シャカイを、つくる。(仮)

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「貧困支援はおせっかい?」―パターナリズムを考える

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こんにちは!

僕は現在、ホームレス・生活困窮者支援を仕事として行っているので、あまり直接的に言われることはないですが、学生の頃に「大学で社会保障のありかたを勉強しています」というと、「当事者が何を望んでるか分からないのに、『支援をする』って大きなお世話じゃないの?」と素朴な疑問として聞かれることが度々ありました。

確かに、「何が良い生活か?」というのは個人によって異なるでしょうし、「支援」という看板を掲げて、客観的な状況から「当事者」をカテゴライズして向き合うというのは、「あなたの今の生活は良い状態ではない」という無言のメッセージを相手に与えかねない…という懸念はよく分かります。

実際、「相談にきました」と向こうから足を運んでくださるケースであれば、本人が「困っている」という自己認識をお互いに確認した状態から話が始まることが多いですが、路上にこちからか足を運ぶ「夜回り」などの現場では、「あんたらは路上生活が悪いもんだって決めつけてるだろ?私は今の生活に十分満足してるんだから放っておいてくれ」と怒られることもあります。

「あなたのため」という暴力
ホームレス状態の方のなかには、日々向けられる差別的/同情的なまなざしや経験から、自身の生活を他者から評価されることにうんざりしている方も多くいらっしゃるように感じます。
もちろん、他者からラベリングされる気持ち悪さを感じたことのある方はホームレス状態の方に限らないでしょう。
ただ、支援する者、される者という関係で対峙せざるをえないことの多い貧困支援の現場では、(支援する側の心持がどのようなものであれ)相手にみじめな思いをさせてしまうリスクがあるということを常に認識しておくべきだと思っています。

「これは、あなたのためだから」「そんな生活をしていたら幸せにならないから」と、他人の“幸せ”を自分のモノサシで勝手に決めて、特定の価値観をおしつけるようなアプローチは、相手に対する敬意を著しく欠いているし、批判されてしかるべきでしょう。
こういう態度は、パターナリズム(温情主義)という言葉でその暴力性が学術的にも指摘されてきました。

「価値観のおしつけはよくない」という、価値観のおしつけ?
では、「『価値観のおしつけ』はよくないから、何もしない」という立場は、パターナリズムとしての批判を避けられているのでしょうか?
私が学生の頃「貧困支援や社会福祉を行うべきだとは思わない」という知人と話すときに、その理由として「価値観のおしつけをしたくないから」という人が少なからずいました。

しかし、「価値観のおしつけ」をしたくないから「何もしない」という行為は、「価値観のおしつけをされるのは嫌だろうから、あなたのために何もしない」というかたちで、既に相手にとっての良い生活を(「他者から価値観を押し付けられない生活」として)先取りしてしまっている。

これをもう少し具体的に、支援の現場における「ホームレス状態の方に出会ったとき生活保護をすすめるか否か」というケースで考えてみましょう。

ここで、Aさんは「この人にとって今の生活は良くないから、生活保護を申請してより良い生活を送ってもらうべきだ」と主張したとします。
これに対してBさんは「この人にとって、今の生活が悪いと決めつけるのはパターナリズムだ。こちらの価値観を伝えるべきではない」と主張しました。

一見、Aさんの行為を「価値観のおしつけ」と批判しているBさんはパターナリズムを回避しているようにも思えます。しかし、実際にはBさんは「生活保護での生活について伝えられないまま路上で生活する」という、ある特定の生活を当事者に強いているとも言えます。

はじめ、なんとなくBさんのほうがパターナリズムを回避しているように見えるのは、Aさんが直接的な「価値観のおしつけ」をしているのに対し、Bさんは直接的な関わりを避けているため、価値観のおしつけとしての暴力性が見えにくくなっているからでしょう。いずれにせよ、両者ともパターナリズムを回避しているとは言えません。

より“マシ”なパターナリズムを模索するしかない?
こう考えてくると、私たちが誰かの「ために」何かをする(あるいはしない)場合、パターナリズムとしての批判を完全に避けるのは無理なのではないかと思えてきます。
ホームレス状態の方に出会った場合、具体的な支援を実施するにせよ、素通りするにせよ、こちらが何らかの対応をしたという事実からは逃れられず、その結果として相手に対して何らかの影響を与えてしまっている。(すでに確認してきたように素通りする場合でも「当事者を今の状況のままにおいておく、という「支援」を通じて当事者に影響を与えています)

