シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

「スマートフォンを持てない」は、貧困か?

こんにちは!
2009年に「相対的貧困率」が発表されてから、日本国内の貧困に関する報道はかなり活発にされるようになってますよね。
とはいえ、日本の貧困に対して誰もが一様に「問題だ」と感じているかというとそんなこともないように思います。

例えば、国内の貧困当事者としてのドキュメンタリーが流れれば、「携帯を持っていて『貧困』なんておかしい」と炎上したりしてます。
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これは、まだ日本のなかで「貧困とはどういう状態か」という合意が形成されてないということを如実に表した出来事だな~と思いますし、そういう合意がこれから形成される過渡期にある日本では、こういう議論の「盛り上がり」は自然なこととも言えそうです。

こないだも(出不精の私には珍しく)スタバでコーヒーを飲んでいたら、年配のおじさんと、20代くらいの(同業者っぽい)お兄さんが議論してました。

おじさんは「戦後の日本や途上国に比べたら、現代の日本は全然マシ。携帯電話を持てなくて困る、なんて甘い」と言い、お兄さんは「今の日本の貧困は戦後や途上国の貧困とは性質が違う。相対的貧困の基準で考えるべきだ」と反論するわけです。

このお兄さんの「反論」は、日本の貧困を問題視する立場にとってはお決まりのフレーズのようになっていますよね。
ただ、この「反論」、反論になってますかね??

思うに、おじさんは「携帯電話は贅沢なもので、これを持てないのは『容認できない困窮』ではない」と判断しているように思います。
これに対し、お兄さんは「今の日本には戦後や途上国のような貧困はもうほとんどないけど、『相対的貧困』が問題としてある」という主張をしているようですが、この主張は「携帯電話は贅沢品では?」というおじさんのモヤモヤに正面から応えているわけではない。お兄さんは「昔の貧困」と「今の貧困」を同じモノサシでは測れないと言っているだけです。潜在的には「昔に比べれば今は贅沢」というおじさんの意見を少なからず受け入れているような印象すらあります。

しかし、(以前のエントリ
cbyy.hatenablog.com
で書いたように)、ある状態を「貧困」として問題提起するためには、その状態が「単なる『不平等』ではなく、『容認できない困窮状態』である」と説明する必要があり、お兄さんの応答だけでは「先進国の貧困は『戦後や途上国の貧困』よりはマシなわけで、比較的恵まれた国のなかの格差の話なのね」と理解されても仕方ないように思います。

前置きがちょっと冗長になってしまいましたが、「今の日本で携帯電話がもてない」という状態を貧困として問題提起するためには、その状態が「他の時代や地域と比べても同じ深刻さをもつ」ことを説明する必要があるということです。
そんな説明が、本当にできるのでしょうか?

というのも、長い人類の歴史のなかで人々が携帯電話をもつようになったのはほんの最近のことですから、「携帯電話を持てないというのは、単なる不平等ではなく容認できない困窮状態である」と言われてすぐに納得できる人はいないでしょう。
「じゃあ携帯電話のない時代や地域で生きていた人は全員、貧困だったってこと?」という疑問がすぐ浮かびますよね。

そこで今日は、これに挑戦してみます!

「道具」に注目していても仕方がないので、「できること」「ニーズ」に注目してみる
携帯電話が存在しなかった時代を生きた人からすれば、「携帯電話なんてなくたって楽しく生きていけるわい!」と思うはずです。

ただ、「携帯電話がない時代」は、僕のような20代にとってはちょっとリアリティがないので、もうちょっと時代を最近に近づけてみましょうか。
例えば、今の高校生から「うちは経済的に余裕がないのでガラケーしかもてないんです。」と言われたらどうでしょう?

こうなると平成生まれの人でも「いやいやいや、私が高校生のころはスマホなんてなかったけど楽しかったよ(笑)」となるんじゃないでしょうか?

いまだにラインなんて使ったことがない、という大人からしたら「何を贅沢なことを…」となりそうですね。

ただ、これをやりだすともう、キリがないです。

「わたしらの頃は携帯なんてなかったぞ!」と胸をはるおじさんに対しては、その一つ前の世代から「あなたたちの頃はポケベルがあった。わたしらのころは家庭用の電話しかなかった」と言われるでしょうし、さらにその前の世代からは「電話があるだけ裕福!わたしらのころは電報しか…」
…と、エンドレスです。最終的には「わたしらのころには狼煙しかなかった」とかになりそう(笑)

科学技術は進歩していくわけですから、「携帯電話」とか「電報」とか、「道具のレベル」だけに注目していたら、「昔に比べたら今は裕福」という話で終わってしまうにきまっています。

