シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

広島大学で講義をさせてもらいました。-“怠け者”や“素行不良な者”でも支援する理由とは?

お久しぶりです!
先日、母校の広島大学でホームレス支援の活動についてお話をする機会をいただきました。「貧困支援のプロのやりがいと悩み」という、たいそうな題目をまえに僭越ながら…(笑)

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今回は基本的にはどんな話をしてくれても構わないということだったのですが、講義の全体としては福祉国家の多くが理念として掲げているいわゆる(支援における)「無差別平等の原理」が、(場合によっては多くの市民感情を“逆なで”するにも関わらず)なぜ採用されているか…というあたりを掘り下げる内容とのことだったので、私もここに重点をおこうと決めました。
というのも、私自身、この「一見、“怠け者”に見えたりトンデモない言動をする当事者」に対峙する時こそ、現場で活動するうえでのある種の“おもしろさ”を感じているからです。

少し話がそれますが、ホームレスの方や生活困窮者に対する「お金をギャンブルやお酒に使い込んでしまったり、仕事があるのに働きもしない怠け者だっている。そういう人たちを税金で支援するなんてけしからん!」というバッシングはよく目にしますよね。
これに対して支援関係者や研究者は、「そういう人はごくごく少数」「実態としては働かないんじゃなくて働けないんだ」などとカウンターを入れるんですが、私個人としてはこうした“擁護”が時に不自然に感じることがあり、正直こういう応答の仕方に「飽き飽き」しています。
というのも、ギャンブルやお酒で一文無しになって泣付かれることはそんなに珍しいことでもないですし、無差別平等の原理を徹底することを念頭におくならば、むしろそういう「トンデモない言動をする人」の存在を認め、かつ「まあ、一般的にはトンデモないと評価されるような人だって、生きていていいじゃないですか」と開き直るほうが、よっぽど無差別平等の理念と整合的だと思うからです。
「働かないんじゃなくて働けないんだ!」と強調すればするほど、「働かない人」バッシングにある意味では加担してしまうことになるように思います。

そこで今日は、貧困支援関係者の多くが、なぜ「トンデモない言動をする人」であれ、支援の枠組みから排除しないのかということについて広大での講義内容をもとに私の考えを書いてみようと思います。

そもそも、「無差別平等の原理」とは?

今でこそ最低生活に満たない生活をしている方であれば、その困窮の理由に関わらず生活保護による保障の対象となりますが、1946年に制定された(旧)生活保護法には第二条に「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という欠格条項がありました。

第二条 次の各号の一に該当する者は、この法律による保護は、これをなさない。
一 能力があるにもかかはらず、勤労の意思のない者、勤労を怠る者その他生計の維持に努めない者
二 素行不良な者

また、この法律を制定するにあたり、当時の厚生省とGHQの間で「素行不良な者」の解釈をめぐって議論になり、「『飲む、打つ、買う』のような者」という意見が出たそうです。(副田義也1995『生活保護制度の社会史』:21)

つまり、「怠け者」や「トンデモない言動をする人」を保護の対象から外そうという議論は生活保護法の制定をめぐる公的な議論においてすでになされていたというわけです。

しかし、1950年に施行された現行の生活保護法では、この欠格条項はなくなっており、第二条にはかわりに「この法律の定める要件を満たす限り」保護をうけることができる、という「無差別平等」の理念が明記されるようになりました。
(※厳密に言うと(旧)生活保護法にも第一条で無差別平等に関わる文言を確認できるのですが、現行制度の無差別平等とは質的に大きく異なっています)

(無差別平等)
第二条 すべて国民は、この法律を定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を無差別平等に受けることができる。

この、「要件を満たす限り」というのは、「現在、本人の資産や他の社会保障制度(年金など)を活用してもなお生活に困窮しているのであれば、勤労の意欲のない者であれ素行不良な者であれ保護する」ということです。

これはちょっと不思議な感じというか、納得できない人も多いのではないでしょうか?
(旧)生活保護法のほうがいいのではないかと感じる人も多いと思います。

では、なぜ現行の生活保護法は、そして当事者支援を行う団体や関係者の多くは、支援にあたってその対象とするか否かの「条件づけ」をしない(明文化しているかどうかは別として事実上、無差別平等の原理を採用している)のでしょう。
今日はその理由として、以下の3つの視点から考えてみたいと思います。

支援に際して条件づけを行わない理由①
理由の1つ目は、「“怠け者”や“素行不良な者”」の定義と運用に関するものです。
例えば、飲酒を考えてみましょう。「社会保障制度による給付金を初日に全額飲み代に使ってしまった…」など、極端な例であれば、「それは飲みすぎだ!けしからん!」と多くの人は思うでしょうが、「月に一度、缶ビールを飲んでしまった」という場合はどうでしょう?
「困窮してるのにお酒なんかにお金を使うべきではない!」という人もいれば、「まあ、誰だってたまの1杯くらい息抜きにあってもいいかも」という人もいるのではないでしょうか。

ギャンブルにしたって、月に1回1000円程度(社会保障の給付金で)パチンコに行く人を“素行不良”と評価する人もいればそうでない人もいる。また、その1000円が映画鑑賞などであれば問題に感じる人はぐっと減るかもしれない。そうなってくると、なぜ映画鑑賞はよくてパチンコはダメなのか?

