シャカイを、つくる。(仮)

僕たちが生きるこの社会をより良いものにするために必要だと思ふことをだらだら考え、提案する。そんなやつです。よろしく、どーぞ。

「働かざる者食うべからず」を、制度としてやってみたら・・・・・・というお話

●最低生活保障と、働く能力・働く意欲―働かざる者、食うべからず?

こんちわ!
僕は研究関心上、最低生活の理念や意味について人とディスカッションしたり、貧困や社会保障に関するニュースなどを見てなんやかんや考えるのが好きなのですが、そうしたなかで繰り返しなされる論点として、
 
「最低生活保障は労働能力のない人のみを対象にすべきではないか?」
というものがあります。
いわゆる「(健康なのに)働かざる者食うべからず」というやつですね。

まあ、素朴な感想・意見としては分かります。
実際、障害者の方や高齢者の方に対する社会保障ってのは結構社会的な合意がとりやすいんです。働けない人はほっといたら死んじゃうんじゃん、ってみんな直観的に分かるんで。
でも若くて健康な人の最低生活の保障となると、そこは自分で頑張れよという意見が少なくないんですよね。

そこで今日は、
「最低生活の保障の条件として、労働能力の有無を問うべきか」について考えてみたいと思います。
この問に対して、歴史上の先輩たちはどのように向き合ってきたのでしょうか?

 この点を考えるうえで、「貧困がどのようなものとして考えられてきたのか」というのが一つの大きなポイントとなります。
今でこそ貧困は社会の構造上生じる問題であると(少なくとも貧困研究者のなかでは)合意されていますが、このような合意に至るまでは政策の失敗を含む歴史的なプロセスがあったのです!

●100年前の貧困観と、イギリス政府の「愚策」
 遡ること400年前、法律による社会福祉の最初の形態は1601年にイギリスでエリザベス救貧法として始まりました。ところが、19世紀に生活困窮者の増加によって必要となる救済費が激増したため、生活困窮者を減らして救済費の増加を抑えることが政府にとっての喫緊の課題とされました。そこで当時のイギリス政府は、救済の方法として生活困窮者に直接給付(居住地に関係なくお金を給付)するのをやめて、過酷な労働を強いる労役場内での救済に限定することにしました。

給付を過酷な労働に限定し、それ以外の救済をやめれば、「働けるのに公的な救済に頼って働かない怠惰な貧民」が、過酷な労働を嫌って一般の労働市場で働くようになり、生活困窮者がへる!
……と考えたわけです。
                                  
 ところが「救済の引き締め」政策にも関わらず生活困窮者は減りませんでした。なぜなら(当時のイングランド南部のように豊作で農場などに)労働需要があるような地域では、救済を打ち切られた人を雇用できる条件があったため、一定の効果をあげたものの、そうでない地域では救済を打ち切られた人がそのまま生活困窮者になったからです。

・・・・・・・・・・・

 なんていうか、まあ当たり前の話ですよね?労働市場に手を付けることなく給付の引き締めを行えば、労働意欲や労働能力の有無に関わらず労働市場で働き手としての価値を評価されない(=雇われない)人たちは労働にありつけず生活困窮者となってしまうに決まっています。それでは何故このような政策を行ったのでしょうか? 
実は、当時のイギリスでは「貧困とは個人の生活習慣や意欲の問題である」という考えが一般的だったため、労働市場と個人の関係といった、社会構造という視点から貧困の発生を考えるという発想自体がなかったのです。

 しかしその後、「科学的貧困調査の創始者」チャールズ・ブースが1886年から1902年にかけてロンドンの貧困の実態・原因を調査し、貧困が飲酒・浪費などの個人の習慣の問題ではなく、不安定な労働・低賃金といった雇用の問題や、居住地の衛生問題などの環境の問題であることを科学的に証明したことを皮切りに、社会構造との関係で貧困を考えるという研究が蓄積されるようになりました。更にそのような貧困観に基づいて社会保障制度も発展させられてきたというわけです。

 こうした歴史を振り返ると、最低生活保障においては、本人の労働能力や労働意欲の有無といった個人の責任を強調するのではなく、労働市場の状況といった社会の責任を問うものでなければならないことが分かります。

ということで、今日のポイントは……
◎「働かざる者食うべからず」という意見は、ある個人がおかれた社会構造との関係をしっかりと調査し、生活困窮者が働くための様々な条件が整っているのに働いていないということを証明できなければ説得力を持たない!
ということになります!

