣総理大臣が任命する。この場合において、委員の構成については、政策委員会が様々な障害者の意見を聴き障害者の実情を踏まえた協議を行うことができることとなるよう、配慮されなければならない。(障害者基本法 第33条)

さらに、中央障害者施策推進協議会の第一回会議における、小泉首相(当時)の冒頭の挨拶でも“当事者の声”を施策に反映させる意義について直接言及されています。

「……これから障害者の皆さんに頑張って社会参加していただく。それが一般的な当然のことになってまいりましたけれども、まだまだ理解の足りない面もあると思います。そういうことを考えますと、障害者の立場に立った皆さんの考え方、あるいは支えているご家族の皆さんのご意見というものもよく聞いて、今後の障害者の施策に反映していくことが重要だと思います。こうして皆さんに委員をお引き受けいただいたわけでありますので、この協議会を有効に活用していただきまして、今後の日本の障害者施策の充実に当てていきたいと思っておりますので、よろしくご協力、ご鞭撻いただければありがたいと思います。今日はお忙しいところをおいでいただきまして、本当にありがとうございました。」


翻って、生活保護制度に関連する審議会に関しては、日本医師会、日本社会福祉会など福祉に関わる専門職の職能組織や、〈もやい〉などの支援団体が委員に選出されることはあっても〈生活と健康を守る会〉のような当事者団体からは選出されていないことが指摘されています。(大倉2014)

「貧困当事者がルールづくりに参加できない」ことが意味すること

―民主主義の失敗と“みせかけの自律”

このように、現状、ホームレス・貧困当事者の“ルールづくりへの参加”は、審議会への参加といった(比較的)直接的なものはおろか、ホームレス状態の人にいたっては、最も基本的な参加の手段である投票権すら行使できない状況にあります。

これは、ホームレス当事者に「社会のルールに従うべきである」と要求する社会側の正当性を担保できない、―よりラディカルに言えば、社会の構成員が相互に尊重し履行すべきものとして法を評価できない・無効化してしまう―民主主義の根幹を揺るがす問題であることを意味します。

さらに、現場でホームレス支援を行っている私自身の“営み”に目を向けるとき、以前書いた「ソーシャルワークの『違和感』」が一層先鋭化します。

すなわち、支援者がホームレス当事者に向き合う際、「良い生活」について支援者側が一方的に定義し、これを押し付けることは暴力的なパターナリズムであるとして避けられ、「当事者の意思決定」や「自律」が重視されるわけですが、「ルールづくり」に参加できていない個人は、他者によってきめられたルールの範囲内でしか「意思決定」をすることはできません。

例えば、以前書いた「『貧困支援はおせっかい?』-パターナリズムを考える」では、「路上生活をしている人に生活保護に関する知識・制度の説明をしたうえで、路上生活を続けるか生活保護の申請をするかの判断を委ねる」というケースを検討しました。

ここで、最終的な意思決定を当事者に委ねている点で、当事者の「自律」を尊重しているようにも思えますが、生活保護のルールづくりに参加できていない当事者―生活保護のルールを変えるための機会を全くもたない個人―にとって、そこでの選択は「他人が作ったルールによって提示された限られた選択肢」のなかから選んでいるにすぎません。
また、そうした限られた選択肢のなかから選ばなければ生きることができない個人にとって、そこで行われる「選択」はもはや「強制」でしょう。

私も含め、ホームレス支援を行う団体や活動家の多くは、「いかに当事者の選択の自由を保障できるか」という視点から、実に様々な取り組み―炊き出し、シェルターの提供から、居場所づくり・文化活動といった“楽しみの保障”に至るまで―を行っていますが、その過程で当事者がどれだけ人間としての尊厳を見出し、楽しく振舞おうとも、彼らがルールづくりから排除されている以上、そこで選択されるあらゆる行為は真に自律的な行為にはなりえないということになります。

ある文化の規則に同意すること、もしくは、文化の規則を変更することにおいて、疑問を呈する機会や参加する機会が存在するところでは、行為者は政治的に抑圧されている人々にはない選択肢によって、大いに自律を高めることができるであろう。そういう状況においては、それまで、彼らの特定の社会環境のうちに既にあった規則を解釈することを通じて選択するという意味においてのみ彼らの選択であるといわれるような行為が、(普通の意味で)選択された、はるかに深い意味で彼ら自身のものである行為となる。自律であったものが「批判的自律」となるのである。(ドイヨル&ゴフ2014:86)

ホームレスに“政治”はできない?―“忘れられてきた一票”

ここまでの話で、「そうはいっても、やはり人間にとってまず必要なのは生きるために必要な資源であり、当事者たちのニーズに政治参加などはない」という声が聞こえてきそうです。

まず、個々人の主観的なニーズにないものを保障する必要はない、という立場を私はとりません。社会的に保障すべき材やサービスの選定を、「本人が望んでいるか否か」というモノサシでのみ行うのであれば、例えば義務教育の保障などは理解不能です。
以前にも論じたように「本人が望んでいるかどうかに関わらずその機会を保障する」という構えはパターナリズムとの緊張関係を念頭においたうえでも正当化されうるものです。

そのうえで、あえて「ホームレスの人の政治参加へのニーズ」について確認したいのであれば、2010年の参院選に合わせて「ホームレス法的支援者交流会」が企画し全国の支援団体などに呼びかけて実施された「ホームレス生活者世論調査~忘れるな!この1票~」が参考になります。
ホームレス生活者世論調査 〜忘れるな!この1票〜 調査結果 - 夜まわり三鷹 活動日記

この調査では、路上生活などで選挙権が行使できない全国481名を抽出し、聞き取り調査を実施しており、その結果、「本当であれば,選挙に行きたい」と答えた人が268名(55.7%)、「以前,選挙権が行使できる状態だったときには,選挙に行ったことがある」と答えた人は367名(76.3%)にのぼり、ホームレス状態の人にも選挙権を行使したいというニーズが確認されたことが報告されています。
(ちなみに、上記の55.7%という数字は、この年の参議院選挙の投票率全国平均の57・92%と、ほとんど変わらない数字であることも指摘されています)
支援団体のこうした取り組みにも関わらず、依然としてホームレス当事者の“ルールづくりへの参加”はすすんでいません。
他分野では法律にまで明記された“当事者の声を聴く”という理念が、ホームレス・貧困問題になると全く実践されていないわけです。これは、なぜなのか。

現段階では憶測の域を超えませんが、社会が、場合によっては支援者すら、無意識のうちに「ホームレスの人は主体的な市民としてルールづくりに参加する能力を有していない/発揮できない」「ホームレスの人の“選択の自由”は一定程度制限されても致し方ない」といった認識をしてしまっているからではないでしょうか。

他方、海外に目を向けると、既に20年も前に、イギリスでCoPPP(Commission on Poverty, Participation and Power)という取り組みが実践されています。
これは、「自身の生に影響を与える政策決定に当事者の声を反映させる」こと、及びその手法の開発を目指したもので、貧困当事者と専門家が共に専門性を発揮することで貧困にある人々が直面する困難について特定し、その改善策を考案しようという試みです。
興味深いのは、Commissionの構成員がGlassroots(直接的な貧困経験者)とPublic life(専門家、学識者、活動家)と名付けられたグループが50/50になるように選出され、両者が協力してレポートを作成していることです。
こうした取り組みによって、貧困当事者が意見を言う自信、代表者であるという感覚を得たり、議論を重ねることで専門家に対する不信感が理解へと変わっていく様子が、コミッションのポジティブな側面として報告されています。

