シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

脱!貧困が個人の責任なのか社会の責任なのかという不毛な議論~「どっちでもいいじゃん」という「第三の道」~


お久しぶりです!
前回の投稿から100日近く経ってしまいました。

実はこの間、私は就職・引っ越し……とバタバタしておりました。
これからまた、ちょっとずつ投稿していこうと思います。

さて、今日は前回に引き続き、「労働能力・意欲」と最低生活保障の関係について、これまでとはちょっと違う視点から考えてみようと思います。

これまで生活困窮者に対して「働かざる者食うべからず」という人の意見は、該当する生活困窮者が「働こうと思えばいつでも働ける状況にあること」を証明しなければ説得力を持たないと論じてきました。

でもって「働こうと思えば誰でもいつでも働ける状況」(=意欲次第で貧困から抜け出せる状況)というのは日本の景気が良かった時期(高度経済成長期、バブル景気、いざなみ景気)であっても実現していなかったことを確認しましたね!
cbyy.hatenablog.com

しかし、理屈の上では「ある仕事Aをするのに十分健康で、かつ仕事Aが用意されているにも関わらず、『働きたくない』という理由で働かない人」を想定し、この人物の最低生活を社会が保障する必要があるのか、と問うことはできます

おそらくこういった問を立てた時、上述したような人物を社会が助けるべきだと考える人はあまり多くないのではないでしょうか?
実際、貧困を問題視する立場であっても、「貧困がいかに社会的なものとして生じているか」を強調するケースが多く、「働きたくなくて働いていない人」や「本人の努力不足と認識しうる人」を想定することはあまりありません。僕は、ここに貧困を問題提起する人たちの(ある種の)「わきの甘さ」があるように思えてならないです。なぜなら、社会保障不要論を唱える人の多くは、「個人の責任で貧困にある人」の存在を想定し、こうした人を救済することに反対しているように思えるからです。
個人的責任による貧困と社会的責任による貧困が存在すると信じている人に対し、貧困の原因は個人的なものではなく社会的なものなのだと応答し続けるというのはあまり建設的ではないように思います。
両者の議論を前に進めるためには、「貧困は自己責任か、社会の責任か」という問いをめぐって争うのをやめることだと思います。
というのも「完全に個人的な責任による貧困」「完全に社会的な責任による貧困」といったものを同定しようとすること自体が、そもそも不可能だからです。

例えば貧困状態にあるAさんとそうでないBさんがいたとします。この時、「Aさんが貧困状態にあるのはAさんの努力がBさんよりも足りなかったからだ」として、Aさんが貧困状態にあることの原因をAさんの努力不足に求める主張は、貧困が社会問題として取り上げられる際かなりの頻度で耳にします。

しかし、上の「Aさん自己責任論」は、AさんとBさんにはそれぞれ生まれながら全く同じ条件が与えられているという前提がなければ説得力を持ちません。なぜならたまたま貧困家庭に生まれたAさんは義務教育以外何の教育も受けなかったのに対し、たまたまお金持ちの家庭に生まれたBさんは小さい頃から英才教育をバンバン受けていた……という場合、AさんがBさんと同じ能力や社会的地位を獲得するためには、BさんよりもAさんが努力しなければならないのは明らかだからです。そしてこの場合、AさんはBさんの何倍の努力をしていたにも関わらず、Bさんより低い業績しか達成できない、ということは十分あり得ます。

しかし現実の社会は個人の才能といった先天的なものから、家庭環境といった社会的なものを含め、一人ひとりがおかれた状況、与えられた条件というのは全く異なります。こうした様々な条件を統一しなければ、現在貧困状態にある人が本人の努力不足で貧困に陥っているとの説明は説得力を欠きます

一方、Aさんの貧困は100%社会に原因があると証明するためには、Aさんと同じような家庭や条件を与えられた人がみんな貧困に陥ってしまうことを証明しなければいけません。が、これも不可能な試みです。なぜなら、やはり全く同じ条件のもとに成長するという二者は現実的には存在しないからです。

実際、貧困であれそうでない状態であれ、現在ある個人がおかれた状況というのは社会構造と個人の主体的な行為の相互作用の蓄積であると理解するのが妥当なところです。

貧困を問題提起したい人の多くは貧困の自己責任的な側面を否定しますが、こうした取組は場合によっては貧困にある人々の首をしめることにすらなりかねません。なぜなら、「貧困を生み出すのは個人の責任ではなく社会構造に原因がある!」と強調すればするほど(貧困にある人に落ち度はなかったのかといった)、「自己責任の度合を問う社会的な視線」を尖鋭化させてしまうからです。そして繰り返しになりますが、「貧困の原因は100%社会構造の側にある」というのは事実認識として説得力を持ちません。立証が不可能だからです。

では、貧困を問題提起する際、重要なことは何か?

それは「最低生活を営む権利」が個人の意欲や努力などを条件として保障されるという発想を変える主張を行うことです。

貧困の自己責任的な側面を認めた上で、「本人に落ち度があるとしても、最低生活は無差別平等に保障すべきである」、と開き直ればよいのです。

そして、これはそれほど突飛な考え方ではありません。
というのも、僕たちの社会が基本的人権として認めているもののほとんどは、
本人の資質や性格や生活態度がどのようなものであれ無差別平等に保障されています

例えば、義務教育を受ける権利はいかなる理由でも剥奪されることはありません。
「○○さんは授業中寝てばかりいるので明日から登校を認めない」などと教師が言おうものなら大問題になりますよね?

また、選挙での投票権も年齢や国籍の条件を満たせば禁固以上の刑に処せられたりしない限り、生活態度がどのようなものであれ剥奪されません。

同様に生存権基本的人権ですから、理念的には「労働意欲や生活態度に関わらず、所得状況などの要件を満たす(=客観的な指標で生活に困窮していると判断される)場合は無差別平等に最低生活を保障する」こととされるわけです。

よく、「義務の伴わない権利はない」という人がいますが、その際の義務の内容や強制力というのは権利の種類によって大きく異なります。レストランで食事をとる権利はお金を払うという強力な義務(条件)とトレードオフな関係にありますが、基本的人権はそのような強い強制力を伴う義務が条件として課されることはないのです。これは、基本的人権は人が善く生きるうえで極めて重要、必要不可欠な要素であると理解されているためです。

実は、戦後直後の生活保護制度は「怠惰な者や素行不良な者は対象から除外する」という「欠格条項」というものがありました。しかしその後、上述した理由でこの条項は取り除かれ、(理念上は)文字通り無差別平等に保障するということになったという歴史があります。(岩永2011:49-79)

こうした理念を念頭におくと「働かざる者食うべからず」という意見は「食う」という基本的人権が「働く」という条件を前提としている時点で、最低生活保障の理念とは相いれないことが分かります。

条件つきでない権利というものをあまり考えたことがないという人にはあまり腑に落ちない話かもしれませんが、ちょっと思考をめぐらせてみれば意外とそういった権利は少なくないことに気付くかもしれません。

繰り返しますが、貧困を問題提起し社会保障の充実を目指す際、「貧困は自己責任ではない」と主張する必要なんて全くない。「自己責任だろうが社会の責任だろうが最低生活の保障はしっかりやりましょう」という立場をとって、基本的人権の性質について訴えていった方が絶対建設的だと私は思います。

長くなりましたが、今日はこのへんで失礼します。