シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

マンガ『健康で文化的な最低限度の生活』を読んで考える。ー「ソーシャルワーカーに向いている」とは?

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今年7月よりカンテレ・フジテレビ系列で火曜よる9時から放送されている連続テレビドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』。

既に第五話まで放送されていますが、原作から読んでいた“いちファン”としても「なかなか描きにくい部分までうまく再現されているな~」という感想をもっています。

そもそも、生活保護を正面から扱ったマンガがドラマ化されゴールデンタイムに放送されるということ自体が貧困や生活保護に対する社会的な“関心”のありようとしてとても興味深いです。
何よりこの作品が生活保護利用当事者をバッシングするわけでも、社会の被害者として同情を誘うわけでもなく、冷静な視点から当事者や彼らをとりまく人々の様々な葛藤を描いている」という点で、貧困を扱ったこれまでのメディアコンテンツとは一線を画しているように思います。

より具体的に言えば、「借金」「不正受給」「アルコール依存」…など、これまで散々生活保護利用者へのバッシングとして利用されてきた題材を避けることなく、それぞれの当事者の“失敗”と“困りごと”の双方に光を当てることで、「貧困は自己責任だ」VS「貧困当事者は社会の不作為による被害者だ」という二項対立的な“不毛な論争”に陥ることなく建設的な論点を提供してくれていると感じます。

加えて、ちょうど今放送中の「扶養照会」編では、「家族は支え合うべき」というマジョリティの社会規範がすべての人に合うわけでもないということ、またそうした画一的な価値観で制度運用を行うのがいかに危険なことであるかという点が浮彫にされます。

このように、当事者と社会構造の関係を冷静に描きつつ現行制度の在り方を改めて見直すきっかけをくれる本作は、ドラマはもちろん、原作もとてもリアリティがあって勉強になるので是非多くの方に読んでいただきたいと思います。

さて、ドラマ化をきっかけに改めて原作の漫画を読み返してみると、主人公の義経えみるのキャラクターがドラマ版とは少し違っていて、そこに「『ソーシャルワーカーに向いている』とはどういうことか」について改めて考えさせられるきっかけになりました
今日はそんな視点からだらだらと書いてみます。


原作の義経えみるは「空気がよめない」「人の話を聞くのが苦手」?

吉岡里帆さん演じるドラマ版の義経えみるが生活保護利用当事者を相手に奮闘し、時に知識の不十分さや気持ちが入りすぎることで空回りする様子は、「新社会人の初々しさ」の一面として描かれているきらいがあるように思います。
これはこれでドラマの主人公としてのキャラクターが際立っていて作品としては全然ありだと思うのですが、原作のえみるは「新人の初々しさ」なんて爽やかな評価をするには“もったいない”ぐらいの「ポンコツ感」があり、そこにえみる自身が悩み葛藤するところに「相談業務に向いている、とは?」という、ソーシャルワークの永遠の問いが立ち現われてくる面白さがあると感じました。

昔からよく言われてた。
「えみるちゃんって天然だよね。」
「マイペースっつーの?えみるみたいの。」
義経さんってボンクラだよね。いい意味で…」
この「いい意味で」を言葉通りに受け取り、
嫌味を言われてもそれと気付かない勘のニブさでむしろ健やかに育ってきた。
けど…徐々に成長して………大人と呼べる年齢になって…
ようやく薄々感付いてきた。
自分は…空気が読めない…
人の話を全然聞いてない…
どこかネジが一本抜けた人間だと…

えみるの自己評価はとにかく「空気がよめず、人の“顔色”というものが分からず、話を聞くのが苦手」というもの。

これ、当事者支援にあたる人間としてはかなりマズイと思いませんか?

これは私自身が相談業務にあたるなかで痛感したことなのですが、生活に困窮されている方のなかにはご自身の状況や感情を言葉にするのが苦手な方も多く、お話をするなかで表情や声のトーンから様々な情報をこちらが「読み取って」いかないと、なかなか相手の主訴やニーズを把握できないということがあるように思います。
また、例えば「(当事者に)働きたいという強い思いがある」ということを分かっていても、「今日の段階で就労支援の話に踏み込むのは精神的な負担が大きいだろうな」とか、その時の相手の体調や気持ちの余裕の有無などを見極めながら相談に乗るというのは結構大切だと感じます。