「この取り組みはとても良かったです。学術的すぎず、〝単なる巷のうわさ″でもない。合意形成のために表現が弱められたということもない。ほとんどの委員は皆の意見が包含されていると感じたはずです。」by glass roots(Sarah del Tufo and Lucy Gaster2002,永井訳)

このような当事者の声を含め、コミッションのレポートでは、改めて、政策の決定過程に当事者の声を反映させることの意義と展望について強調されています。

(前略)私たちは、貧困のなかで生きている人々は問題を抱えただけの人々であり、解決にむけて創造的に取り組むことができないという思いこみを変えるべきだ。(中略)もし、貧困を経験している人々がしっかりと意思決定や政治的プロセスにくみこまれたならば、私たちは新しい知識の形態と、これまでとは異なる種類の民主主義を作り出せると信じている。
(Coppp2000,永井訳)

~~
日本のホームレス支援においては、こうした取り組みは管見のところ見当たりません。実際、衣食住の保障といった、生存に関わる資源の確保がまず優先されるということには対外的にそれなりの説得力がありますし、ただちに批判されることではないかもしれない。

ただ、選挙期間中にたびたび耳にする当事者による“路上の議論”を聞くとき、10年ぶりにアパート入居を実現し、「投票に行けるようになって行かなかったことはないですよ」と胸を張るおじさんの笑顔を見るとき、この人たちが民主的な議論に参加できるように応援することこそ、(市民権の回復という意味でも)“ホームレス支援”の本質であり、喫緊の課題ではないかと思うのです。
このあたり、そろそろ個人的にちょっと本腰入れて取り組んでいきたいと思っています。

―――引用―――
・N.フレイザー、A.ホネット(2012)加藤泰史監訳『再配分か承認か?』法政大学出版局
・大倉沙江(2014)「生活保護制度の政策過程における福祉団体の行動様式:2000年代の生活保護改革を事例として」Proceedings of the 18th Conference of the Japanese Studies Association of Australia peer-reviewed full papers 1-17
・Doyal and Gough(1991)A Theory of Human Need: Macmillan Press
(=2014,馬嶋裕・山森亮監訳、遠藤環他訳『必要の理論』勁草書房
・Commission on Poverty, Participation and Power(2000)Listen Hear: The right to be heard, Bristol : Policy Press
・「ホームレス生活者世論調査~忘れるな!この1票~」

ソーシャルワーカーは専門職か?-支援の”ジレンマ”と”違和感”をめぐって

お久しぶりです!
前回の投稿からだいぶ時間が経ってしまいました。

今日は、先日知人と一緒に居酒屋でやった読書会でとりあげた本とそれへの私なりの感想を記録しておこうと思います。

今回私が選び、報告を行った著書は『社会福祉学の〈科学〉性-ソーシャルワーカーは専門職か?』
社会福祉学の〈科学〉性―ソーシャルワーカーは専門職か?
です。

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ソーシャルワークの「専門性」?

現場でソーシャルワークなるものを実践している人であれば一度は、「社会福祉の専門性」(効果の実証可能性と言いかえてもいいかもしれない)について考えたことがあるのではないでしょうか?
というのも、様々な理由で生活に困窮している人を前に、どのような手法で対応するのが「正解」なのかを判断するというのは実に難しい。
なぜなら、当事者のおかれた状況、成育歴などは文字通り千差万別で、いくらケースの蓄積があっても「こういう状態の人にはこういうアプローチをすればうまくいく」という解決にいたるプロセスを先立って構成することなどほとんど不可能だからです。

そもそも、社会福祉が目指すのは「個人が幸せに生きるための社会的条件を保障すること」だと私は考えていますが(もちろん、まずもってこの定義の合意形成自体が容易ではないわけですが)、この「個人」の「幸せ」というものは先験的に同定するということができない。
また、仮にソーシャルワーカーの働きかけによって当事者のニーズが首尾よく満たされたとしても、これを客観的に評価するというのも容易ではありません。

医者であれば「病気を治す」という明確な目標があり、それに向けた客観的な数値化というものがある程度可能です。ここで、「病気を治すことが本人にとって幸せなことかは自明ではないではないか」と言われそうですが、医者の目的が「病気を治す」ことであり、その専門家であると定義づけることと、病気が治ることが「個人の幸せ」の向上に寄与しているかどうかというのは全く別の議論です。
語弊を恐れずに言えば、医者は治療が個人の幸せの向上に寄与しているかどうかとは無関係に、「専門家」を名乗ることが(少なくともソーシャルワーカーよりは)可能であるということです。

ところが、ソーシャルワーカーが目標にしているのは「個人の幸せの総体」という、極めて個人差の大きい、質的なものであるがゆえに、目的の達成度合いについて証明ができない。

さて、本書はこうしたソーシャルワーク(および社会福祉学)が、歴史的にどのように科学性/専門性を追求し、その過程でどのような特徴を身に着けてきたかが丁寧に検討されます。

詳細は本書にゆずりますが、議論の土台として、簡単にその内容を整理してみます。
(以下は、本書の構成ではなく私の関心に沿った整理です)


ソーシャルワークは専門職に該当しない」と断罪したフレックスナー講演と、「科学化」への志向

1915年、アブラハム・フレックスナーは「ソーシャルワークは専門職か?」と題した講演で、彼は専門職が成立するための「六つの属性」を明示したうえで、「現段階でソーシャルワークは専門職に該当しない」と結論づけた。
これは、当時すでにソーシャルワーカーを養成する学校が設立されており、「専門的」な教育が施されつつあるという認識が共有されていた関係者にとっては大きな衝撃となり、多くの研究者や実践家がソーシャルワーカーの専門性について研究するきっかけとなった。

こうした機運によって志向された最初の「科学」化は、心理学を援用することで、クライエントに何らかの問題が生じた場合に、それを人間の内面から生じるものとして捉えていくという学問的姿勢に重心がおかれるソーシャルワーク理論として登場する。

心理学の専門用語が社会福祉領域で紹介され、ソーシャルワーカーが対象とする『クライエント』の言動や心理は、これらの概念を用いて『診断』され、『治療』、記録されていった。

(本書p.43)

…心理決定論は、現在の問題の根を過去に求めた。そこで逆説的に、子ども期が円満で充実したものになれば、世にはびこる『悪弊』や『風紀の乱れ』は収束するという法則が提示され、『予防』という活動領域が浮上したのだ」

(本書p.46) 