そこで、一旦、生活の状態を評価する基準として、この「道具のレベル」から離れてみましょう。

そもそも本質的に重要な問いは、それぞれの時代で人々が「何を持っているか/持っていないか」ではなく、そういった道具で「何ができるか/どういうニーズを満たせるか」ということでしょう。

これを先ほどの話に引き付けて考えると、「携帯電話」「家庭電話」「電報」といった道具を持っていることで何ができるのか、持っていないと何ができないのか…という視点で考えてみましょうということになります。

これらの道具でぱっと思いつく「できること/満たせるニーズ」は、
〈遠方にいる知り合いと連絡をとる〉
〈人間関係を維持/豊かにする〉
〈緊急時に助けを求める〉

…などでしょうか。

確かに「電報」が「家庭電話」「ポケベル」「携帯電話」へと“進化”することで、こういった道具が満たすニーズの水準は高くなります。
例えば、「家族が事故に遭った」等というとても緊急度の高い情報を家族に伝えるとき、その伝達速度や伝えられる情報量などは電報と携帯電話では段違いです。
しかし、ここで、「家族が事故に遭ったことを、兄弟に伝えたい」というニーズは時代や地域、生活水準に関わらず普遍的なものでしょう。

「ニーズ」そのものに注目すると、昔より今のほうが困窮していたりする
つまり、「電報しかなかった時代を生きた私にしてみれば、携帯電話は贅沢品だ」といった主張は、電報と携帯電話という「道具」を比べているだけであって、ニーズの充足状況については何も語っていない。

「電報しかない時代に電報しか使っていない人」と、「現代において電報しか使えない人」がいた場合、両者は「電報」という「道具のレベル」は同じですが、ニーズの充足状況に着目すれば、明らかに後者のほうが困窮状態にあります。
なぜなら、「道具」は時代によって変化するだけでなく、「新しい道具ができると古い道具はなくなっていく」からです。

携帯電話も家庭用電話もなかった頃は、「知り合いと連絡をとる」というニーズは電報が満たしてくれたでしょう。
しかし、多くの人が家庭用電話を持つようになると、日常の連絡手段として電報はどんどん使われなくなりました。
そうなってくると、「電話のある時代に電報だけを使える人」は周りが電報を使っていないので「知り合いと連絡をとる」というニーズを満たすことができません。

ガラケー×スマートフォン論争」にも同じことが言えます。
僕が大学2年生くらいまでは、友人との連絡といえばメールが基本でしたが、最近ではラインの普及にともなって、仕事関係以外でメールを使うことは滅多にありません。
最近の高校生も、友人との連絡手段は基本的にラインやSNSですから、携帯をもっていても、こうしたアプリが使える機種でなければ「友人と連絡をとる」というニーズを満たすことはできません。

もう一度言います。貧困について議論する際、「何を持っているか」といった「道具のレベル」を比べても仕方ありません。より本質的な問いは、「どんな〈ニーズ〉を満たせているか」、です。
今回の「携帯電話が持てない、というのは貧困か」というテーマで話をする際には、「携帯電話が贅沢か」ではなく、「携帯電話が満たしうる〈友人と連絡をとりたい〉〈緊急時に助けを求めたい〉といったニーズが贅沢かどうか」を考えるほうが建設的な議論になるということですね。

そうやって考えてみると、今の日本の高校生がスマホを持てない、というのは「友人と連絡をとりたい」といった(途上国だろうが先進国だろうが戦後だろうが2018年だろうが普遍的に存在する)極めて重要なニーズを満たせない、という意味で、「他の時代や地域と比べても同じ深刻さをもつ」(=貧困である)と評価できないでしょうか?

どんなニーズを、どの水準まで保障すべきか?
ただ、今日の話では「時代や地域に限定されない普遍的なニーズがある」ということを確認してきましたが、①「どんなニーズが保障されるべきか」という点や、②保証されるべきと合意したニーズをどの水準まで満たせば「最低限の水準を超えた」と評価できるのか、という話は全くしてません。

今回の話に引き付けて言うと、①〈友人と連絡をとる〉というニーズを満たせない状態は、本当に「容認できない困窮状態」と考えられるのか?
②仮に〈友人と連絡をとる〉というニーズを保障すべきニーズとするなら、これが最低限満たされたというのはどういう水準か?「自由に文字のやりとりができるのであればよし」とするのか、「声でやりとりできなければ不十分」とするのか?「1分間隔でやりとりできなければ問題」と考えるのか「1時間間隔でよし」とするのか?

このあたりは、継続的に議論してその都度合意形成していく必要があることですが、その際「道具のレベル」だけに注目して贅沢云々というレベルの低い話をするのはもうやめにしましょうよ、というのが今日の趣旨でした!(笑)
着地がグラグラした感が否めないですが…(多分)また来週!