 これ、ちょっと考えれば誰でも分かりそうなというか、当たり前の話だと思うんですが、いまだにこうした考え方が前提とされることなく「社会福祉制度引き締め論」が行われるのを度々見かけるんですよね~。本当、不思議なんですが。
「若くて健康なやつは、社会保障を引き締めれば焦って働くようになる!!」なんてのは100年以上前に行われて大失敗した愚策なんで。そんな話を2016年の今するのはもうやめましょうよ。

 でもってこういう話をすると「要するに社会保障制度なんてなくても景気がよければええんじゃん」という感想を持たれる方もいると思うので、このあたりのことについてもまた近々書ければな~と思います!^^

よろしく、どーぞ。

最低生活を保障する制度は生活保護だけじゃないんだぞ!といいつつ、やっぱし生活保護はめちゃめちゃ大事なんだぞというお話

◎最低生活を保障する制度は生活保護だけじゃない

さて、最低生活を考えるためには現状としてどのような制度が存在するのかを知るところからはじめなければ……ということで、今日は僕たちの最低生活を支える制度とその位置づけに関して簡単に整理しておきます。

前回のエントリで「学校でうけた予防接種とかも最低生活保障の理念が根拠になっている」という話をしましたが、なかには「社会保障の受益者が国民全体であることを強調するためにオーバーに言ってるんじゃないん?」と思われた方も少なくないのではと思います。

だって、憲法25条のイメージって生活保護とべったりですもんね
でも考えてみてほしいんですが、生活保護って基本的には所得保障ですよね?
ところが僕らがそこそこ幸せに暮らしていくためには所得やサービスを個別的に支給していくだけでは全然不十分であることはちょっと考えれば誰でも分かります。

例えば、公害とかの問題なんていうのはこれを防ぐために、国は個人ばっかみてたって駄目なわけです。

でもって今日紹介する社会保障制度は、全て憲法25条の最低生活保障の理念がその根拠にあると、1950年に社会保障制度審議会によって出された「社会保障制度に関する勧告」にはっきりと明記されています。

http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/syakaifukushi/1.pdf

1950年とか古っ!!!と思った人もいるかもしれませんが、この時の社会保障制度の「分類」は昨年(平成27年)に発行された高校の現代社会の教科書にもそのまま引き継がれています。

日本の社会保障制度は、日本国憲法第25条の生存権の思想を基本理念としてつくられており、社会保健、公的扶助、社会福祉、公衆衛生の4つがその中心となっている。

『高校現代社会』実数出版,253

ここからも分かるように、最低生活保障のための社会保障制度は生活保護だけじゃないわけです。僕はこのあたりのことは貧困研究者はもと強調して言えばいいのにな~と思ってます。
生活保護の制度上の不備を指摘するのも大事ですけど、そこばっか強調するとまるで生活保護利用者以外は社会保障制度を利用していないような印象を国民に与えかねないな~と。
まあ、さしあたりこの話は置いておきましょう(笑)

さて、人によって最低生活を送れなくなる理由(=つまりリスク要因)やタイミングは異なりますから、ある個人が一生のうちで一度も利用しない制度もあれば頻繁に利用する制度もあるわけですよね。そうした個人差はありますが(というよりそういった個人差があるからこそ)、僕たちの社会は(すでにちょくちょく出ているように)様々な安全網を張り巡らせています。実際、最低生活に関わる法律や制度というのは非常にたくさんあるので、ここでは代表的なものを簡単に確認することとしましょう

安全網①公衆衛生・環境衛生

 社会保障というと、「何らかの生活上のリスクに直面した人を事後的に救済する制度」というイメージがあるかと思いますが、実際には「リスクに直面しないための事前的対策」として以下のようなものが含まれます。

医療 健康増進対策、難病・感染症対策、保健所サービスなど
環境 生活環境整備、公害対策、自然保護など


こうした安全網の特徴はどのようなものでしょうか?後述するように、社会保障制度の多くは「失業者」「障害者」「高齢者」「ひとり親」など、「最低生活を送れなくなるリスクの高い人」や現在特別なニーズを持つ人々をターゲットにしているのに対し、安全網①は文字通り全ての国民の健康の維持・増進を目的とされているという点が特徴だといえるでしょう。
様々な社会制度をどのように分類するかという点に関しては多くの意見があるでしょうが、最適賃金や解雇規制といった労働基準法も「リスクに直面しないための事前的対策」として解釈できるように思います。勿論、労働市場で働いているわけではない人も多いですから、労働基準法は「すべての人々が現在直接的に享受しているサービス」というわけではありませんが、さしあたりここで改めて強調しておきたいことは、

最低生活を保障するための社会保障制度は、「失業者」「高齢者」といった特別なニーズを持つ人々のみを対象にしているわけではなく、就労の有無や老若男女を問わず全ての人を対象にしたものを含んで構成されている
ということです!