こうしたソーシャルワーク理論にもとづき、たとえば「問題児」を生む家庭(=「欠損家庭」)とはどのような家庭かを分析し介入するという動きが生じてくる。

しかし、このソーシャルワーク理論は、問題の本質を社会構造ではなく個人に求めすぎであるという点で、「問題を個人的なものとして捉えるのではなく、社会的、構造的な問題として捉え」る“マルクス主義ソーシャルワーク理論”などによって批判されるようになる。(p.50)
また「社会的なるもの」と「個人的なるもの」の相互の影響のありかたをとらえようとする“システム-エコロジカル・ソーシャルワーク理論”が登場し、「エコマップ」や「ジェノグラム」といった手法が開発されたとされる。

「科学」化の終焉

ところが、1960年代から70年代にかけて、「反専門主義」が台頭し、そもそもソーシャルワークの担い手が「正常な社会生活」を賞賛し、その安定性を保つためにクライエントの行動を規制したり制御したりする姿勢そのものが批判されるようになる。

ソーシャルワーカーはクライエントを制御するものであり、社会福祉学はそうしたシステムを維持させる装置であると糾弾され、その結果、

…ケアマネジメントの手法のようなプロセスが重要視されるようになった。そしてソーシャルワーカーは、利用者の主体性を尊重し、彼/彼女の自己実現を支える『協働者』と設定された。

(p.126)


ポストモダン」のソーシャルワーク理論

反専門主義の台頭を経た現在のソーシャルワーカーは、「専門家だけが知識や権力をもっていたこと、『非対称性』がケアの場面で存在していたことを反省」するようになる。
これは、ポストモダンという時代の要請でもある。

多元的な社会において、特権的な見地や絶対性は後退していくが、ここで第二の『参加』は重要度を増す。ポストモダンの社会において、すべての判断は相対視され、力が与えられる。それは、力をもつ人間の言葉のみが真実とされた過去とは異なる。そこで従来の『クライエント』には、福祉サービスを利用する際に『自己決定』をおこなう役割が求められるようになった。

(p.177)


こうした、社会福祉学領域における「ポストモダン論議においては、フーコーが代表的な思想家として認識されている。フーコーは、近代社会が様々な専門家によって人々を「規律化」する暴力性をもっていることを指摘した代表的なポストモダニストとして知られるが、著作『監獄の誕生』のなかで、この「人々を『規律化』する実務に就いている専門家としてソーシャルワーカーを名指しで批判している。これは社会福祉学の研究者にとってはショッキングなものであり、以降、フーコーの思想を基礎にした「新しい」アプローチとして、近年、利用者の「自己決定」「強さ(ストレングス)」「物語」などを重視するアプローチが登場するようになる。


なお残る、ソーシャルワーカーが持つ「権限」

ハートマンは、ポストモダンの台頭も念頭に「ワーカーは抑圧されてきた人々の声に耳を傾け、彼らのナラティブ、リアリティの解釈の仕方を尊重し、周辺的な知の活性化を促進しなければならない」とするも、同時に、「ソーシャルワークの知は捨て去るべきでない」と強調する。
というのも、利用者の「物語」にしたがっていけば、利用者あるいは利用者と接する人々がリスクにさらされるような事態が生じうるのであり、

リスクがある場合、「適切」に処遇するための力は行使される。こうしたパワーの行使の「客観」的な信頼性を高めるためにも、社会福祉実践のデータベース化は、より精緻化されることが望まれるのだ

(p.203)

こうして、専門家による「規律化」が批判され、当事者の「自己決定」が尊重されるようになった今なお、ソーシャルワーカーが介入する局面が想定され、これを正当化するためのデータ化(≒科学化)とそれに付随する権限は、依然ソーシャルワーカーの手中にあり、当事者との間にある非対称性が解消されているとは言い難い。
三島は、こうした現在のソーシャルワーカーを次のように表現している。

専門家は、一方の手に反省的学問理論、もう一方の手にデータに基づく権限をもって実践に臨んでいる。


率直な感想―ソーシャルワークの“ジレンマ”と“違和感”

さて、本書を読んだ私の率直な感想は、「ソーシャルワークを現場で実践するなかで感じる“ジレンマ”と“違和感”を首尾よく説明された」というものでした。

人を相手にし、場合によっては命にかかわる局面に向き合う以上、個人の考えのみに基づいて何らかの判断や決定を行うというのはある種の“こわさ”がある。そこで、そういった判断の根拠を「客観性」のあるデータや、専門性に求めたいという願望が生まれるのはとてもよく理解できます。一方で、冒頭でも触れたように、ソーシャルワークはその効果を実証するということ自体がとても難題であり、また「専門性」という“権限”をふりかざすことで当事者との間に非対称性が生まれてしまうという問題もあります。
個人の“職人芸”として向き合うこともこわいし、“専門職”として振る舞うことで生じるコンフリクトもある。こうしたジレンマに悩む支援者は少なくないはずです。

次に、“違和感”について。
行政による時に高圧的で一方向的な「支援」に対するアンチテーゼで満ちた民間支援の現場では、当事者の意思に反した(と評価される)アプローチは強い批判にさらされますし、現場の支援関係者には、ソーシャルワークが持ちうる暴力性について、自覚されているように思います。
一方で、現状として、各団体にはそれぞれに当事者との関わりを持つ方法や条件に一定の規範やルールが存在するし、(ケアプランの作成など)「一緒に考える」アプローチを採用しているといっても、当事者の個人情報などが記録され、これらが介入や管理に活用されることがあるというのもまた事実でしょう。
たしかに、当事者にとって何が幸せかについて「専門」家が一方的に決定し介入するというアプローチは手放されたかもしれない。
しかし、フーコーらの指摘の根幹は、そういった直接的な支配や規律化ではなく、むしろ自律を構造的に強いるような、いわば間接的な管理のありように向けられているわけですから、
現場でよく耳にする「エンパワメント」や「当事者参加」といったアプローチも、フーコーによる批判を逃れられているわけでは全くない。むしろそういった「新しい」アプローチこそ、フーコーによって一層厳しく批判されるだろうと感じます。
どれだけ支援のありよう(内容はもちろん方法や条件に至る細部まで)について当事者が主導権をもって意思決定していくようなプロセスを構想できたとしても、「意思決定」を行うということの意味を同定し、そのための条件を社会的に整えようとする施策が、新たな管理や規律化を生むということは避けられそうにありません。

ここまで考えてみると、フーコーの指摘を乗り越えられるアプローチなど存在するのか?という疑問さえ生じてきます。
もっと言うと、そもそも現在のソーシャルワークの営み自体が近代的なシステムに依拠している以上、ポストモダニズムからの批判に対し、社会福祉の領域からのみ応答するには限界があるように思いますし、現時点でフーコーを乗り越えられないアプローチのすべてを切り捨てるというのも建設的ではないでしょう。

例えば支援者の場当たり的な判断で介入のありようが規定される暴力性と、データに基づく介入といった暴力性を比較し、さしあたり後者を選ぶということに全く意味がないわけではないし、同様に、「新しい」アプローチにも評価に値する側面もあるはずです。
結局のところ、絶対に避けるべき暴力と、さしあたり採用するしかない暴力とを選別し、何が当事者の自由をより促進するのかを再帰的に評価し選択していくしかないのかもしれない。

…と、一旦、居直ってみたものの、現在貧困状態にある方が社会的・政治的にあらゆる領域からその主体性を否定され、徹底的に参加を拒まれている状況を鑑みると、フーコーにも(一定程度)応答しうる参加のありかたについて模索・構想することは急務であると感じます。また、現場のソーシャルワーカーが“ジレンマ”と“違和感”を建設的に乗り越えられる道についても探る必要があるでしょう。
そのヒントを、私はあらゆる人が社会づくりに参加できる状況、つまり(政党政治に限定されない広い意味での)政治的自由が保障された社会の実現にみているのですが、話が長くなりすぎるので、今回はここで筆をおきます。

それでは、みなさん、よいお年を!


