シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

日本のホームレス支援が、絶望的に“遅れてる”と思う本当のワケ

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お久しぶりです。
先日、昨年に続き、広島大学でホームレス支援の活動をお話してきました。
昨年は「一見“怠け者”に見えたりトンデモない言動をする当事者」であっても支援をするのをやめない、支援にあたってその対象とするか否かの「条件づけ」をしないのは何故か、
―すなわち現行の生活保護法が採用する無差平等の原理を明文化せずとも採用しているのは何故か―についてお話しました。

そして今年は、私がホームレス問題に取り組む一番の問題意識についても、少し話させてもらいました。
それは、「ホームレスの人が現在の制度に合わないといって路上生活を続けるのは、ルールを無視している、わがままなのではないか」という批判に応答するものです。
実は私は、このあたりにホームレス問題が語られる際に見落とされがちな重要な論点があると考えています。

“制度に合わない”は、社会のルールを軽視している?


このブログでも再三紹介しているように、日本は憲法25条にもとづいてすべての国民の最低生活を保障すべく、生活保護をはじめとした様々な社会保障制度を運用していることは周知のとおりです。
しかしながら、東京では、「居宅保護の原則が守られていない」、「自立支援センターに入所できても、期限内に仕事を見つけなくてはアパートに移るための支援がなされない」…といった様々な「課題」から、現行制度を利用することを躊躇し、路上にとどまる人が少なくない現状があります。

こうした現状を前に、多くの活動家などが制度の改善を訴える議論を蓄積してきているわけですが、時折、そうした立場に対して次のような批判が向けられることがあります。

それは、「現行の生活保護法やホームレス自立支援法は、国会を通じて制定されてきていることを踏まえれば、これらの法とそれに規定される諸制度は国民の合意に基づくものであり、社会の構成員には相互にこれを尊重し履行する義務と責任がある。そうであれば、『無料低額宿泊所は嫌だから(路上の占有という本来認められないはずの)路上での生活を続ける』というのは、そうした責任を放棄した無責任な行為ではないのか」というものです。

現状の制度運用に関していえば、そもそも(居宅保護の原則に反するなど)違法性が指摘されているのであり、「決められたルール通りに運用されている」という前提そのものが成り立っていません。
一方で、自立支援センターの在り方を規定する「ホームレス自立支援法」が成立して15年以上が経過していること、その間、3度にわたって基本方針の見直しがされていることを鑑みれば、「現状のホームレス自立支援法および制度運用は、民主的な手続きを踏んできた、一定のコンセンサスのとられたものである」という評価もありうるわけで、それを根拠にこの“民主的な手続きが踏まれた”法の尊重を説く立場からの指摘は、一度正面から検証する価値があるように思います。

“誰”の合意にもとづいているのか


しかしながら、「ホームレスもルールを尊守せよ」と批判する立場からは、そもそも「民主的な手続きによる法の履行」を該当社会の構成員に(責任として)課すことが正当性をもちうる条件についてはあまり語られません。
より具体的に言えば、わたしたちがホームレス状態の人に対して「あなたがたにもルールに従う責任があるのだから、路上を占有するのはやめて自立支援センターか生活保護を利用しなさい」と要求できるための条件は何か、ということについて、あまり議論されていないということです。

「ルールが改訂されるまでは、さしあたり決められたルールに従う」という、一見当たり前に思える要求も、これが正当性をもちうるためには条件があります。
それは、「ルールの履行を要求される人すべてが、そのルールづくりに参加する機会を等しく得ていること」でしょう。

民主主義というパースぺクティブでは、正義は、それを課された人々の頭ごなしに決定され外部から押し付けられた要求ではない。むしろ正義は、その名宛人が正当に自分自身をその起草者としても見なすことができる限りにおいてのみ、拘束力をもつのである。(ナンシー・フレイザー2012)

自身を規定(規制)しうるルールに関する民主的な議論に参加できていないのに、そのルールに従わなければならないというのは、端的に言って、意味不明です。
それでは、ホームレス状態の方は社会保障制度をはじめとする“ルールづくり”に参加できているか。
言うまでもなく、否(いな)です。