安全網②社会福祉 
最低生活を送るためにはそれなりの能力や資源が必要となるわけですが、当然そのような能力には個人差があります。例えば足に障害をもっておられる方はそうでない方に比べると移動するという能力は低いですし、子どもを一人で育てる場合と二人で育てる場合、育児に求められる個人の負担は大きく変わります。当然、そうした個人差を考慮せずに社会保障を構成してしまうと相対的に不利な立場にある方の生活は成り立たなくなってしまう。そこで、児童福祉、母子福祉、身体障害者福祉、知的障害者福祉、老人福祉といったカテゴリーごとに手当の支給や施設、サービスの提供が行われています。
(※なお、戦後の日本の社会福祉理論の構築に大きく貢献した岡村重夫(1982)は、社会福祉社会保障制度の一部とみるこのような整理を厳しく批判しています。この点はまた別のところで詳しく書きます。)

安全網③社会保険 
僕たちが生きる現代社会は様々なリスクに満ち溢れていますよね。突発的な事故に遭うかもしれないし、突然働き先が倒産するかもしれない。そこで予めみんなで保険料を出し合っておき、様々な不測の事態をカバーする(=リスクヘッジ)のが社会保健です。

医療 健康保険、後期高齢者医療制度、船員保健 など
年金 厚生年金、共済年金国民年金
雇用 雇用保健、船員保健
労災 労働者災害補償保険、公務員災害補償保険
介護 介護保険


安全網④公的扶助
さて、ここまで挙げてきた3つの安全網で「すべての国民の最低生活」を保障することができるでしょうか?安全網①はかなり広範な人々の生活水準向上に少なからず役立つでしょうが、私たちが生活に困窮するリスク要因というのは感染症や公害以外に非常に多くのものがありますから、これだけでは不十分です。だからこそ安全網②や③が整備されたとも言えます。とはいえ安全網②は特定のカテゴリーに当てはまる人でないと適用されないので、例えば医学的に障害者認定されていない方や19歳以上の若年失業者などはどれほど生活に困っていても安全網②の対象とはなりません。
それでは安全網③はどうかというと、これは対象者の条件が保険料を支払っていることが前提なので、当然保険料を払えない人は保障の対象外となります。また、仮に保険料を支払っていたとしても、保障のための支給額が十分なものとなるかは個人の掛けた年数や直面した不測の事態の深刻さによっても変わります。

 そこで、あらゆる社会保障制度を活用してもなお生活に困窮される方に対し、その不足分を補う制度として存在するのが公的扶助です。日本ではこの代表的なものが生活保護制度となります。
 そして、この生活保護が今回紹介した他の安全網と一線を画す最も大きな特徴は、生活保護制度の目的が憲法25条の生存権の理念を達成することであると法律で直接的に明記されている点です。

無論、「社会保障制度に関する勧告」を読めば、生活保護以外の安全網もその根拠が憲法25条の生存権にあることが分かります。しかし、実は各安全網を規定する法律の目的に「最低生活」が明記されているわけではなかったりします。例えば、安全網②で取り上げた社会福祉の法律である社会福祉法の目的をみてみると次のようになっています。

社会福祉
(目的)
第一条 この法律は、社会福祉を目的とする事業の全分野における共通的基本事項を定め、社会福祉を目的とする他の法律と相まつて、福祉サービスの利用者の利益の保護及び地域における社会福祉(以下「地域福祉」という。)の推進を図るとともに、社会福祉事業の公明かつ適正な実施の確保及び社会福祉を目的とする事業の健全な発達を図り、もつて社会福祉の増進に資することを目的とする。

社会福祉法


これと生活保護法に明記された生活保護制度の目的を比較してみましょう。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO144.html

第1条 この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。

このように、生活保護は他の社会保障制度のなかでも、ことさら憲法25条の生存権思想、最低生活の概念を反映した制度であることが強調されていることが分かります。

それでは、誰が生活保護を利用できるのでしょうか?