 

マンガ『健康で文化的な最低限度の生活』を読んで考える。ー「ソーシャルワーカーに向いている」とは?

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今年7月よりカンテレ・フジテレビ系列で火曜よる9時から放送されている連続テレビドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』。

既に第五話まで放送されていますが、原作から読んでいた“いちファン”としても「なかなか描きにくい部分までうまく再現されているな~」という感想をもっています。

そもそも、生活保護を正面から扱ったマンガがドラマ化されゴールデンタイムに放送されるということ自体が貧困や生活保護に対する社会的な“関心”のありようとしてとても興味深いです。
何よりこの作品が生活保護利用当事者をバッシングするわけでも、社会の被害者として同情を誘うわけでもなく、冷静な視点から当事者や彼らをとりまく人々の様々な葛藤を描いている」という点で、貧困を扱ったこれまでのメディアコンテンツとは一線を画しているように思います。

より具体的に言えば、「借金」「不正受給」「アルコール依存」…など、これまで散々生活保護利用者へのバッシングとして利用されてきた題材を避けることなく、それぞれの当事者の“失敗”と“困りごと”の双方に光を当てることで、「貧困は自己責任だ」VS「貧困当事者は社会の不作為による被害者だ」という二項対立的な“不毛な論争”に陥ることなく建設的な論点を提供してくれていると感じます。

加えて、ちょうど今放送中の「扶養照会」編では、「家族は支え合うべき」というマジョリティの社会規範がすべての人に合うわけでもないということ、またそうした画一的な価値観で制度運用を行うのがいかに危険なことであるかという点が浮彫にされます。

このように、当事者と社会構造の関係を冷静に描きつつ現行制度の在り方を改めて見直すきっかけをくれる本作は、ドラマはもちろん、原作もとてもリアリティがあって勉強になるので是非多くの方に読んでいただきたいと思います。

さて、ドラマ化をきっかけに改めて原作の漫画を読み返してみると、主人公の義経えみるのキャラクターがドラマ版とは少し違っていて、そこに「『ソーシャルワーカーに向いている』とはどういうことか」について改めて考えさせられるきっかけになりました
今日はそんな視点からだらだらと書いてみます。


原作の義経えみるは「空気がよめない」「人の話を聞くのが苦手」?

吉岡里帆さん演じるドラマ版の義経えみるが生活保護利用当事者を相手に奮闘し、時に知識の不十分さや気持ちが入りすぎることで空回りする様子は、「新社会人の初々しさ」の一面として描かれているきらいがあるように思います。
これはこれでドラマの主人公としてのキャラクターが際立っていて作品としては全然ありだと思うのですが、原作のえみるは「新人の初々しさ」なんて爽やかな評価をするには“もったいない”ぐらいの「ポンコツ感」があり、そこにえみる自身が悩み葛藤するところに「相談業務に向いている、とは?」という、ソーシャルワークの永遠の問いが立ち現われてくる面白さがあると感じました。

昔からよく言われてた。
「えみるちゃんって天然だよね。」
「マイペースっつーの?えみるみたいの。」
義経さんってボンクラだよね。いい意味で…」
この「いい意味で」を言葉通りに受け取り、
嫌味を言われてもそれと気付かない勘のニブさでむしろ健やかに育ってきた。
けど…徐々に成長して………大人と呼べる年齢になって…
ようやく薄々感付いてきた。
自分は…空気が読めない…
人の話を全然聞いてない…
どこかネジが一本抜けた人間だと…

えみるの自己評価はとにかく「空気がよめず、人の“顔色”というものが分からず、話を聞くのが苦手」というもの。

これ、当事者支援にあたる人間としてはかなりマズイと思いませんか?

これは私自身が相談業務にあたるなかで痛感したことなのですが、生活に困窮されている方のなかにはご自身の状況や感情を言葉にするのが苦手な方も多く、お話をするなかで表情や声のトーンから様々な情報をこちらが「読み取って」いかないと、なかなか相手の主訴やニーズを把握できないということがあるように思います。
また、例えば「(当事者に)働きたいという強い思いがある」ということを分かっていても、「今日の段階で就労支援の話に踏み込むのは精神的な負担が大きいだろうな」とか、その時の相手の体調や気持ちの余裕の有無などを見極めながら相談に乗るというのは結構大切だと感じます。

原作のえみるはそういったことが極めて苦手。その結果、精神疾患をお持ちの当事者からの暴言にいちいち傷ついたり半ば強引に債務整理を進めようとして相手との関係が悪くなったり…と、自分も周りも苦しめてしまいます。


「人の話を聞くのが苦手」という、“強み”


案の定、当事者を振り回し、また振り回されもするえみるは、「生活保護ケースワーカーという仕事に自分が向いていないのでは」と悩みます。

「人の話を聞く」…なんてことが、こんな難しいなんて……
考えたこともなかったよ……

一期一会という言葉が苦手だ。
一回の出会いで人とコミュニケーションとれる気がしない。
よく、「一回会えばそいつがどーいう奴かだいたいわかるじゃん!」
という人がいるけど、
自分にはその能力がない。
相手のことがわからない。
わからない相手に対して、どういう態度で接するのが正解なのかわからない。
今の仕事に就いて、そんな自分を、つくづく思い知らされた…

上述したように、人の話を聞くこと、相手の表情を読むことは相談業務においては非常に重要なスキルだとよく言われますし、実際にそうだと思います。
一方で、こうしたえみるの葛藤から、
「自分は人の気持ちが分かる」と自信をもつことや、「表情を読むスキル」などを対人援助の“専門性”として位置付けることのこわさも感じます。

当たり前のことですが、世の中には一人として同じ人はいません。10人いれば10通りの社会背景や感情や価値観がある。「『こういう人』にはこういう対応をする」といったパターン化をするということは、現場の経験を蓄積し活かしていくという意味で重要なことだと思いますが、そういったアプローチが通用しない方というのも絶対にいるはずです。どんなに経験を積んだ「話を聞くのがうまい人」であれ、「この人はこういう人だ」という主観的な解釈がどこまで妥当性をもつかというのも極めて疑問です。

何より、「相手のことを理解した/分かった」と安易に考えることは、人の多様性、その人の独自性、唯一無二さといった個性にきちんと向き合わない、とても失礼な行為ではないでしょうか。

時々、「苦労した経験のない人間は当事者の気持ちが本当の意味では分からない。そういう人間が支援をするということ自体に矛盾がある」という人がいますが、「苦労した経験」と一口に言っても、ある人と全く同じ経験をした人はこの世に一人として存在しない。