ホームレス状態の方の多くは住民票をもたないため、まずもって選挙の投票ができません。
2017年に厚生労働省が公表した「『ホームレス』の実態に関する全国調査」によれば、この年の全国のホームレス5534人のうち、路上生活の期間が「10年以上」とこたえた人は34.6%、「5年以上10年未満」が20.5%とされています。
この間、ホームレス状態の人が直接かかわる制度に関してどのような動きがあったでしょうか。

まず、すでに言及してきた「ホームレス」と冠した代表的な法である「ホームレス自立支援法」(※正式名称は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」)は、2003年7月に施策が開始されて以降、2008年、2013年、2018年と、5年ごとに基本方針が策定されてきています。
そしてこの間、関係者からは常に指摘されてきた同法の課題―「ワークファースト型」―そのものは見直されることなく今日に至っています。

また、ホームレスはもちろん、貧困是正策の土台ともいえる生活保護法も、2013年に(1950年の生活保護法成立以来、法自体の改正としては初めて)扶養義務の強化などを盛り込むかたちで改正され、2018年にも施設での保護をすすめかねない内容での法改正が行われています。この間、生活保護費が段階的に引き下げられてきた(またそうした議論がすすめられている)ことも周知のとおりです。

こうした、ホームレス状態の人をとりまく法制度の改定内容やその帰結への評価について今は論じません。
ここで重要なことは、こうした当事者の生活を直接規定するような法の改定に関する議論に、当事者が―上述した数字から推計すると、少なく見積もっても2012年から2017年の5年間で2700人(全国の過半数)以上の路上生活者が―参加できていないという事実です。
これでは、「現行制度は(ホームレスの人を含む)社会の構成員の合意に基づいて制定・運営されている」と評価することは到底できず、さきの「ホームレスの人もルールに従うべきである」とする正当性を担保できません。

他の分野では“当事者”の声を聞くことは当たり前のように行われている


実は、この「ルールづくりにおいて当事者の声をきく」という、ともすれば“当たり前”な理念については、2011年8月に障害者基本法が改正され内閣府に「障害者政策委員会」が設置された際、法律として明記されています。

政策委員会の委員は、障害者、障害者の自立及び社会参加に関する事業に従事する者並びに学識経験のある者のうちから、内閣総理大臣が任命する。この場合において、委員の構成については、政策委員会が様々な障害者の意見を聴き障害者の実情を踏まえた協議を行うことができることとなるよう、配慮されなければならない。(障害者基本法 第33条)

さらに、中央障害者施策推進協議会の第一回会議における、小泉首相(当時)の冒頭の挨拶でも“当事者の声”を施策に反映させる意義について直接言及されています。

「……これから障害者の皆さんに頑張って社会参加していただく。それが一般的な当然のことになってまいりましたけれども、まだまだ理解の足りない面もあると思います。そういうことを考えますと、障害者の立場に立った皆さんの考え方、あるいは支えているご家族の皆さんのご意見というものもよく聞いて、今後の障害者の施策に反映していくことが重要だと思います。こうして皆さんに委員をお引き受けいただいたわけでありますので、この協議会を有効に活用していただきまして、今後の日本の障害者施策の充実に当てていきたいと思っておりますので、よろしくご協力、ご鞭撻いただければありがたいと思います。今日はお忙しいところをおいでいただきまして、本当にありがとうございました。」


翻って、生活保護制度に関連する審議会に関しては、日本医師会、日本社会福祉会など福祉に関わる専門職の職能組織や、〈もやい〉などの支援団体が委員に選出されることはあっても〈生活と健康を守る会〉のような当事者団体からは選出されていないことが指摘されています。(大倉2014)

「貧困当事者がルールづくりに参加できない」ことが意味すること

―民主主義の失敗と“みせかけの自律”

このように、現状、ホームレス・貧困当事者の“ルールづくりへの参加”は、審議会への参加といった(比較的)直接的なものはおろか、ホームレス状態の人にいたっては、最も基本的な参加の手段である投票権すら行使できない状況にあります。