第2条 すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を、無差別平等に受けることができる。
第4条 保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。


ここで、「その他あらゆるもの」の例として健康保険や厚生年金など(=安全網②)が挙げられています 

つまり、生活保護こそ、安全網①~③をもってしても最低生活を営むことができない人を補足する最後のセーフティーネットとして極めて重要な意味を持っているということです
逆に言えば、だからこそ生活保護社会保障制度のなかで憲法25条の理念を反映していることを最も強く強調されているということでしょう。

更に強調しておきたいことは、要件を満たしさえすれば性別、年齢、労働能力の有無、生活態度に関わらず「無差別平等」に保障されるべきだとされていることです。

それでは、「要件」とは一体なんなのでしょうか?第4条から、①生活に困窮していること、②資産や能力を活用していることを公的に認められるか、という点がポイントになることが分かります。とはいえ、生活保護の要件については結構複雑なので、また別の機会に書きたいと思います。

さしあたり今日のポイントは……
◎僕たちの最低生活を保障するために、日本社会は様々な安全網をはりめぐらしており、この恩恵を受けていない人はいない。
◎なかでも生活保護制度は、最低生活保障の理念を反映することが目的であると明記された最後のセーフティーネットという極めて重要な意味を持っており、一定の要件を満たせば誰でも無差別平等に利用することができる!

……ということを知っておいて欲しいと思います。

よろしく、どーぞ。

シャカイづくりの基本中の基本!「最低生活」を、考える!

最低生活って??

さて、この記事のタイトルにも入っている「最低生活」という言葉について、どれくらいの人がその意味を知っているのでしょうか?今後のこともあるので、まずはこの確認、定義づけをしておこうと思います。
「最低」という言葉から、「どん底」の生活という印象を持たれる方もいるかもしれませんが「最低生活」とは人間らしい「最低限度の生活」という意味であって、むしろポジティブな概念です。国際的には国民の「最低限度の生活」を、国の責任のもとに保障する概念として19世紀後半よりイギリスのウェッブ夫妻を中心に「ナショナルミニマム」として提起されました(シドニー&ベアトリス・ウェッブ,高野訳1927)。(※詳しい歴史についてここで整理しても仕方がないので、関心のある方は   『社会福祉の歴史―政策と運動の展開』あたりを読んで頂ければ、ナショナルミニマムの概念の成立過程をかなり詳しく確認できます。)

社会福祉の歴史―政策と運動の展開 (有斐閣選書)

社会福祉の歴史―政策と運動の展開 (有斐閣選書)


まあ、簡単に言えば、「すべての国民がそこそこ幸せな生活を送れるように、国が色んな制度をしっかり整えましょう!」ということです。これが日本では憲法25条に「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(=生存権)として明記されていることは皆さんご存知の通り。
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM#s3


でもってこの生存権の思想を基本理念として様々な日本の社会保障制度はつくられているわけです。

まとめると……
「最低生活」とは
◎「最低」(どんぞこ)な生活ということではなく、人間らしい生活のことであり、
◎自助や共助ではなく、様々な社会保障制度による公助での保障を目指すもの
ということになっていることを理解してもらえればOKです!

しか~し!ここまで読んで頂いた方には当然次のよう疑問をもたれる方も多いと思います。

Q何故、自助や共助ではなく、公助で保障するのか?
 これは素朴な疑問として当然ありえますよね。「自分の生活くらい自分でなんとかするがな!」「困った時は家族や親せきや地域で助け合えばよろしいやん」っていう人もいるでしょうし、実際それでなんとかなってる人も多いはず。今後詳しくみていきますが、個人の生活を保障するための制度づくりってとっても「面倒」。しかも会ったこともない他人の生活を税金使って保障する(=知らない人の生活を負担する)ってことに違和感を感じる人もいて当たり前ですよね~。

Q「人間らしい生活」といわれても抽象的でよく分からないし、個人の価値観によって違うのでは? これもよく分かる疑問です。「人間らしさ」や「そこそこ幸せに生きる」ということがどういう状態か……ということに関しては100人いれば100通りの考えがあるでしょう。これを具体的に社会的な制度や施策として保障するということになると、ある特定の価値観を全ての人におしつけることになりかねないのでは?という懸念も生じますよね~。
 