どれほど似たような経験をしていたとしても「あの人の気持ちが自分には分かる」と安易に口にてしまう人は、同じような経験に対して個人の感じ方には差異があるという事実に対する想像力が乏しいと思ってしまいます。

わたしたちは、誰も、第三者の経験を経験することはできないし、代弁もできない。
これは紛れもない事実だと思うのですが、絶望ではないと思っています。


「人の気持ちが分からない、どういう人か分からない」からこそ、分かろうと努力する。

自分には様々な偏見やバイアスがあると自覚しているからこそ、安易に「こういう人」と決めつけず、きちんと話を聞こうとする。


対人援助業務のイロハの“イ”は、「話が聞ける」ことではなく、
「話を聞き相手のことを理解するという行為は、元来とても難しいことだと知る」ことではないでしょうか。

原作のえみるは、そんな“難しさ”を強く認識している。自分の対応が誤りうるということを知っている。だからこそ、“間違った”と感じた時に当事者に対してきちんと謝罪し反省することができます。

島岡さん。
私が…島岡さんの言葉を…
島岡さんの状況を、
きちんと聞くことができなかったこと…
本当に申し訳なく思っています。
本当に…すみませんでした。


さて、ケースワーカーの仕事が向いていないと悩みながらも様々な背景をもつ当事者と日々“格闘”するなかで、えみるは相談業務の大変さを「人とかかわる」面白さとして認識し始めるようになります。

最近、この仕事をおもしろいと思い始めている自分がいる。
人とかかわるということ…
人の人生にかかわるということ…
多分私は、
人とかかわることがそんな嫌いじゃない―――
もっともっと人が知りたい…
人を知って、いろんな人生とかかわって、
そしてもっともっと自分にできることを究めたい……


相談業務をソーシャルワークの“専門的な”手法としてパターン化・体系化するだけでは見失ってしまいかねない、「人とかかわる面白さ」。
これを知ったえみるが、今後現場で何を感じ、どのように“成長”していくのか。ドラマも原作もこれからの展開が楽しみでなりません。

私自身も、人のことを安易に「理解できた」と過信しないよう自戒をこめつつ、
「理解しよう」とかかわり続ける面白さを、これからも追いかけたいと思います。

東京のホームレス支援において住宅問題は本当に酷い!―『ハウジングファースト』を読んで改めて考える「居宅保護」の意味

先日、都内で生活困窮者のアパート入居とその後の見守り活動に取り組む〈つくろい東京ファンド〉の稲葉剛さんより、『ハウジングファースト-住まいからはじまる支援の可能性』を私の所属する団体にご恵贈いただきました。

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公私でばたばたしており、なかなか読めていなかったのですが最近ようやく読了したので感想がてら考えたことを書いておきます。

本書を読んでみての率直な感想は、「東京で生活困窮者、とりわけホームレス支援をしている個人や団体が日々感じているであろう都内の住宅政策の脆弱さとそれに起因する葛藤を、地に足のついたかたちで表現し、さらにそれを克服するプログラムをこれほど説得力をもって提言してくれる本はなかなかない」というものです。

本書でも再三指摘されていることですが、東京都の住宅政策におけるセーフティーネットの脆弱さは、驚愕するほど酷いです。
これは私が広島から上京し、東京のホームレス支援を始めて最も驚き絶望したことでもあるので、前提の共有として簡単に説明しておきます。
ご存じのとおり、日本には最低限度の文化的な生活を送れない状態の方に最低生活を保障するために生活保護という制度があります。
そして、今手元にある『生活保護手帳』を開いてみると、生活保護法第30条において、

生活扶助は、被保護者の居宅において行うものとする。ただし、これによることができないとき、これによっては保護の目的が達しがたいとき、又は被保護者が希望したときは、被保護者を救護施設、更生施設若しくはその他の適当な施設に入所させ、若しくはこれらの施設に入所を委託し、又は私人の家庭に養護を委託することができる。
2 前項ただし書の規定は、被保護者の意に反して、入所又は養護を強制することができると解釈してはならない

…という、いわゆる「居宅保護の原則」が法律で明記されています。

より一般的な言い方をすれば、最低生活の保護は「個室でプライバシーが守られ、衛生面や安全性など市場のアパートとしての基準を満たした住環境」でおこなわれるのが大原則であるということです。
こういった生活保護法について大学で学んでいた私は、「なぜこうした制度のある日本でホームレス状態の方がいるのだろう」というのは素朴に疑問でした。
無論、地域に限らず現在の日本では生活保護利用者への風当たりの強さや偏見から、生活保護を利用したくないと考える方がいること、福祉事務所のずさんな対応によって適切に制度利用に繋がらない機能不全などが生じているであろうことは容易に想像できましたが、それでもなお、路上という過酷な環境での生活を選択する人が一定数いることはやっぱり不思議だったわけです。

その答えの一つは、ホームレス支援の現場で働きはじめてすぐに理解できました。

東京都では、居宅保護の原則が全然守られていない!

実は、都内の路上生活の方が生活保護を申請しても、すぐにアパートに入れるのは稀で、民間の宿泊所や無料低額宿泊所とよばれる施設への入所を強制される実態があります。
そしてとりわけ問題なのは、こうした施設の多くが、人が生活するには極めて劣悪な住環境にあるということ。

「2段ベッドがずらーっと並んでいてカーテンで仕切られているだけ」「ベッドシーツはダニだらけでかゆくて寝られない」「ストレスから精神的に追い詰められて大声を出してしまう人がすぐ隣にいる」「『寮費』として保護費をひかれて、1日数100円しか使えない」
こうした声を毎日のように聞きます。

その結果、「無料低額宿泊所に入るくらいなら路上のほうがマシ」と言って生活保護をきって路上に戻ってしまう人がとても多い印象です。

私は、大学院での研究で生活保護利用者の住環境についてヒアリングをしたことがあるのですが、その際「個室」などはあまりに当たり前で、「エアコンはきちんと効くか」といったレベルで評価基準を設定していました。そんな私にとって「路上のほうがマシ」だと言わせてしまうような東京の住まいのセーフティーネットのレベルの低さは驚き以外のなにものでもありませんでした。

無論、保護を開始するにあたってアパートなどがすぐに見つからない場合、「居宅保護」に向けた仮の住まいとして「十分な条件を満たせていない住居」に一時的に入ってもらうという、やむにやまれない状況を想定しておく必要とその意味はあると思っています。(「適切な住環境以外での保護の開始を一切認めない」とした場合、そういった資源が間に合わない事態になった際に路上で寝てもらうしかないという機能不全に陥ってしまうから)
しかし、それはあくまでも緊急・例外的な対応であるべきであり、一刻も早くアパート転宅などを目指すのが大原則であるはずです。

ところが施設での生活保護利用者がアパートへの転宅を訴えても、「金銭管理ができるようになったら」「健康管理が自分でできるようになったら」「掃除や身だしなみなど一人暮らしができることを証明できたら」といった極めて曖昧な条件をあげられ、転宅が認められないということが非常に多いのが実態です。

ハウジングファーストとは?-理念と現場の葛藤

さて、前置きが長くなりましたが、本書ではこうした東京都の(当事者支援における)課題を様々な統計やデータから指摘しつつ、「ハウジングファースト」の理念が以下のように掲げられます。