原作のえみるはそういったことが極めて苦手。その結果、精神疾患をお持ちの当事者からの暴言にいちいち傷ついたり半ば強引に債務整理を進めようとして相手との関係が悪くなったり…と、自分も周りも苦しめてしまいます。


「人の話を聞くのが苦手」という、“強み”


案の定、当事者を振り回し、また振り回されもするえみるは、「生活保護ケースワーカーという仕事に自分が向いていないのでは」と悩みます。

「人の話を聞く」…なんてことが、こんな難しいなんて……
考えたこともなかったよ……

一期一会という言葉が苦手だ。
一回の出会いで人とコミュニケーションとれる気がしない。
よく、「一回会えばそいつがどーいう奴かだいたいわかるじゃん!」
という人がいるけど、
自分にはその能力がない。
相手のことがわからない。
わからない相手に対して、どういう態度で接するのが正解なのかわからない。
今の仕事に就いて、そんな自分を、つくづく思い知らされた…

上述したように、人の話を聞くこと、相手の表情を読むことは相談業務においては非常に重要なスキルだとよく言われますし、実際にそうだと思います。
一方で、こうしたえみるの葛藤から、
「自分は人の気持ちが分かる」と自信をもつことや、「表情を読むスキル」などを対人援助の“専門性”として位置付けることのこわさも感じます。

当たり前のことですが、世の中には一人として同じ人はいません。10人いれば10通りの社会背景や感情や価値観がある。「『こういう人』にはこういう対応をする」といったパターン化をするということは、現場の経験を蓄積し活かしていくという意味で重要なことだと思いますが、そういったアプローチが通用しない方というのも絶対にいるはずです。どんなに経験を積んだ「話を聞くのがうまい人」であれ、「この人はこういう人だ」という主観的な解釈がどこまで妥当性をもつかというのも極めて疑問です。

何より、「相手のことを理解した/分かった」と安易に考えることは、人の多様性、その人の独自性、唯一無二さといった個性にきちんと向き合わない、とても失礼な行為ではないでしょうか。

時々、「苦労した経験のない人間は当事者の気持ちが本当の意味では分からない。そういう人間が支援をするということ自体に矛盾がある」という人がいますが、「苦労した経験」と一口に言っても、ある人と全く同じ経験をした人はこの世に一人として存在しない。

どれほど似たような経験をしていたとしても「あの人の気持ちが自分には分かる」と安易に口にてしまう人は、同じような経験に対して個人の感じ方には差異があるという事実に対する想像力が乏しいと思ってしまいます。

わたしたちは、誰も、第三者の経験を経験することはできないし、代弁もできない。
これは紛れもない事実だと思うのですが、絶望ではないと思っています。


「人の気持ちが分からない、どういう人か分からない」からこそ、分かろうと努力する。

自分には様々な偏見やバイアスがあると自覚しているからこそ、安易に「こういう人」と決めつけず、きちんと話を聞こうとする。


対人援助業務のイロハの“イ”は、「話が聞ける」ことではなく、
「話を聞き相手のことを理解するという行為は、元来とても難しいことだと知る」ことではないでしょうか。

原作のえみるは、そんな“難しさ”を強く認識している。自分の対応が誤りうるということを知っている。だからこそ、“間違った”と感じた時に当事者に対してきちんと謝罪し反省することができます。

島岡さん。
私が…島岡さんの言葉を…
島岡さんの状況を、
きちんと聞くことができなかったこと…
本当に申し訳なく思っています。
本当に…すみませんでした。


さて、ケースワーカーの仕事が向いていないと悩みながらも様々な背景をもつ当事者と日々“格闘”するなかで、えみるは相談業務の大変さを「人とかかわる」面白さとして認識し始めるようになります。

最近、この仕事をおもしろいと思い始めている自分がいる。
人とかかわるということ…
人の人生にかかわるということ…
多分私は、
人とかかわることがそんな嫌いじゃない―――
もっともっと人が知りたい…
人を知って、いろんな人生とかかわって、
そしてもっともっと自分にできることを究めたい……


相談業務をソーシャルワークの“専門的な”手法としてパターン化・体系化するだけでは見失ってしまいかねない、「人とかかわる面白さ」。
これを知ったえみるが、今後現場で何を感じ、どのように“成長”していくのか。ドラマも原作もこれからの展開が楽しみでなりません。

私自身も、人のことを安易に「理解できた」と過信しないよう自戒をこめつつ、
「理解しよう」とかかわり続ける面白さを、これからも追いかけたいと思います。