これは、ホームレス当事者に「社会のルールに従うべきである」と要求する社会側の正当性を担保できない、―よりラディカルに言えば、社会の構成員が相互に尊重し履行すべきものとして法を評価できない・無効化してしまう―民主主義の根幹を揺るがす問題であることを意味します。

さらに、現場でホームレス支援を行っている私自身の“営み”に目を向けるとき、以前書いた「ソーシャルワークの『違和感』」が一層先鋭化します。

すなわち、支援者がホームレス当事者に向き合う際、「良い生活」について支援者側が一方的に定義し、これを押し付けることは暴力的なパターナリズムであるとして避けられ、「当事者の意思決定」や「自律」が重視されるわけですが、「ルールづくり」に参加できていない個人は、他者によってきめられたルールの範囲内でしか「意思決定」をすることはできません。

例えば、以前書いた「『貧困支援はおせっかい?』-パターナリズムを考える」では、「路上生活をしている人に生活保護に関する知識・制度の説明をしたうえで、路上生活を続けるか生活保護の申請をするかの判断を委ねる」というケースを検討しました。

ここで、最終的な意思決定を当事者に委ねている点で、当事者の「自律」を尊重しているようにも思えますが、生活保護のルールづくりに参加できていない当事者―生活保護のルールを変えるための機会を全くもたない個人―にとって、そこでの選択は「他人が作ったルールによって提示された限られた選択肢」のなかから選んでいるにすぎません。
また、そうした限られた選択肢のなかから選ばなければ生きることができない個人にとって、そこで行われる「選択」はもはや「強制」でしょう。

私も含め、ホームレス支援を行う団体や活動家の多くは、「いかに当事者の選択の自由を保障できるか」という視点から、実に様々な取り組み―炊き出し、シェルターの提供から、居場所づくり・文化活動といった“楽しみの保障”に至るまで―を行っていますが、その過程で当事者がどれだけ人間としての尊厳を見出し、楽しく振舞おうとも、彼らがルールづくりから排除されている以上、そこで選択されるあらゆる行為は真に自律的な行為にはなりえないということになります。

ある文化の規則に同意すること、もしくは、文化の規則を変更することにおいて、疑問を呈する機会や参加する機会が存在するところでは、行為者は政治的に抑圧されている人々にはない選択肢によって、大いに自律を高めることができるであろう。そういう状況においては、それまで、彼らの特定の社会環境のうちに既にあった規則を解釈することを通じて選択するという意味においてのみ彼らの選択であるといわれるような行為が、(普通の意味で)選択された、はるかに深い意味で彼ら自身のものである行為となる。自律であったものが「批判的自律」となるのである。(ドイヨル&ゴフ2014:86)

ホームレスに“政治”はできない?―“忘れられてきた一票”

ここまでの話で、「そうはいっても、やはり人間にとってまず必要なのは生きるために必要な資源であり、当事者たちのニーズに政治参加などはない」という声が聞こえてきそうです。

まず、個々人の主観的なニーズにないものを保障する必要はない、という立場を私はとりません。社会的に保障すべき材やサービスの選定を、「本人が望んでいるか否か」というモノサシでのみ行うのであれば、例えば義務教育の保障などは理解不能です。
以前にも論じたように「本人が望んでいるかどうかに関わらずその機会を保障する」という構えはパターナリズムとの緊張関係を念頭においたうえでも正当化されうるものです。

そのうえで、あえて「ホームレスの人の政治参加へのニーズ」について確認したいのであれば、2010年の参院選に合わせて「ホームレス法的支援者交流会」が企画し全国の支援団体などに呼びかけて実施された「ホームレス生活者世論調査~忘れるな!この1票~」が参考になります。
ホームレス生活者世論調査 〜忘れるな!この1票〜 調査結果 - 夜まわり三鷹 活動日記