ハウジングファーストでは、プライバシーが保てる住まいをもつことは人権であり、人は誰も、安全な住まいで暮らす権利があると考える。住まいは決して、精神科医療にかかることや断酒してしらふで過ごすことを条件として、その引き換えに提供されるものではない。アパートに住んで自分で管理できる空間の鍵をもつということは、その人の尊厳そのものである。(本書16頁)

改めて考えてみると、ここには、別に何か新しい理念や考え方が打ち出されているわけではありません。自分の居宅に住むということを原則としましょうという話は、すでに確認したように現行の生活保護法で明記されているし、これが制定されてから70年近く経っています。
しかし、この「何をいまさら」とツッコミを入れたくなるような原則が守られていない現状に、行政はもちろん、現場の支援者も今一度向き合う必要があるように思います。

というのも、日々、支援の現場で様々な生きづらさを抱える方と接するなかで、「アパートでの一人暮らしを安易にすすめていいのか」とこちらが葛藤するケースもあり、ともすると当事者の権利侵害に、間接的に加担してしまっていることも往々にしてあるように感じるからです。
それは例えば頻繁に「死にたい」と訴える方などに見守り機能のない環境での生活を促した結果、取返しのつかない事態に発展してしまわないかという懸念などからです。

批判を恐れず白状すれば、「アパートに入りたい」と訴える当事者に対して、「○○さんの場合困ったときにすぐに相談できる人がいる環境のほうが安心ではないですか?」と、暗にその時の環境のほうを「推し」てしまったこともあります。
また、現状として、東京で路上からのアパート入居を目指す際には住民票の取得、携帯電話の契約、前家賃など入居に伴う様々な資源の確保、アパート探しなど、非常に「課題」が多く、その過程で疲弊してしまう方も多い。幼少期から様々な困難や“失敗”を繰り返し、自尊心を傷つけられてきた当事者の方に、新たな“失敗”や挫折の経験をさせてしまうことにならないか。よかれと思って勧めたアパート入居が、結果的に相手を傷つけることにならないか。
勿論、「この人にとって良い帰結にならないかもしれないから」と勝手に判断をし、きちんと情報提供をしないのは当事者の〈知る自由〉〈選択する自由〉を剥奪する行為である、と理解しているつもりです。

それでも、上述したような不安などから、「適切な住まい」への入居を最優先とせず、「今はまだ条件が整っていない」などと、無意識のうちに行政的な「ステップアップ方式」を踏んでしまうことがあるように思います。
しかし、本書では、「ハウジングファースト」の理念だけではなく、その“有効性”についても示されています。

ハウジングファーストの“有効性”に関する知見

本書での整理によれば、1990年代にアメリカで生まれたハウジングファーストの取り組みが全米の各都市に広がり、現在ではカナダ、フランス、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、オランダ、オーストラリアなどの各国で採用されているのには、ホームレス支援におけるハウジングファーストの有効性が研究によって実証されたことも大きいといいます。
その先駆的な調査としては、ニューヨークのホームレス支援団体が2000年に報告したもので、ハウジングファーストプログラムを提供した精神疾患をもつホームレス状態の人241名と、従来型のステップアップ方式の支援が提供された1600名との比較調査があるとのこと。
調査内容の詳細は本書にゆずりますが、両群の比較調査の結果、次の知見が得られたといいます。
① ハウジングファーストプログラムでは5年後の住宅維持率が88%だったのに対し、従来型のモデルでは47%だった。
② この結果を皮切りに、アメリカやカナダで比較研究がすすめられ住宅維持率の高さ、精神科入院期間や住まいを得るまでに要した時間の短さ、費用の安さ、QOLの向上といった効果が実証された。

さらに本書では、「つくろいハウス」の実践などを通したハウジングファーストの国内の取り組みと課題についても整理されており、まさに“現場の汗”とともに掲げられるハウジングファーストの意義が力強く示され、とても読み応えがありました。

パラダイムシフト”すべきなのは誰か?

こうしたエビデンスや実践的な取り組みの蓄積を知ることは、支援の現場で当事者と向き合う関係者にとっても、大きな“勇気”となるのではないかと思います。

こうしたなかで、ホームレス支援の方策におけるパラダイムシフトの転換が求められている。治療や就労支援を受けることや寮に入って集団生活を送ることを前提とせず、安定した住まいを得たいという希望があるならば住まいを得ることができる、「ハウジングファースト」型のホームレス支援へのシフトが必要不可欠であると、筆者らは考えている。(本書25頁)

一見、アパート暮らしが難しそうに思える当事者であっても、すべての人に「適切な住まいの保障」を実現する。
このためには、ホームレス支援に関わるすべての関係者がこれまでの支援の「常識」を疑い
パラダイムシフト”する必要があるように思います。

まだまだ国内では十分に議論がされているとは言い難い「ハウジングファースト」ですが、「適切な住まいの貧困」という視点から考えると、その施策の射程は施設内での生活を(事実上)強制されている重度障害者の方や高齢者などにもおよぶという意味で、より普遍的な議論の可能性を持っているとも言えそうです。
ホームレス問題を(狭義の)「ホームレス状態の方」の問題として閉じ込めるのでもなく、「住まい」の重要性を過小評価することなく問題の是正を目指す際、「ハウジングファースト」は非常に重要な概念だと感じます。

今後、主張したいことの布石…

さて、本書でも現場でも再三声高に言われる「当事者の自己決定の尊重」。
実は私は、現状として(とりわけ)ホームレス状態の方の「自己決定」は全く実現できていないと思っています。
それは、仮に「ハウジングファースト」の理念が貫徹され、すべての人が「住みたい場所」に住み、生きたいように生きられたとしても、あるひとつの行為ができない状態であれば、それらすべては見せかけの「自己決定」にすぎないと考えています。
それが何なのかについては、またの機会にゆっくり書きたいと思います~!

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今回紹介させてもらった『ハウジングファースト-住まいからはじまる支援の可能性』は、ハウジングファーストという理念に全く共感しない人であっても「(とりわけ東京の)ホームレス事情について知りたい」という方にはとってもお勧めです!
専門用語やカタカナばかりで読みにくい…ということもなく、特別な知識がなくても理解できると思います。編者の稲葉剛さんが代表をされている
つくろい東京ファンド
さんは、居場所づくりとして「カフェ潮の路」も運営されてますので、本書片手に美味しいコーヒーをいただく…というのも悪くないのではないでしょうか?(笑)
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広島大学で講義をさせてもらいました。-“怠け者”や“素行不良な者”でも支援する理由とは?