そうであるならば、「その行為はパターナリズムだ!」と批判するとき、それがなぜ「問題だ」と言えるのかについてもきちんと主張しなければ建設的な議論にはなりません。
もしもパターナリズムを「自分以外の他者に何らかの価値観を示し、影響を与えてしまう」こととしてイメージするなら、パターナリスティックでない言動などこの世には存在しない(=あらゆる行為はパターナリズム)ということになり、批判として成り立ちません。

では、私たちが「価値観のおしつけ」や「個人の“良い生活”について他人が勝手に判断すること」を、良くないと直感的に感じるのはなぜなのでしょうか?
私は既に、〈他人の“幸せ”を自分のモノサシで勝手に決めて、自分の価値観をおしつけるようなアプローチは、相手に対する敬意を著しく欠いているし、批判されてしかるべき〉と書きましたが、この時想定している「相手に対する敬意」とは、どういった敬意なのか。

ここには、「他人に対して何が良いことかの基準を強制する行為は、〈人々が自身にとって何が良いことかを判断し行動するという自由〉に敬意をはらっていない」という直感があるように思います。
上で、Aさんの「生活保護を申請すべき」という意見に対してBさんが「今の生活が悪いときめつけるべきではない」と反対したのは、Aさんが「当事者が路上で生活するという自由」を軽視しているように感じたからでしょう。逆にAさんからすればBさんの「生活保護の申請をサポートしない」という行為は、「生活保護を利用して生活するという自由」をはく奪しているように映ったはずです。

そう考えると、AさんもBさんも、当事者の(なんらかの)自由を促進させたい、という点では同じ課題に向き合っているとも言えるのかもしれない。
ということは、(今回の例でとりあげたような)路上生活をしている方に対面した際、私たちが取り組むべき建設的な問いは、「パターナリズムに陥ることなく人々を扱うにはどのような方法をとるべきか」、ではなく、「選択の〈自由〉を促進するパターナリズムとはどのようなものか」ということでしょう。

“諦める自由”と“保障する自由”
では、「選択の〈自由〉を促進するパターナリズム」について評価するうえで、どのような作業が必要になるのでしょうか。
まず、それぞれの立場によって当事者がどのような自由を保障され、どのような自由を失うかを考えてみることが重要かと思います。

①Aさんの「生活保護で生活してもらう」という立場
この場合、Aさんのアプローチによって当事者は「生活保護で生活する自由」は保障されますが、「路上での生活を続ける自由」を失います。また、もしも生活保護での生活が半ば強制的に強いられたものであったならば、「生活保護で生活する自由」も、選択的に選ばれたものではないという意味では自由とはよべなくなりそうです。

②Bさんの「何もしない」という立場
この場合、当事者が「路上での生活を続ける自由」は守られますが、「生活保護で生活する自由」は保障されません。また、こちらが生活保護についての知識を知っているのにそれを伝えないという意味では、「生活保護について知る」自由も奪われているともいえるでしょう。

つまり、AさんのアプローチもBさんのアプローチも、自由の促進という点ではあまりに得るものが少ない(あっても非常に限定的)と評価せざるを得ません。

それでは、次のような第三の立場ではどうでしょう。
生活保護に関する知識、制度の説明をしたうえで、路上生活を続けるか生活保護の申請をするかの判断を委ねる」
この場合、当事者は「路上での生活を続ける自由」、「生活保護について知る自由」、「生活保護で生活する自由」を保障されることになります。
無論、このアプローチでも「生活保護について知らない自由」、「生活保護での生活か路上生活かを選択するという機会を与えられない自由」ははく奪されてしまいますし、その意味ではパターナリズムを回避しているとは言えないかもしれない。
しかし、私たちは保障する価値のある自由とそうでない自由について選別するという作業からも逃れられないわけですから、ある種類の自由がはく奪されているからというだけで、そのアプローチを悪いものだと批判することはできません。
そもそも(繰り返しになりますが)、「何の自由もはく奪しないアプローチ」など存在しません。
“保障する自由”と“諦める自由”を選別し、どのようなアプローチが保障する価値のある自由を促進しているか、を判断しなければいけないということですね。

今回の場合では、「Aさんの立場」、「Bさんの立場」、そして「第三の立場」によって保障される価値のある自由とはく奪される自由を整理すると以下の図のようになります。

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このように整理することを通じて、どの立場が〈保障される価値のある自由をよりよく促進できているか〉を考えることが、「支援はおせっかいにすぎないんじゃないか…」と自信がなくなった時、現場に踏みとどまって一歩前に進むために必要なのではないかと思っています。

それでは今日はこのへんで…!