Q最低生活を国が保障するっていう理念を受け入れたとして、どうやって保障するのか? 実は、国民の最低生活を保障するための制度のありようというのは国によって千差万別。これまでも歴史的に様々な方法が用いられてきたわけです。そして、残念ながら、「どんな時代、地域でもこの方法を使えば最低生活保障は達成できる!」という万能薬は今のところ見つかっていません。今後も様々な取り組みを行うなかで制度を発達させていかなければならないわけですが、これまで試されてきた様々な制度や方法の長所や短所を理解しておかなければ、これからどのような制度を育てていけばいいのか分かりませんよね。


……とまあ、ざっと考えただけでこれくらいの疑問は当然生じます。こういう点については学校では(よほどマニアックな先生でない限り)教えてくれないので、こんなことを考えたことすらないという人も多いでしょう。

一方、今この日本で生活している人のなかで、日本が採用している「最低生活」の理念やら制度と無関係な人は一人もいません。この、「無関係な人はいない」というのは色んな意味があるのですが、例えば僕たちは生まれてから今に至るまで(頼みもしないのに)予防接種を受けさせられたり学校に通わされたりしましたよね?また、僕たちはスーパー等で商品を買うわけですが、完全に自由に交換を行っているわけではなく色んな法律で「ヤバイ商品」が市場に出回らないように規制されていたりします。
こんな風に、(時に「お節介」にも感じるようなことも含んで)私たちの生活は国の法律や制度で規制されてるわけですが、そうした規制を正当化する根拠、背景として「最低生活」の理念があるわけです。でもってこうした制度は僕らが日々払っている税金によって支えられているわけです。つまり!最低生活の理念やそれに基づく制度についてよく知らないということは……

「最低生活」の定義によって僕たちの日々の生活は影響をうけるし、そのための制度がどれくらい役に立っているかよくわからないのに、税金は負担させられている

……ということになります。
なんか、腑に落ちなくないですか?(笑)。

自分達の生活を(ある意味)「決められている」ことも何となく腹が立つし、どうせなら納得して税金を払いたいってもんです。

……というわけで、このブログでは手始めに最低生活の意味や、現行の制度の役割や問題点などを紹介していくことを通じて、一人でも多くの人と「最低生活を、考える。」ことができたらな~と思っています。

よろしく、どーぞ。

このブログの趣旨とゆーか目的とゆーか・・・・・・の簡単な説明

どーも!
4年ぶりくらいにブログを再開致します、ながいゆうだいと申します。

僕は大学で社会保障のありかたについて研究してる者なんですが、
かねてから「社会保障って、なにかと色々誤解されてたりしていて
本来の意味とか意義とかが正しく認識されてないよな~」等と思ってました。


大体、社会保障の話っていうのは研究者だけが狭いとこにこもってやいのやいの
やってりゃいいってわけではなくて、
広く国民の理解をえたり合意を形成しながら進めていかんといけんわけですよ。


だって、みんなの税金で成り立ってるのが社会保障制度ですからねえ?

研究者や政治家だけで勝手に決められたら困るし面白くないじゃないですか。


さてさて、僕は研究を通して貧困という社会問題に対する自身の無力感や、
大変な境遇で生活されてきた方々に対する、既存の制度の不十分さを学んできました。

貧困を是正するために、僕たちに何ができるか……っていう問いはもうなんていうか途方もなく
デカイことで、考えること自体大儀くなってしまいがちですよね~。考えていくうちに暗い気分に
なって嫌になった~なんて人もいるだろうな~と想像します。


が、その一方で貧困について考えるってことは、よい社会の在り方について考えるってことの裏返しでもあるわけで、
そこに、僕は強烈な面白さや楽しさも感じてきたわけです。


貧困に対して今すぐ抜本的な解決の方法が見つからないからといって悲観する必要はないし、
暗い気持ちで考える必要もないわけですよ。
まずは、素朴に、最低生活について考えるということを楽しんでみればいいではないか!と。
そういう僕が感じた「楽しさ」を一人でも多くの人に、ちょっとでも感じてもらえたら嬉しいな~と。
社会保障について合コンとかでも話せるくらい敷居が低くなったらええな~と。

そんなことを常日頃思ってたわけです。


というわけで、自分の研究の着想やアイデアの備忘もかねて、
こういう形でちょっとずつ社会保障に関わる議論や「考える視点」を公開していければな~と思っとります。

よろしく、どーぞ。