…と、「素行不良な者は支援しない」という条件をつくろうとすると、即座に「“素行不良な言動”を誰が、どういった価値観から、どうやって定義づけするのか」という、極めて難しい問題に直面します。

お酒やギャンブルなど、数値化がありえるものはまだ「社会保障の給付金での飲酒はひと月1000円まで」などと設定することは、技術的には可能かもしれない。
しかし、「労働意欲があるか否か」など、“本人の気持ち”に関わる極めて質的なものを、誰もが納得できる妥当性のある形で定義することなどできるでしょうか?

「厳密な定義やルールづくりなど必要ない。対応する人間がその都度当事者のやる気を判断すればいい」という人もいますが、支援を継続するか否かを判断するというのは、控えめに言っても「相手の生死について決定する」という行為です。そんな重い判断を現場の人間だけに委ね、負わせることは、明らかにフェアじゃない。何より、公的なサービスをきちんとした定義やルールに基づくことなく運用するというのは法治国家として失格でしょう。

支援に際して条件づけを行わない理由②
理由の2つ目は、「関わりを断ったり“排除”したところで状況は何も好転しない」という事実認識にもとづくものです。

「“怠け者”や“素行不良な者”の生活を社会が支える必要はない」として、支援するのをやめたところで、当事者はこの世から消えてなくなるわけではありません。
このことは、ちょっと考えれば当たり前にわかることだと思うんですが、なぜかこれが前提とされないままに当事者バッシングが盛り上がる…ということがよくあるように感じます。

今年の2月18日に日曜朝の『ワイドナショー』という情報番組内で、ダウンタウン松本人志さんの発言が話題になりました。

分からんように(ネットカフェの部屋を)ちょっとずつ狭くしたったらどう?
路上から始まるほうが俺はチャレンジしてる感じがする。路上なら頑張るんじゃないかな。

また、ネットカフェではないですが、都内の路上では時々ホームレスの方のダンボールハウスの撤去を求める張り紙が張られ、実際に行政によって撤去されるということがあります。

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当事者に対するこういった対応に関して、私が世間の多くの方に知っていただきたいことは二つあります。
一つ目は、「路上からのチャレンジ」と言っても、そもそも「路上が“抱えられる”路上生活者の数には限りがある」ということです。
路上生活と聞けば、どこでも寝られるように思う方もいるかもしれませんが、実際には路上生活ができる場所は限られています。私有地は勿論、普通の住宅の軒先などで寝ていたら通報されますし、雨などにさらされるとダンボールハウスはすぐに傷んでしまうためビルなどの屋根や大きな道路の高架下、公園の木の下や植え込みの中など、ある程度雨露をしのげる所でなければなりません。また、賞味期限のきれた食品をそれなりに食べられる状態で捨ててくれるコンビニや飲食店、支援団体の炊き出しにアクセスできる場所でなければ食べていくことは難しいです。
こういった条件を満たしている場所は、大都会東京といえども限定されてきます。
あまり知られていないことですが、日本の場合、どんなに大きな都市でも路上生活者の数は5000人代で頭打ちになります。(各都市の路上生活者は厚生労働省のHPから確認可能)

それ以上になると、物理的に寝られる場所がないということです。

厚労省の調査では昨年の都内23区の路上生活者は1246人ですが、これは昼間に実施される行政職員による目視調査の数字なので、日中に空き缶拾いなどの仕事をしている人や図書館などで休んでいる人はカウントされていません。そのため、多くの支援団体は夜間の調査を行いより実態に即した数字を公表すべきだと主張しています。

例えば、「ARCH(Advocacy and Research Centre for Homelessness)」という団体が行っている「東京ストリートカウント」という、有志で深夜に都内の路上を歩いて目視でカウントするという取り組みの結果、該当地域の路上生活者数は政府公表の2.6倍だったという報告があります。

こうした数字から都内の路上生活者の数を推計すると3000人は超える計算になります。
松本人志さんの「対策」を実施するとネットカフェ難民4000人が都内の路上に出てくるわけですから、都内の路上のキャパを考えると、全員が「路上からのチャレンジ」をできるかはとても怪しい。
「路上生活すらできない人たち」が一定数出るはずです。

厚労省のカウントが実態より少ないのであれば、「頭打ち」の上限も5000人以上なのでは?と、鋭い人は思われるでしょうが、「行政による路上で寝られない工夫(公園の椅子に肘掛けを設ける等)」は東京都で5000人台を記録した平成15年よりかなり“進んで”いるので、やはりキャパの限界は5000人台だと考えていいと思います)

行政によるダンボールハウスの撤去についても、同じことが起きています。
私は毎月、夜の都内を歩いて路上生活の方に食料をお渡しする「夜回り」を行っていますが、その際、別の地域を回っていた時にお会いした方と、また別の場所で再会することがよくあります。話を聞くと、