お久しぶりです!
先日、母校の広島大学でホームレス支援の活動についてお話をする機会をいただきました。「貧困支援のプロのやりがいと悩み」という、たいそうな題目をまえに僭越ながら…(笑)

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今回は基本的にはどんな話をしてくれても構わないということだったのですが、講義の全体としては福祉国家の多くが理念として掲げているいわゆる(支援における)「無差別平等の原理」が、(場合によっては多くの市民感情を“逆なで”するにも関わらず)なぜ採用されているか…というあたりを掘り下げる内容とのことだったので、私もここに重点をおこうと決めました。
というのも、私自身、この「一見、“怠け者”に見えたりトンデモない言動をする当事者」に対峙する時こそ、現場で活動するうえでのある種の“おもしろさ”を感じているからです。

少し話がそれますが、ホームレスの方や生活困窮者に対する「お金をギャンブルやお酒に使い込んでしまったり、仕事があるのに働きもしない怠け者だっている。そういう人たちを税金で支援するなんてけしからん!」というバッシングはよく目にしますよね。
これに対して支援関係者や研究者は、「そういう人はごくごく少数」「実態としては働かないんじゃなくて働けないんだ」などとカウンターを入れるんですが、私個人としてはこうした“擁護”が時に不自然に感じることがあり、正直こういう応答の仕方に「飽き飽き」しています。
というのも、ギャンブルやお酒で一文無しになって泣付かれることはそんなに珍しいことでもないですし、無差別平等の原理を徹底することを念頭におくならば、むしろそういう「トンデモない言動をする人」の存在を認め、かつ「まあ、一般的にはトンデモないと評価されるような人だって、生きていていいじゃないですか」と開き直るほうが、よっぽど無差別平等の理念と整合的だと思うからです。
「働かないんじゃなくて働けないんだ!」と強調すればするほど、「働かない人」バッシングにある意味では加担してしまうことになるように思います。

そこで今日は、貧困支援関係者の多くが、なぜ「トンデモない言動をする人」であれ、支援の枠組みから排除しないのかということについて広大での講義内容をもとに私の考えを書いてみようと思います。

そもそも、「無差別平等の原理」とは?

今でこそ最低生活に満たない生活をしている方であれば、その困窮の理由に関わらず生活保護による保障の対象となりますが、1946年に制定された(旧)生活保護法には第二条に「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という欠格条項がありました。

第二条 次の各号の一に該当する者は、この法律による保護は、これをなさない。
一 能力があるにもかかはらず、勤労の意思のない者、勤労を怠る者その他生計の維持に努めない者
二 素行不良な者

また、この法律を制定するにあたり、当時の厚生省とGHQの間で「素行不良な者」の解釈をめぐって議論になり、「『飲む、打つ、買う』のような者」という意見が出たそうです。(副田義也1995『生活保護制度の社会史』:21)

つまり、「怠け者」や「トンデモない言動をする人」を保護の対象から外そうという議論は生活保護法の制定をめぐる公的な議論においてすでになされていたというわけです。

しかし、1950年に施行された現行の生活保護法では、この欠格条項はなくなっており、第二条にはかわりに「この法律の定める要件を満たす限り」保護をうけることができる、という「無差別平等」の理念が明記されるようになりました。
(※厳密に言うと(旧)生活保護法にも第一条で無差別平等に関わる文言を確認できるのですが、現行制度の無差別平等とは質的に大きく異なっています)

(無差別平等)
第二条 すべて国民は、この法律を定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を無差別平等に受けることができる。

この、「要件を満たす限り」というのは、「現在、本人の資産や他の社会保障制度(年金など)を活用してもなお生活に困窮しているのであれば、勤労の意欲のない者であれ素行不良な者であれ保護する」ということです。

これはちょっと不思議な感じというか、納得できない人も多いのではないでしょうか?
(旧)生活保護法のほうがいいのではないかと感じる人も多いと思います。

では、なぜ現行の生活保護法は、そして当事者支援を行う団体や関係者の多くは、支援にあたってその対象とするか否かの「条件づけ」をしない(明文化しているかどうかは別として事実上、無差別平等の原理を採用している)のでしょう。
今日はその理由として、以下の3つの視点から考えてみたいと思います。

支援に際して条件づけを行わない理由①
理由の1つ目は、「“怠け者”や“素行不良な者”」の定義と運用に関するものです。
例えば、飲酒を考えてみましょう。「社会保障制度による給付金を初日に全額飲み代に使ってしまった…」など、極端な例であれば、「それは飲みすぎだ!けしからん!」と多くの人は思うでしょうが、「月に一度、缶ビールを飲んでしまった」という場合はどうでしょう?
「困窮してるのにお酒なんかにお金を使うべきではない!」という人もいれば、「まあ、誰だってたまの1杯くらい息抜きにあってもいいかも」という人もいるのではないでしょうか。

ギャンブルにしたって、月に1回1000円程度(社会保障の給付金で)パチンコに行く人を“素行不良”と評価する人もいればそうでない人もいる。また、その1000円が映画鑑賞などであれば問題に感じる人はぐっと減るかもしれない。そうなってくると、なぜ映画鑑賞はよくてパチンコはダメなのか?

…と、「素行不良な者は支援しない」という条件をつくろうとすると、即座に「“素行不良な言動”を誰が、どういった価値観から、どうやって定義づけするのか」という、極めて難しい問題に直面します。

お酒やギャンブルなど、数値化がありえるものはまだ「社会保障の給付金での飲酒はひと月1000円まで」などと設定することは、技術的には可能かもしれない。
しかし、「労働意欲があるか否か」など、“本人の気持ち”に関わる極めて質的なものを、誰もが納得できる妥当性のある形で定義することなどできるでしょうか?

「厳密な定義やルールづくりなど必要ない。対応する人間がその都度当事者のやる気を判断すればいい」という人もいますが、支援を継続するか否かを判断するというのは、控えめに言っても「相手の生死について決定する」という行為です。そんな重い判断を現場の人間だけに委ね、負わせることは、明らかにフェアじゃない。何より、公的なサービスをきちんとした定義やルールに基づくことなく運用するというのは法治国家として失格でしょう。

支援に際して条件づけを行わない理由②
理由の2つ目は、「関わりを断ったり“排除”したところで状況は何も好転しない」という事実認識にもとづくものです。

「“怠け者”や“素行不良な者”の生活を社会が支える必要はない」として、支援するのをやめたところで、当事者はこの世から消えてなくなるわけではありません。
このことは、ちょっと考えれば当たり前にわかることだと思うんですが、なぜかこれが前提とされないままに当事者バッシングが盛り上がる…ということがよくあるように感じます。

今年の2月18日に日曜朝の『ワイドナショー』という情報番組内で、ダウンタウン松本人志さんの発言が話題になりました。

分からんように(ネットカフェの部屋を)ちょっとずつ狭くしたったらどう?
路上から始まるほうが俺はチャレンジしてる感じがする。路上なら頑張るんじゃないかな。

また、ネットカフェではないですが、都内の路上では時々ホームレスの方のダンボールハウスの撤去を求める張り紙が張られ、実際に行政によって撤去されるということがあります。