この調査では、路上生活などで選挙権が行使できない全国481名を抽出し、聞き取り調査を実施しており、その結果、「本当であれば,選挙に行きたい」と答えた人が268名(55.7%)、「以前,選挙権が行使できる状態だったときには,選挙に行ったことがある」と答えた人は367名(76.3%)にのぼり、ホームレス状態の人にも選挙権を行使したいというニーズが確認されたことが報告されています。
(ちなみに、上記の55.7%という数字は、この年の参議院選挙の投票率全国平均の57・92%と、ほとんど変わらない数字であることも指摘されています)
支援団体のこうした取り組みにも関わらず、依然としてホームレス当事者の“ルールづくりへの参加”はすすんでいません。
他分野では法律にまで明記された“当事者の声を聴く”という理念が、ホームレス・貧困問題になると全く実践されていないわけです。これは、なぜなのか。

現段階では憶測の域を超えませんが、社会が、場合によっては支援者すら、無意識のうちに「ホームレスの人は主体的な市民としてルールづくりに参加する能力を有していない/発揮できない」「ホームレスの人の“選択の自由”は一定程度制限されても致し方ない」といった認識をしてしまっているからではないでしょうか。

他方、海外に目を向けると、既に20年も前に、イギリスでCoPPP(Commission on Poverty, Participation and Power)という取り組みが実践されています。
これは、「自身の生に影響を与える政策決定に当事者の声を反映させる」こと、及びその手法の開発を目指したもので、貧困当事者と専門家が共に専門性を発揮することで貧困にある人々が直面する困難について特定し、その改善策を考案しようという試みです。
興味深いのは、Commissionの構成員がGlassroots(直接的な貧困経験者)とPublic life(専門家、学識者、活動家)と名付けられたグループが50/50になるように選出され、両者が協力してレポートを作成していることです。
こうした取り組みによって、貧困当事者が意見を言う自信、代表者であるという感覚を得たり、議論を重ねることで専門家に対する不信感が理解へと変わっていく様子が、コミッションのポジティブな側面として報告されています。

「この取り組みはとても良かったです。学術的すぎず、〝単なる巷のうわさ″でもない。合意形成のために表現が弱められたということもない。ほとんどの委員は皆の意見が包含されていると感じたはずです。」by glass roots(Sarah del Tufo and Lucy Gaster2002,永井訳)

このような当事者の声を含め、コミッションのレポートでは、改めて、政策の決定過程に当事者の声を反映させることの意義と展望について強調されています。

(前略)私たちは、貧困のなかで生きている人々は問題を抱えただけの人々であり、解決にむけて創造的に取り組むことができないという思いこみを変えるべきだ。(中略)もし、貧困を経験している人々がしっかりと意思決定や政治的プロセスにくみこまれたならば、私たちは新しい知識の形態と、これまでとは異なる種類の民主主義を作り出せると信じている。
(Coppp2000,永井訳)

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日本のホームレス支援においては、こうした取り組みは管見のところ見当たりません。実際、衣食住の保障といった、生存に関わる資源の確保がまず優先されるということには対外的にそれなりの説得力がありますし、ただちに批判されることではないかもしれない。

ただ、選挙期間中にたびたび耳にする当事者による“路上の議論”を聞くとき、10年ぶりにアパート入居を実現し、「投票に行けるようになって行かなかったことはないですよ」と胸を張るおじさんの笑顔を見るとき、この人たちが民主的な議論に参加できるように応援することこそ、(市民権の回復という意味でも)“ホームレス支援”の本質であり、喫緊の課題ではないかと思うのです。
このあたり、そろそろ個人的にちょっと本腰入れて取り組んでいきたいと思っています。

―――引用―――
・N.フレイザー、A.ホネット(2012)加藤泰史監訳『再配分か承認か?』法政大学出版局
・大倉沙江(2014)「生活保護制度の政策過程における福祉団体の行動様式:2000年代の生活保護改革を事例として」Proceedings of the 18th Conference of the Japanese Studies Association of Australia peer-reviewed full papers 1-17
・Doyal and Gough(1991)A Theory of Human Need: Macmillan Press
(=2014,馬嶋裕・山森亮監訳、遠藤環他訳『必要の理論』勁草書房
・Commission on Poverty, Participation and Power(2000)Listen Hear: The right to be heard, Bristol : Policy Press
・「ホームレス生活者世論調査~忘れるな!この1票~」