以前寝ていたA区の高架下は行政の規制が厳しくなって寝られなくなったので、こちらに移ってきました。

「ネットカフェで寝られなくしよう」「自分たちの区のダンボールハウスは撤去しよう」という対応をしたところで、当事者は別の場所に移るだけ(場合によっては移ることすらできない)です。根本的な解決には全く繋がりません。

2つ目は、松本人志さんの発言に端的に表れているように、少なくない人が「路上に出れば頑張るようになる」と考えているようですが、残念ながら、そんなことはありません…ということです。

「路上に出れば」もしくは「路上ですら寝られない状況をつくれば」働くようになる…という仮説が正しいのであれば、上記の「A区の高架下で寝ていたおじさん」は働くようになっていないと説明がつきません。
ところが、実際なかなかそうはならない。

その理由は、今の日本では路上生活から職を得るのは極めて困難…など、まずもって構造的な要因がとても大きい。(最近ではマイナンバーカードを持っていないと工事現場などでの日雇いの仕事にもありつけなくなってきています)。そして心身の持病や高齢などでそもそも働くどころではないという方がとても多い印象です。なかには「こういう生活が自分には合ってるんだ」と、世捨て人のような人もいます。(私はこういう発言をひとつとって「本人の希望で路上生活しているならよいではないか」という意見には与しません。「本人の希望」という評価は、少なくとも「当事者が路上でない生活を送る自由が実質的に確保されているにも関わらず、路上での生活を希望している」と判断できる状態でなければ成立しえません)
いずれにせよ、構造的・個人的な様々な理由が複雑に関係することで、「路上にでれば頑張って働くようになる」ということはあまり期待できない…というのが現場のリアリティかと思います。

支援に際して条件づけを行わない理由③
“怠け者”であれ“素行不良な者”であれ、支援の対象から外さない(=関わりを絶たない)という立場をとる3つ目の理由は、

「そういう人こそ、今の社会の規範を見つめ、制度の在り方などを再構築するためのきっかけやヒントをくれる貴重な存在だから」です。

自分の価値観からは考えられない言動をする人に驚くたびに、「自分のなかにある常識」をゆさぶられる感覚があります。
面談などの約束の時間をすっぽかされたり遅刻された際には、
「『分刻みで約束を守る』という今の日本の“常識”」を意識させられますし、

予期せず仕事が入り、1日で8000円稼いだのにその日のうちに飲み代に使ってしまった人から「宵越しの金は持たない主義なんですよ」と言われた際には、
「『貯金を前提にやりくりする』という発想ではないやり方で人生を楽しんでいる人もいる」といったことも考えさせられる。

いやいやいや、守らなきゃいけないルールもあるでしょう…という側面もあるでしょうが、少なくとも、「今あるルールや常識を常に疑い、より多様な人が生きやすいルールづくりについて考えるための余地」を残しておくことはとても重要なのではないか。そして、現状のルールや制度は数的・権力的マジョリティ―によってつくられているわけですから、そういった枠組みから外れる人に対して“怠け者”や“素行不良な者”というレッテルを張って排除してしまったら、社会が変革する「余白」もまた失ってしまうのではないでしょうか。

それは、あまりに勿体ない。

また、関われば関わるほど、私の場合、“素行不良”と一般的には言われるであろう当事者の方に、人間の多様さ、面白さを感じるようになりました。

ずるさ、弱さ、したたかさ、頑固さ、懐の深さ…など人間の多様な性格が一人の人のなかにも多面的に見出すことができる。

様々な不正を働いては関係者を困らせているような人が、ある時は盗難にあった路上の仲間を心配してご飯をおごっている。
数年前まで誰も信用せず、理由もなく他の路上生活の方をぼこぼこに殴っていた人が、今では殴った相手と座って談笑している。

そういう、一枚岩でない歪さや矛盾のなかにこそ、何とも言えない人間の“面白さ”のようなものを感じ、(個人的な好き嫌いは別として)「死んでもらっては困る」と思うわけです。

「そうは言っても、やっぱりちゃんと働いている人たちがやる気のない人を支える形になるのはおかしい」と思う方もいるでしょう。

そういう方には、是非一度、“やる気がない人がやる気のある人に支えられているのをみる気分の悪さ”と“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”を天秤にかけてみてもらえればと思います。
そのうえで、改めて前者のほうが「気分が悪い」と感じるのであれば、それも一つの立場かと思います。
ただ、その場合、“放置したことで野垂れ死なれる気分の悪さ”というコストは現場の人間が直接的に負うことになるわけですから、その点において、私は引き続き異議を唱えさせていただきます。

以上、永井が考える、“怠け者”や“素行不良な者”でも支援を続ける3つの理由でした。

※今回、広島大学でお話させていただいたことで、私自身、日々の活動を振り返るよい契機になりました。また、学生の方からも様々なコメントをいただき改めて勉強させていただきました。こうした機会をくださった広大関係者、学生の皆さんにこの場をかりてお礼申し上げます。