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当事者に対するこういった対応に関して、私が世間の多くの方に知っていただきたいことは二つあります。
一つ目は、「路上からのチャレンジ」と言っても、そもそも「路上が“抱えられる”路上生活者の数には限りがある」ということです。
路上生活と聞けば、どこでも寝られるように思う方もいるかもしれませんが、実際には路上生活ができる場所は限られています。私有地は勿論、普通の住宅の軒先などで寝ていたら通報されますし、雨などにさらされるとダンボールハウスはすぐに傷んでしまうためビルなどの屋根や大きな道路の高架下、公園の木の下や植え込みの中など、ある程度雨露をしのげる所でなければなりません。また、賞味期限のきれた食品をそれなりに食べられる状態で捨ててくれるコンビニや飲食店、支援団体の炊き出しにアクセスできる場所でなければ食べていくことは難しいです。
こういった条件を満たしている場所は、大都会東京といえども限定されてきます。
あまり知られていないことですが、日本の場合、どんなに大きな都市でも路上生活者の数は5000人代で頭打ちになります。(各都市の路上生活者は厚生労働省のHPから確認可能)

それ以上になると、物理的に寝られる場所がないということです。

厚労省の調査では昨年の都内23区の路上生活者は1246人ですが、これは昼間に実施される行政職員による目視調査の数字なので、日中に空き缶拾いなどの仕事をしている人や図書館などで休んでいる人はカウントされていません。そのため、多くの支援団体は夜間の調査を行いより実態に即した数字を公表すべきだと主張しています。

例えば、「ARCH(Advocacy and Research Centre for Homelessness)」という団体が行っている「東京ストリートカウント」という、有志で深夜に都内の路上を歩いて目視でカウントするという取り組みの結果、該当地域の路上生活者数は政府公表の2.6倍だったという報告があります。

こうした数字から都内の路上生活者の数を推計すると3000人は超える計算になります。
松本人志さんの「対策」を実施するとネットカフェ難民4000人が都内の路上に出てくるわけですから、都内の路上のキャパを考えると、全員が「路上からのチャレンジ」をできるかはとても怪しい。
「路上生活すらできない人たち」が一定数出るはずです。

厚労省のカウントが実態より少ないのであれば、「頭打ち」の上限も5000人以上なのでは?と、鋭い人は思われるでしょうが、「行政による路上で寝られない工夫(公園の椅子に肘掛けを設ける等)」は東京都で5000人台を記録した平成15年よりかなり“進んで”いるので、やはりキャパの限界は5000人台だと考えていいと思います)

行政によるダンボールハウスの撤去についても、同じことが起きています。
私は毎月、夜の都内を歩いて路上生活の方に食料をお渡しする「夜回り」を行っていますが、その際、別の地域を回っていた時にお会いした方と、また別の場所で再会することがよくあります。話を聞くと、

以前寝ていたA区の高架下は行政の規制が厳しくなって寝られなくなったので、こちらに移ってきました。

「ネットカフェで寝られなくしよう」「自分たちの区のダンボールハウスは撤去しよう」という対応をしたところで、当事者は別の場所に移るだけ(場合によっては移ることすらできない)です。根本的な解決には全く繋がりません。

2つ目は、松本人志さんの発言に端的に表れているように、少なくない人が「路上に出れば頑張るようになる」と考えているようですが、残念ながら、そんなことはありません…ということです。

「路上に出れば」もしくは「路上ですら寝られない状況をつくれば」働くようになる…という仮説が正しいのであれば、上記の「A区の高架下で寝ていたおじさん」は働くようになっていないと説明がつきません。
ところが、実際なかなかそうはならない。

その理由は、今の日本では路上生活から職を得るのは極めて困難…など、まずもって構造的な要因がとても大きい。(最近ではマイナンバーカードを持っていないと工事現場などでの日雇いの仕事にもありつけなくなってきています)。そして心身の持病や高齢などでそもそも働くどころではないという方がとても多い印象です。なかには「こういう生活が自分には合ってるんだ」と、世捨て人のような人もいます。(私はこういう発言をひとつとって「本人の希望で路上生活しているならよいではないか」という意見には与しません。「本人の希望」という評価は、少なくとも「当事者が路上でない生活を送る自由が実質的に確保されているにも関わらず、路上での生活を希望している」と判断できる状態でなければ成立しえません)
いずれにせよ、構造的・個人的な様々な理由が複雑に関係することで、「路上にでれば頑張って働くようになる」ということはあまり期待できない…というのが現場のリアリティかと思います。

支援に際して条件づけを行わない理由③
“怠け者”であれ“素行不良な者”であれ、支援の対象から外さない(=関わりを絶たない)という立場をとる3つ目の理由は、

「そういう人こそ、今の社会の規範を見つめ、制度の在り方などを再構築するためのきっかけやヒントをくれる貴重な存在だから」です。

自分の価値観からは考えられない言動をする人に驚くたびに、「自分のなかにある常識」をゆさぶられる感覚があります。
面談などの約束の時間をすっぽかされたり遅刻された際には、
「『分刻みで約束を守る』という今の日本の“常識”」を意識させられますし、

予期せず仕事が入り、1日で8000円稼いだのにその日のうちに飲み代に使ってしまった人から「宵越しの金は持たない主義なんですよ」と言われた際には、
「『貯金を前提にやりくりする』という発想ではないやり方で人生を楽しんでいる人もいる」といったことも考えさせられる。

いやいやいや、守らなきゃいけないルールもあるでしょう…という側面もあるでしょうが、少なくとも、「今あるルールや常識を常に疑い、より多様な人が生きやすいルールづくりについて考えるための余地」を残しておくことはとても重要なのではないか。そして、現状のルールや制度は数的・権力的マジョリティ―によってつくられているわけですから、そういった枠組みから外れる人に対して“怠け者”や“素行不良な者”というレッテルを張って排除してしまったら、社会が変革する「余白」もまた失ってしまうのではないでしょうか。

それは、あまりに勿体ない。

また、関われば関わるほど、私の場合、“素行不良”と一般的には言われるであろう当事者の方に、人間の多様さ、面白さを感じるようになりました。

ずるさ、弱さ、したたかさ、頑固さ、懐の深さ…など人間の多様な性格が一人の人のなかにも多面的に見出すことができる。

様々な不正を働いては関係者を困らせているような人が、ある時は盗難にあった路上の仲間を心配してご飯をおごっている。
数年前まで誰も信用せず、理由もなく他の路上生活の方をぼこぼこに殴っていた人が、今では殴った相手と座って談笑している。

そういう、一枚岩でない歪さや矛盾のなかにこそ、何とも言えない人間の“面白さ”のようなものを感じ、(個人的な好き嫌いは別として)「死んでもらっては困る」と思うわけです。

「そうは言っても、やっぱりちゃんと働いている人たちがやる気のない人を支える形になるのはおかしい」と思う方もいるでしょう。

そういう方には、是非一度、“やる気がない人がやる気のある人に支えられているのをみる気分の悪さ”と“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”を天秤にかけてみてもらえればと思います。
そのうえで、改めて前者のほうが「気分が悪い」と感じるのであれば、それも一つの立場かと思います。
ただ、その場合、“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”というコストは現場の人間が直接的に負うことになるわけですから、その点において、私は引き続き異議を唱えさせていただきます。

以上、永井が考える、“怠け者”や“素行不良な者”でも支援を続ける3つの理由でした。

※今回、広島大学でお話させていただいたことで、私自身、日々の活動を振り返るよい契機になりました。また、学生の方からも様々なコメントをいただき改めて勉強させていただきました。こうした機会をくださった広大関係者、学生の皆さんにこの場をかりてお礼申し上げます。